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瓦版娘の事件帖  作者: 三毛猫
京を守る者たち
2/12

一話 夜の高瀬川、人魂の灯

 弥生は、四条の辻へ出た。京の真ん中、町でもっとも人が集まる場所だ。魚売りの声に、値を張り合う女衆、駕籠に揺られる公家の行列まで。東西南北から人が押し寄せ、昼も夜も絶えない。

(ここが瓦版を売るなら一番の稼ぎ場やな)


 弥生は、四条の辻から少し外れた行きつけの蕎麦屋へ足を向けた。

 昼どきとあって、町人や旅の侍、商い帰りの女衆まで、さまざまな人で賑わっている。こういう場所は、飯場であり、同時に情報場でもあった。


 「おやっさん、いつもの」

 暖簾をくぐるなり声を掛けると、奥から親父のぶっきらぼうな声が返る。

 「はいよー。今日も噂集めか?」

 「そやねん。何かある?できたら銭になるやつ、欲しいんやけど」

 「今は特にねぇな。せいぜい、油がまた値上がりしたとか、そのくらいだ」


 親父は素蕎麦を手際よく器に盛り、どんと弥生の前に置いた。湯気の向こうで、ほかの客たちのざわめきが耳に入ってくる。こういう雑多な声の中にこそ、瓦版の種が転がっている。


 箸を取ったところで、隣の卓から低い声が漏れた。

 「……川に、お化けが出るそうな」

 弥生は耳をそばだてる。

 「よなよな高瀬川に、灯りが浮かぶんやと」

 「なんやそれ、狐火か?」

 「いや、人魂やて。流れる火が川面を渡るんやと。こないだ見た言うやつ、おるらしいで」


 店内がどっとざわめく。怪談好きは食いつき、嫌いな者は顔をしかめる。

(高瀬川に灯り……幽霊騒ぎ、か。大見出しには弱いけど、噂話としては上等や。まずは現場、見に行こ。足を動かすんが話の種探しの鉄則や)


 店を出ると、春の京の陽はすでに西に傾きかけていた。四条の辻から鴨川を渡り、さらに西へ入る。細い川筋が町家の影に沿うように流れている――高瀬川だ。

 昼間の川沿いは、荷を積んだ小舟が行き来し、荷役の掛け声や木槌の音が響く。両岸には酒屋や材木商の蔵が並び、町人たちが忙しく立ち働く。鴨川が表なら、ここは裏だが、商人にとってはこの裏こそが欠かせない流れである。

 川の水は濁り、ところどころに油のような光の膜が浮いていた。風もないのに、光だけはぎらりと走る。

(ほんまに灯りが浮かぶんやろか……)


 弥生は腰に提げた小さな板を取り出し、炭でさっと印をつける。取材の走り書きに使う、自分だけの帳面代わりだ。(紙は高い、端材はタダ――節約やな)

 夜にひとりで高瀬川を歩くのは命知らず。下見は昼、夜に歩くには二人が基本。

(……相棒は、おらんけど)


 高瀬川を後にして四条へ戻る道すがら、先斗町(ぽんとちょう)の入り口に差しかかる。鴨川と高瀬川に挟まれた細い一筋――茶屋や置屋が立ち並ぶ花街だ。近ごろは志士や浪士も出入りし、三味線や唄声が夜ごと響く。

 その通りは、夜更けだというのに煌々と灯りがともり、まるで昼のように明るかった。格子窓からは三味線の音と笑い声が漏れ、行灯の炎がずらりと川面を照らす。

(なんでこんなに油、惜しまはらへんのやろ)

 

 油は同業者の「油座(あぶらざ)」が仕切り、値は高騰中。普通の町家では行灯を一つ減らすほどなのに、先斗町だけ別世界のように光で満ちている。幽霊の灯と、この不自然な明るさ――どこかで繋がっている気がしてならない。


 その違和感を胸に刻みつけ、弥生は家路を急いだ。


 瓦版屋「風間屋(かざまや)」の暖簾をくぐると、奥から父の咳き込む声が聞こえた。布団に伏した父の顔は、昼よりもさらにやつれている。

 「親父……また咳、ひどなってへん?」

 弥生が声をかけると、父は苦しげに笑みを浮かべた。

 「へっ……年寄りの咳なんぞ、気にするな。ところで、原稿はできたのか」

 「そんなすぐ書けへんよ。……それに、彫りは休んでや。咳込みながらやと手元、危ないやろ」

 「……板木を彫るのをやめたら、ほんに終いじゃ。せめて小刀だけは握っておりたいんだ」


 彼女は言い返さず、唇を噛む。薬は残りわずか。銭入れの中身を改めても、心許ない小銭が数枚。

(早よ、金になる記事、拾わなあかん)

 板に走り書いた「高瀬川の灯」の文字を見つめる。幽霊噂か、それとも――。

(もし大きな騒ぎに繋がるんやったら……銭になる)


 父の寝息を背に、行灯の灯を細めながら、彼女は静かに決意を固めた。


 翌日の昼時、弥生はふたたび蕎麦屋の暖簾をくぐる。店内は町人や旅の侍で混み合い、湯気と出汁の匂いが立ちこめていた。

 「おやっさん、いつもの」

 「あいよ」

 主人は手際よく蕎麦を湯から上げながら、顔だけこちらに向ける。

 「……それと、しつこいけど。最近、ネタになりそうなん、ない?」

 主人は苦笑しつつ素蕎麦を置き、声を潜めた。

 「そういやな――油を扱ってる升屋(ますや)って店が、えらく羽振りがいいらしい。油座の取り決めを無視してでもどこかから仕入れてるんじゃねえかって、町じゃ囁かれてるぜ」


 「油……?」

 弥生の耳がぴくりと動いた。先斗町の煌々とした灯りの下、高瀬川に揺れる怪しい火影――その光景が、どこか油の匂いに繋がっているのでは、という疑念を呼び起こす。


 「おやっさん、ご馳走さん。勘定ここ置いとく」

 暖簾をくぐり、彼女はまっすぐ升屋へ向かった。升屋は四条の町並みに溶け込む、ありふれた油屋に見える。店先には油樽が積まれ、通りがかりの町人がちびちび買い求めていた。


 「いらっしゃい」

 帳場に座る主人は小太りで愛想がいい。弥生は客を装い、灯心油の値を尋ねる。

 「このごろ油の値、騰がってるって聞いたけど、ここはどう?」

 「へぇ……まあ、そりゃ騰がってますよ。油座の取り決めも厳しいですしね」


 主人は笑顔を崩さない。だが棚に並ぶ油壺の数は、値上がり続きの折にしてはやけに豊富だ。

(仕入れ値も高うついてるはずやのに……どこから運び込んではるんやろ)


 その時、帳場の奥――薄い襖の向こうから、かすかな声が洩れた。

「……今日も、いつも通り、例の場所で」

 耳をそばだてた弥生の胸が高鳴る。「例の場所」という言葉は、すぐに高瀬川の灯を思い起こさせた。

(例の場所……夜の高瀬川……取引かな)


 彼女は灯心油をほんの少しだけ買い求めるふりをして店を出る。壺ひとつなど到底無理だが、小瓶の重みは妙に胸をざわつかせた。


 足を速めながら、疑念と好奇心が絡み合い、熱となってふつふつと湧き上がる。


 升屋を出た彼女は、その足で家へ戻った。奥からはまた、父の咳き込む声。

 「親父、大丈夫?」

 「へっ……大丈夫じゃ。ただの痰だ」

 苦しい息の合間に、父は布団の上で小刀を握りしめている。

 弥生は薬箱を覗いた。中はもう空に近い。銭入れを改めても、小銭がわずかに転がるだけ。 

(……やっぱ記事にして銭、作らなな)


 昼間耳にした「例の場所」という言葉が頭の奥で響く。炭と板を包みに入れ、草履を履く。

 「ちょっと出てくる。すぐ戻るさかい」

 布団の中の父に届いたかどうかはわからない。


 外へ出れば、日はすでに沈み、四条の通りには薄闇が満ちていた。弥生は升屋の裏手へと向かう。


 やがて、升屋の裏手から灯りがもれた。主人と屈強そうな男が大樽を縄で固く縛り、ぎしりと軋む大八車に積み込んで押し出してくる。彼女は物陰に身をひそめ、息を殺して後を追った。


 二人は人目を避けて裏道を進み、やがて高瀬川のほとりに出る。昼間は荷役で賑わう川筋も、夜更けには人気がない。吹き抜ける風に、水の匂いと油の匂いが混じった。

(ここで、何を……)


 そのときだった。川面の奥から、火の灯りが流れてくる。暗い水面を漂いながら近づく光の列――まるで人魂がいくつも連なるかのようだ。

 弥生は思わず喉を鳴らした。だが目を凝らすと、それは小樽をいくつも連結させ、先端に小さな提灯を括りつけたもの。「幽霊の火」の正体はこれだ。

(やっぱり幽霊なんかじゃなかった)


 二人は川面の樽を引き寄せ、縄でたぐる。中には灯心油の壺がぎっしり。幕府に禁じられた油の密輸。背筋に冷たいものが走ると同時に、胸の奥が熱くなる。

(これが、記事にできたら……!)


 次の瞬間、背後で石畳が軋み、足音。

 「……何をしている、小娘」

 振り返ると、刀を差した浪士風の三人が立っていた。

 「わ、私はただ……道に迷ってしまって……」

 「ふん、夜中に女がひとりで高瀬川? 怪しいにもほどがある」


 ひとりが刀を抜く。光が川面にぎらりと反射する。喉が詰まり、後ずさった足が石畳に取られた。

(……終わった)


 刹那――鋭い声が闇を裂く。

 「やめろ、女ひとりに刀を抜くか」


 川辺の暗がりから現れたのは、鋭い眼光の男。月明かりに照らされた顔は冷たく、背筋の伸びた姿は威圧感に満ちている。

 「なにやつ!」

 「刀の錆になりたいなら、来い」


 刀が閃いた。何が起こったのか、彼女の目には追いきれない。気づけば浪士三人は次々と倒れ伏していた。

 少し遅れて、もう一人の若い男が駆けつける。細面の顔に笑みを浮かべ、手の刀は寸分の迷いもない。

 「向こうの方にもいました。あとは片付けましたよ、土方(ひじかた)さん」

 少し眉を寄せて続ける。

 「でも、……すんません、首謀らしい奴は取り逃がしました」


 「まあ、上出来だ。ご苦労だったな、総司(そうじ)


 血の匂いが風に混じる。鋭い目の男が、震える弥生を見下ろした。

 「こんなところで、女がひとりで何をしている」

 ぶっきらぼうに言い放つ声。弥生は口を乾かせながら答える。

 「……わ、瓦版屋です。高瀬川の幽霊騒ぎを取材しに来て」

 「瓦版屋?女の身でか」


 鼻で笑い、興味を失ったように視線を逸らす。 

(また、それや……)

 隣の若い男――総司が歩み寄り、やわらかな声で問う。

 「お怪我は?」

 その優しさに、張りつめていた胸の糸がふっと緩んだ。

 土方は血に濡れた刀を静かに拭い、鋭い眼差しを向ける。

 「……いいか。余計なことに首を突っ込むな。命がいくつあっても足りん」

(言い方、もうちょい考えてほしいわ)


 総司は口元を緩める。

 「土方さん、口は悪いですけど、心配してるんですよ」

 そう言って軽く会釈した。「またどこかで」

 二人の背は闇に溶け、川面の灯りだけがいつまでも揺れていた。


(お礼言えんかった。)

 弥生は石畳に膝をつき、震える手で小さな板を取り出す。炭が走り、震えながらも確かな文字を刻む。

 ――「土方」「総司」。


 弥生は夜明けまで原稿を書き上げた。筆先は震えても、紙に走る墨の線は迷わない。

 父は布団から身を起こし、咳をこらえながら版木に刀を入れる。

 「……ほんに、おまえの記事はおもろいなぁ」

 「親父の彫りがあるから、形になるんよ。まだ長生きしてな」

 二人は言葉少なに作業を進め、夜明けと同時に刷り上げた。


 次の日の昼。

 「へい、風間屋の瓦版だ! 京の夜に人魂あらわる!」

 新吉が元気よく声を張り上げ、瓦版を振って走る。弥生もその後を追い、町の反応を見て回る。

 辻ごとに人が集まり、口々に瓦版を手に取った。

 「なんと……幽霊やない、油の密輸やと?」

 「ほうほう、そりゃ大事やな」


 ざわめきは次第に大きくなり、瞬く間に町の評判となった。

(やった……!)


 胸の奥で小さく呟き、頭の中で素早く計算を巡らす。父の薬代、米代――これでようやく工面できるかもしれない。

 けれど、その評判が誰の目に留まるのか。弥生自身もまだ知らなかった。噂は足が速い。火が回るのも、また速い。

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