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瓦版娘の事件帖  作者: 三毛猫
京を守る者たち
3/12

二話 潜入 松葉屋

 その日、京の町には、妙に耳障りなざわめきが漂っていた。

 「この間の騒ぎ、奉行所が探っておるらしい」

 そんな声を拾うたびに、弥生の胸はざわついた。

(……まさか、あの夜のこと、うちが目ぇつけられとるんやないやろな)


 落ち着かず裏路地を急ぐ。だが背にまとわりつく気配に思わず足が速まった。振り返れば、人影はない。けれど視線だけは、確かに追ってくる。


 角を曲がった先に、同心が二人、待ち構えていた。羽織の裾を正し、じっと弥生を射抜く。逃げ道は、あっさり塞がれている。

「ここで立ち話もなんじゃ。……奉行所まで来てもらおうか」


 逆らえば罪人扱い。弥生は頷くしかなかった。


 夜気の冷たさを引きずったまま奉行所へ。門をくぐると、煤けた灯の下、板戸と土間の匂いが鼻をつく。通されたのは牢ではなく小座敷。畳に正座させられ、やがて与力が帳面を抱えて現れた。


 「風間弥生。……先日の件、そなたの知ることを聞かせてもらう」


 声は淡々としていた。怒号でも威嚇でもないのに、逆らえぬ力だけは確かにあった。


「攘夷浪士と裏で繋がっていたのは誰だ」


 その言葉に、胸の奥が凍りつく。

(あの夜の浪士らは……やっぱり攘夷派か)


 告げ口すれば浪士に命を狙われる。黙れば奉行所を敵に回す。どちらに転んでも詰み。しばし躊躇した末、弥生はかすれた声を吐いた。

 「……升屋、でございます」


 与力の筆が止まる。冷たい目が射抜いてくる。

 「――升屋とな。……さては浪士どもの資金の流れに関わっとったかもしれんのう」


(……言うてしもうた。もう戻れん)


 与力は筆を置き、弥生を値踏みするように見据えた。

「町娘なら怪しまれまい。浪士も油断するであろう。裏を探り、知ったことはすべて我らに伝えよ。それ相応の礼はする」


 弥生は息を呑んだ。礼――銭の匂い。病床の父に薬を買えるだけの。


 与力はさらに続ける。

 「そなた一人では危うい場面もあろう。既に会津預かりの壬生浪士組(みぶろうしぐみ)へは話を通してある。若いながら腕の立つ者を護りにつけよう。名は……藤堂平助(とうどう へいすけ)と申す」


 壬生浪士組――壬生浪と呼ばれ、京の町人に恐れられる名。壬生村に屯所を構え、夜ごと市中を巡っては、辻斬りも不逞浪士も容赦なく斬り捨てるという。荒事にかけては右に出る者なしと噂される。


 その名に、背筋が粟立つ。壬生狼。護衛か監視か、いずれにせよ逃げ道はない。

(断れば奉行所と壬生狼を敵に回す。受ければ浪士に命を狙われる。……どないせぇ言うんや)


 脳裏に、煤けた行灯の下で咳き込む父の姿が浮かぶ。薬代も米代も足りぬ暮らし。金さえあれば――。


 やがて弥生は、小さく頷いた。

 その瞬間、自分がもう戻れぬ道に足を踏み入れたことを、痛いほど悟った。


 翌日、瓦版屋の軒先に立っていたのは、まだ若い隊士だった。小柄で涼しげな顔立ち。年は、弥生と大差なさそうだ。

 「おや、あんたが噂の瓦版娘か。俺は藤堂平助。ま、今日からはちょっとしたお目付け役だな。よろしくな」

 にかっと笑う顔は、町で恐れられる“壬生狼”の像とは似ても似つかない。

(……壬生浪士組にも、こういう人、いるんや)


 升屋へ向かう道すがら、藤堂はよく喋った。

 「瓦版ってのは儲かるのか?」

 「……たいして。けど、食いつなぐくらいには」

 「へえ。自分の書いたもんを人が読むって、案外楽しそうだな。俺も、刀より筆に持ち替えるか」

 軽口に、口元がわずかに緩む。

 「武士が瓦版なんぞ刷って、どうなさるんです」

 藤堂は肩をすくめる。

 「武士、ね……ははっ。俺ぁ江戸の御家人の倅、一応は“武士”の端くれだ。けど家は貧乏でな、食い扶持減らすのと京で一花咲かせてやろって壬生浪士組に入ったんだよ。仲間の大半は百姓や町人の出だ。だから“壬生狼”なんて呼ばれるんだろうな。――でもな、そういう連中と肩並べてる時間の方が、今はずっと楽しいんだ」


 護衛というより、世話焼きの兄のようで、気取りがない。

 「……ふふっ。(人は見かけや風潮で決めつけたらあかん、の見本やね)」


 升屋に着くと、弥生は一人で中へ入った。藤堂は外で待っている。帳場には、前回の堅物の番頭ではなく、いかにも口の軽そうな手代が座っていた。

(……当たりや。前の番頭より、こっちのほうが口軽そうやわ)


 店内をぐるりと見回し、世間話の顔でにっこり笑みを向ける。

 「いやあ、升屋さんはこの頃ますます繁盛してはるそうですね。瓦版にぜひ載せたい思て、ちょっとお話うかがえませんやろか」


 手代(しゅだい)は鼻で笑い、すぐさま得意げに舌が回り出す。

 「そらそうでっせ。うちの旦那は京でも指折りのお方やさかいな。祇園の松葉屋ともすっかり懇意で、芸妓衆からも“旦那様、旦那様”言うて持ち上げられてまっせ」


(松葉屋――茶屋か。ただ茶を出す店やなく、芸妓を呼んで酒を酌み交わす、いわば旦那衆の社交場や。金も噂も飛び交い、裏では取引や駆け引きもある。浪士どもが入り浸っていてもおかしゅうない)


 弥生は笑みを浮かべて、何気ないふうを装った。

 「いやぁ、さすがですね。商売が繁盛しているのも納得です。油も豊富に揃えてらっしゃるとか……どうやって、こんなに仕入れを?」


 「それは内緒や。儲けの秘密っちゅうもんや」

 手代の目つきが、ふっと険しくなった。


(……やっぱり、この辺は簡単には口を割らんか)


 「今日は貴重なお話、ほんまおおきに。記事にする時は、宣伝もかねてよう書いときますさかい」


 「おう、上手いこと書いとくれや」


 外へ出ると、物陰から藤堂が現れた。

 「なんか聞けたか?」

 にやりと笑いながらも、声は低い。

 「……松葉屋に通っているそうです。花街なら、何か掴めるかもしれません」

 「なるほど。ほな行こか」



(ほんまは一人のほうが動きやすいのに……この人、最後まで付いてくる気ぃやな)


 祇園には夕刻の灯がともり、笛と三味線の音がそこかしこから洩れていた。松葉屋の門前に立つ。高い格子戸は、まるで外界を拒むかのような造りだ。


 茶屋は座敷を貸し、芸妓を呼んで遊ぶ場所――しかも松葉屋は格式が高く、紹介なしでは門前払いと決まっている。


 「お引き取りを」

 出てきた女中の声は冷ややかだった。

 「お連れもない娘さんに割く暇はございません」


 戸が閉まる音が、胸に重く響く。

(……やっぱり一見は相手にされへん。中の様子は窺えず、伝わるんは微かな音と匂いだけ。さて、どうやって入る……?)


 その時、通りの隅を桶を抱えた下女が駆け抜けた。裾をからげ、汗をにじませて走る働き手。

(――あれや!道筋が見えた)


 今は祇園祭で人手が足りん。臨時の日雇いに紛れれば、内側へ忍び込めるはず。

(うまくいけば……中に入れる)


 提灯を目印に口入屋へ向かう。木戸口には「口入」と墨書があり、格子の向こうには帳場が見える。年配の男が煙管を片手に、紙を眺めていた。


 「こんばんは……お奉公先を探しておりまして」

 「年は?」

 「十六です」

 「親は?」


(できるだけ自然に……怪しまれたら、ここで終いや)

 「……病で。薬代を稼ぎとうて。他の奉公先もなかなか見つからんのです」


 男は帳面を繰り、筆を走らせる。

 「ちょうど祇園祭でな、いくつかの店舗が人手を欲しがっとる。臨時の下女や。炊事と掃除で――橘亭、白梅屋、松葉屋……」


 心臓が一拍、速く打つ。

 「松葉屋でお願いします!」


 じろりと値踏みするように見られ、男は細く煙を吐いた。

(やばっ……怪しまれたか)


 「……まぁ、よい。松葉屋に紹介してやろう。明日から勤めよ。ただし――ここで見聞きしたこと、決して口外はならん。これは暗黙の掟や」

  深く頭を下げる。

 「ありがとうございます。しっかり勤めさせてもらいます」

(――これで、中へ入れる)


 外へ出ると、物陰に隠れて待っていた藤堂が現れた。

 「どうだった?」

(……まだおった)

 「奉公で潜り込めます」

 「ほう、下女仕事か」

 「炊事や掃除なら慣れてます」

 「たいしたもんだ。女の身で、そこまでやるとは」

 「……大したことじゃありません」


 口端を上げ、藤堂はにやりと笑う。

 「女が潜ってまで探る――度胸あるな」


 視線を逸らす。胸は静かに早鐘を打つ。花街の奥、失敗は即ち致命傷。


 「ただな、無茶はするな。お前が消えたら、手がかりも消える。……何かあったらすぐに俺に言え」


 声は低い。笑みの裏には刃の光。

 「分かってます」

(――引き下がる選択肢は、最初からない)


 藤堂と別れた帰り道。石畳の先には祭の賑わいが広がり、提灯が揺れ、笛と太鼓の音が夜気に溶けていく。

 拳を小さく握りしめる。

(――明日、松葉屋の奥へ。何か一つは、必ず掴む)


 夜。家に戻ると、囲炉裏の煙の向こうに親父の姿があった。

 「親父……しばらく住み込みの奉公に出るから。薬と当分の銭は、ここに入れてある」

 「……ありがとう。事情があるんだろう。ただ、無茶はするなよ」

 それ以上は何も聞かれなかった。

 深く頭を下げ、部屋で袋に着替えと手拭いを詰める。

 月明かりに照らされた細道を、ひとり歩き出す。


 夜明け前。下女は叩き起こされる。井戸から水。囲炉裏に火。最初の仕事は釜の米。

 日の出とともに廊下と座敷の拭き上げ。障子の桟を布でなぞり、店先と庭を掃き、打ち水。芸妓と舞妓はまだ夢の中。薄暗い屋内に、働く音だけが行き来する。

 午前、市場へ走れの声。魚と野菜を抱えて戻れば、即座に包丁と釜。洗濯は山のように。川端でこすり洗い、竿に干す。汗は拭う前に次の汗。


 午後、座敷の支度。座布団を改め、行灯と燭台を磨き、盃と器を揃える。支度部屋の向こうから櫛と簪の音。衣装運びを仰せつかれば、華やかな裾を両手に抱える。一瞬だけ別世界。

(ああいう着物を着れば、私でも少しは――はい、無駄な想像の時間は終わり)

 日が暮れれば客。重い膳を抱えて廊下を往復、障子を静かに開けて出入り。煙草盆を替え、盃を下げ、残り物を片付ける。笑い声と三味線の渦。下女は目に入らず、耳だけはよく働く。噂と秘密は、だいたい盃の縁からこぼれる。


 宴の終わりは夜更け。酔い潰れを送り、布団を敷き、座敷を片付け、台所で鍋の底を真っ黒から銀までこすり上げる。火を落とし、奉公部屋に戻るのは、丑三つの手前。

(足が棒?いえ、もう薪だわ。できれば今すぐ焚き付けに)

 藁布団に身を投げれば、目を閉じるより先に眠りが追いついてくる。

 そして翌朝、また同じ一日が始まる――それでいい。

 繰り返すことで、信頼を重ね、やがて情報を掴むことができるのだから。


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