三話 角屋の灯、別世界の夜
翌日の夕刻、島原の大門を琴音の後に続いてくぐったところで、弥生は思わず立ちすくんだ。
煌びやかな提灯が連なり、三味線の音が夜気を震わせる。甘い香の匂いに混じって、なぜか鉄と油の匂いまで漂ってきて、胸の奥がざわりと揺れた。
(祇園以上に華やかや……まるで別世界やな。……ここが島原、男の夢の国)
「琴音、島原ってやっぱりすごいな」
弥生は思わず周りを見回した。
「そらそうよ。あんまりきょろきょろしたら笑われるで」
琴音はくすりと笑う。
「普通の女が入れる場所やないし、そら新鮮やろけどな」
歩を進めると、格子戸の奥に堂々と掲げられた大きな看板が目に入った。
そこには、力強い筆でこう記されていた――
「角屋」。
島原でもひときわ名を知られた揚屋である。三階建ての堂々たる造り、広間から小座敷まで幾つも備えた大建物。大名や豪商はもとより、諸藩の浪士まで出入りする、まさに別世界の社交場だった。
(……でかい。祇園の茶屋とはまた格が違うな)
弥生は思わず声にした。
「島原って、色んな人が利用するんやろ。敵同士が顔を合わせることもあるんやないか?」
琴音は髪を指で払いつつ、落ち着いた口調で答える。
「島原には古い掟があるんよ。どんなに敵やろうと、この場で刀を抜くのは許されへん。喧嘩は御法度。破ったら、揃って締め出されるんや」
(……なるほど。それやったら、新選組と攘夷浪士が同じ屋根の下におっても不思議やないってことか)
奥の控え間に通されると、琴音は慣れた手つきで支度を始めた。裾を直し、髪を整え、鏡の前で紅を引く。
弥生は脇に控え、荷物を片づけたり小物を揃えたりと、せっせと手を動かした。
そのとき――。
「えらいこっちゃ……!」
襖をがらりと開けて、角屋の大将が飛び込んできた。額には玉の汗。
「どうしたんです?」
琴音が振り向く。
「数人の芸妓が急に腹痛やと……今夜の大座敷に出られんのや。代わりが要るんやけど……」
大将の目が泳ぎ、やがて弥生にぴたりと止まった。
「……あんた」
「えっ、うち?」
弥生は目を白黒させる。
「そうや。お酌して、盃を運んで笑顔で座っといてくれればええ。芸の真似事までは求めん。数合わせや。……どうや、頼まれてくれんか」
「ちょ、ちょっと待って! うちやったことないで!?」
弥生は必死で首を振るが、琴音が横からにやりと笑った。
「弥生、ええやん。あたしも一緒に付くし、怖いことはあらへん。……なにより、こんな機会、滅多にないんやで」
「でも……」
「大丈夫や、化粧と衣装でどうとでもなるわ」
琴音は弥生の肩をぐいっと押し、鏡の前へ座らせた。
半ば強引に白粉を塗られ、紅を差され、髪には簪まで挿される。さらに色鮮やかな小袖を羽織らされると――。
「……わ」
鏡に映った自分を見て、弥生は思わず声をもらした。
そこにいたのは、いつもの地味な瓦版娘ではなかった。白い頬に紅が映え、黒髪に簪が光り、裾の色が灯の明かりを受けて揺れる。
「別人やん」
琴音が感心して目を細める。
「ほらな、弥生、元がええから化けるんや」
弥生は頬を赤らめ、視線を泳がせた。
(……ほんまに、これ……うち? こんなに変わるもんなんや……)
琴音の支度が整うと、彼女はちらりと弥生を見て笑った。
「ほな、ちょっと稽古や。……盃の持ち方、こうやで」
弥生は言われるままに膝を揃えて座り、両手で盃を支える。手元がぎこちなく震え、琴音に「もうちょい柔らかく」と笑われる。
「酒を注ぐときはこう。手首を返して、音立てんように……うん、そうそう」
(簡単そうに見えて、意外と難しいな……)
控え間の障子が開き、仲居が顔を出した。
「次の座敷、お二人で頼めますやろか」
琴音がうなずき、弥生の背を軽く押す。
「弥生、いこ。お酌して笑っとけばええんや」
胸の鼓動がやけに大きく響く。畳を踏みしめる足は鉛のように重い。
障子をすっと開けた瞬間、むわりと香の匂いが流れ込み、目の前に広がる光景に息をのむ。
すでに数人の舞妓や芸妓が色鮮やかな衣装をまとい、笑顔で客をもてなしていた。賑わう座敷には盃が行き交い、笑い声や三味線の音が混じり合って、外の静けさとはまるで別世界だ。
弥生の姿に気づいた客の何人かが、にやりと口角を上げて視線を送ってくる。
(……うち、ほんまにここに混じれるんやろか)
琴音が先に膝を折り、華やかに挨拶する。
「今宵はおおきに。こちら――新人どす、どうぞお手柔らかに」
にこやかに弥生を紹介し、場を和ませる。弥生もそれにならって頭を下げ、震える声で盃を差し出した。
「……どうぞ」
客のひとりが豪快に笑い、酒をあおる。
「おぉ、ようできとるやないか。初めてには見えんぞ」
(……なんとか、うまくやれとる?)
琴音が隣で自然に会話を繋いでくれるおかげで、弥生は黙々と酒を注ぎ、盃を運んだ。やがて囃子が高まり、芸妓の三味線が鳴り始める。場の空気に紛れ、弥生の緊張も少しずつほどけていった。
座敷を後にしたとき、弥生は大きく息を吐いた。
「ふぅ……なんとか終わった……」
琴音が肩を軽く叩く。
「ほらな、できたやろ? 次も大丈夫や」
弥生はまだ胸の高鳴りが収まらぬまま、控え間に戻った。
(……ただのお酌やのに、こんなに緊張するとは。けど、不思議や……少しだけ、別人になれた気がする)
仲居に導かれて、次の座敷の襖がすっと開く。
さっきよりも広い間口、几帳や屏風がきらびやかに並び、灯がいっそう明るい。盃と肴が行き交い、三味線に鼓が重なって、場はすでに佳境。舞妓、芸妓、太夫格まで入り交じって、色の波が揺れていた。
弥生と琴音は畳の端で揃って礼をし、他の女衆の流れに自然と紛れ込む。
(……この人数でも足りてないんか。さすが角屋の大座敷や)
ふと視線を走らせれば、見知った顔が。――新選組。
上座の一角では近藤が正座で身を屈め、羽織紋の違う年配の侍と低く言葉を交わしている。要件は重そうだが、声は終始穏やかだ。
その少し外れ、土方は盃を指先で弄び、女に何事か耳打ちされても眉ひとつ動かさない。短く返す言葉に女がころころと笑う。
斎藤は柱際に控え、ただ黙って酒を呷っていた。膝の角度も微動だにせず、誰とも目を合わせぬ。
沖田は寄り添う舞妓たちをいつもの柔らかい笑みで捌き、軽口を飛ばしている。
藤堂は早々に打ち解け、芸妓と扇子で手遊びをしては盃を重ね、楽しげな笑い声を響かせていた。
(新選組に加えて会津の役人まで顔をそろえとる……ただの色事やのうて、半分は接待、半分は遊び、いうとこやな)
琴音が小声で耳打ちする。
「弥生、あっちは勝手知った連中やろ。お酌してきぃ。せやけど、長居はせんこと」
「わかった」
盃台を捧げ持ち、弥生は波の切れ目を見計らって座敷へとすべり込む。
(まずは……からかい甲斐のある獲物やな)
狙いを藤堂に定め、そっと膝を寄せた。盃台を差し出すと、藤堂の目がきょとんと揺れ、すぐににやりと笑う。
「おお、えらい美人やないか。こんな子、角屋におったんか? 俺、見逃してたんかな」
(……気付いてへん)
弥生は小首をかしげ、柔らかく微笑んで盃を差し出す。
「お疲れさまでございます。……少し、どうどす?」
藤堂は盃を受け取り、目を細めて顔をのぞき込む。
「うん、ええな。酒より君の笑顔のほうが酔わせる」
(な、なに言うてんの!)
思わず袖口で口元を隠す。
「名は?」
「新人なので、まだ名をいただいておりません」
声を少し変えて答えると、藤堂は片肘をついて身を寄せ、口角を上げた。
「君、俺の好みど真ん中や」
(普段と全然ちゃう! 酔うてるんやろか……)
弥生は面白くなり、正体を明かさずもう少し遊ぶことにした。
「またまたぁ、よう言わはる。新選組のお侍はんやったら、女衆に引っ張りだこやろ」
「そんなことない。今まで会うた中で、君が一番。……あれ? 俺、“新選組”って言ったっけ?」
(やば……!)
「先ほど別の方から伺いました」
慌てて言葉を濁すと、藤堂は身を寄せ、囁くように笑う。
「まあいいや。終わったら少し、俺の相手してくれ?」
盃を受け取る弥生の指先に、藤堂の手がかすかに触れた。
(っ……!)
慌てて盃台を引き、笑顔でごまかす。
「……お叱りが飛ばんうちに、これで失礼いたします」
藤堂は肩を揺らし、名残惜しげに盃をあおる。
「待ってるからなぁ」
(からかうつもりが……逆にからかわれとるやないか!)
弥生は扇の影で唇を噛んだ。
軽く礼して身を退こうとしたそのとき、座敷の空気がふっと改まった。
近藤の席で話が一区切りついたのか、盃がぐるりと回る。拍子木が「チョン」と鳴り、芸妓たちが声をそろえた。
「おこしやす――」
掛け声とともに場がどっと沸き、ざわめきが一段と華やぐ。
(……近藤さまの席で、何か話がまとまったんやろか)
弥生は藤堂から逃げるように立ち位置をずらす。柱際の斎藤がこちらに目だけを寄越した。
(……気づかれてる? 正体、見抜かれてるみたい)
無言の刃のような視線に、背筋がひやりとする。
土方の前には、いつのまにやら琴音が座っていた。
「副長さん、盃がよう似合いやこと」
「似合うも似合わねぇも、酒は飲むためのもんだ」
素っ気ない返しに周囲がどっと笑い、琴音がうまく受け流す。
背後から藤堂の声が飛ぶ。
「おーい、新人さん。あとで、もう一度寄ってくれるやろ?」
弥生は扇で口元を隠し、苦笑まじりに答える。
「はぁい、後ほど」
(……頃合いを見て、席を外さなあかん)
やがて囃子もひと息つき、盃も空になる頃、座敷の空気は次第にゆるみ始めた。笑い声は残っているが、どこか「お開き」の匂いが漂ってくる。
琴音が弥生に目配せし、小さく囁く。
「頃合いや。失礼さしてもろて、戻ろか」
化粧を落とし、小袖を脱ぎ、いつもの町娘の姿に戻った弥生は、琴音と並んで角屋の裏口を出た。