二話 仕組まれた騒ぎ
騒ぎが収まり、通りには荒い息と血の匂いだけが残った。縄を打たれた力士崩れが、悔しげに地べたへ座らされていく。
弥生は人垣の端に立ち、身を乗り出すように耳を澄ました。
(ひょっとしたら、また話のたねが拾えるかもしれん)
「……おい。誰に指図されて暴れた」
土方が冷えた声で問いかける。
力士のひとりが鼻で笑った。
「知るかいな。わいらは好きに暴れただけや。おのれらかて同じやろ」
土方の眉がぴくりと動く。
「一緒にすんじゃねえ。俺たちはこの町を守るために刀を抜いてんだ。お前らは銭のために暴れてるだけだろうが」
その隣で、別の力士が薄笑いを浮かべた。
「ふん……狼ごときが、名前もろうてええ気になりよって。守れるもんやったら守ってみぃ、この京の町を」
土方の眼が細まり、刀の柄に手がかかる。
「なんだと……」
「歳、やめとけ」
近藤が低く制した。どっしりと腕を組み、浪士たちを睨み据える。
「こいつらは屯所で吐かせりゃいい。……歩け」
縄をかけられた力士たちは、唾を吐き捨てながら引き立てられていった。土方と近藤がその列を従え、通りの奥へ消えてゆく。
残された静けさの中、弥生の耳にはまだ「守れるもんやったら守ってみぃ」という言葉が刺さっていた。
弥生はしばしその背を見送り、顎に手を添える。
(……あの浪士の言い回し、胸に引っかかる。やっぱり、まだ裏で何かが動いてるんやろか)
「――おい」
背後から気安い声。振り返れば藤堂平助が腕を組んで立っていた。
「また何か首突っ込もうとしてる顔してるな」
「い、いや……別に。ただ、少し気になっただけや」
弥生は慌てて手を振る。
藤堂は半眼でじろりと見下ろし、深々とため息をついた。
「まったく……お前は話のたねのためなら火の中でも飛び込む気だな。ほんと、呆れるな」
弥生はごまかすように笑い、目線を逸らした。
けれど胸のざわめきは、どうしても消えてはくれなかった。
(ただの銭欲しさに暴れただけやない……裏に、まだ何かある気がする)
そのとき、弥生の視線の先で、闇に溶けるように歩いていた男がふと足を止めた。
斎藤一――先ほど稲妻のような突きを放った三番隊長だ。薄暗がりに鋭い目が光り、こちらを射抜いた気がして、弥生の胸がきゅっと縮む。
「……斎藤さん」
藤堂がすかさず声を掛け、一歩前に出る。
「今夜も鮮やかな手並みでした。お疲れさまです」
斎藤は軽く顎を引いただけで返事とし、すぐに視線を弥生へと移した。
(……この人……さっきの“突き”の)
背筋にまた冷たいものが走り、弥生は思わず息を止めた。
「……その娘は?」
低いが通る声。土方のようにぶっきらぼうではないが、感情を表に出さぬ響きに圧があった。
「ただの町娘です」
藤堂は笑みを浮かべて肩をすくめる。
「前にちょっと縁があって、うちの仕事を手伝ってもらったことがありまして」
「……そうか」
斎藤は短く返し、なおも弥生を射抜くように一瞥した。その目はなにかを測っているような冷たさがあった。
そして藤堂へと視線を戻す。
「――今夜は、同じような騒ぎがもう何件か起こってる。お前も気をつけろ」
藤堂はきりりと背を伸ばし、真剣にうなずいた。
「承知しました」
斎藤はそれ以上は何も言わず、踵を返して夕暮れの通りへ歩み去った。沈みかけた陽に背を染め、その姿は人波にまぎれていく。声をかける隙も与えないまま、あっという間に見えなくなった。
「……さて、俺も巡回に戻らないとな」
藤堂が弥生に笑みを向ける。
「余計な首を突っ込みすぎるなよ。じゃあな」
軽く手を上げて、彼もまた通りの向こうへ消えていった。
残された弥生は、ふたたび顎に手を添え、思案に沈んだ。
(同じ日に何件もこんな騒ぎ……そんな偶然、あるやろか。……やっぱり、裏で誰かが仕組んどるんかもしれん。もう少し調べてみる必要があるな)
弥生は落ち着きを取り戻し始めた市で聞き込みを始めた。
「いやぁ、えらい目にあったわ」
八百屋の主人は青菜を並べながら、声を潜める。
「あれだけの力士が一斉に暴れだされたら、どうにもならん。けどな、妙なんや?まるで合図でもあったみたいに暴れだしたんや」
(合図?誰が出したんだ)
お茶屋さんでは女将が同じようなことを言った。
「力士らの後ろに、身なりのきちんとした浪士がおったそうな。人目忍んで、あれこれ指図しとったんやて」
どこも同じ噂。――ただの乱闘ではない、と胸の奥で確信に近いものが膨らむ。
町の出入り口――木戸口に立つ番士に尋ねてみると、男は眉をひそめて深いため息をつい
「嬢ちゃん、今の京は火薬玉みたいなもんやで」
番士は声をひそめる。
「色々物騒な噂が出てる。御所を焼き討ちにして帝を連れ出す算段までしとる、そないな噂もあるんや。奉行所も新選組も阻止しようと血眼になっとる」
(……やっぱり何か企んどる人物がいるんやな)
番士はふと余計なことまで口にした。
「そうそう――昨日の騒ぎの最中、門番の何人かも鎮圧に駆り出されとったんや。あの人数、新選組だけやと抑えきれん。おかげで木戸が一時手薄になったんや」
(木戸が手薄? ……つまり、その隙に誰かが出入りしていても不思議やない)
帰り際、最近顔なじみになった荷車押しの清吉に出会った。市中で荷役をして稼ぐ男である。
「弥生ちゃん、相変わらず忙しそうやなぁ」
「清吉さん……今日もよう働いてはるね」
日焼けした頬に人懐っこい笑み。けれど、荷車を止めるたびに、手拭いで手すりをさっと拭い、指先を無意識に動かす癖があり、それが妙に耳についた。
(……変な癖やな)
「最近、荷車が消えたり……不思議な運び込み、なかった?」
問いかけに、清吉は一瞬だけ目を細め、すぐに笑顔を作る。
「……まぁ、そんな噂もちらほら聞くけんど」
「けんど……?」と弥生が首をかしげると、彼は慌てて言い直した。
「いやいや、荷なんて毎日ようけ動いとるさかい、珍しいことやあらしまへん」
(……今、言いかけたん……土佐の言葉? 気のせいかな)
弥生はわずかに眉を寄せたが、清吉はいつもと変わらぬ調子で荷車を押し直していた。
(そうか……京の町なら取引も多いし、そういうもんかもしれん)
荷車の噂を追って市中を歩き回ったものの、はっきりした証拠は得られなかった。
(見た、とか、消えた、とか……どれも曖昧や。結局何か運ばれたかもくらいしか分からん)
小板に走り書きをしていた弥生は、ふぅと溜め息をついた。
(さて……買い物も済ませとかなあかん。あ、せや、この間手伝ってくれたお礼に琴音へ差し入れしとこか)
団子を包んでもらい、祇園へ足を向ける。
松葉屋に着き、琴音の部屋の戸を叩いた。
「弥生やない。どうしたん?」
戸を開けた琴音に、団子を差し出す。
「差し入れや」
「まあ、ありがと。今お茶いれるから上がっていき」
二人で団子をつまみながら話をしていると、ふと弥生は先日の騒ぎを口にした。
「……門番が持ち場を離れた隙に、荷車が出入りしたんやないかと思うんよ」
琴音の眉がぴくりと動く。
「なるほどね」
弥生は身を乗り出した。
「これ、町の人に知らせたらどうやろ。大事になる前に注意を広めといた方がええと思うんし。瓦版に書いてもええやろうし」
琴音は腕を組んで考え込む。
「みんなで警戒できるなら悪くないかもしれんけど……」
「でしょ?」
(“消えた荷車、その行方は――”……ええ見出しや。売れるわ)
が、次の言葉でぴしゃりと水を差された。
「でも、やめといたほうがいいと思うよ」
弥生は目を瞬く。琴音は静かに続けた。
「そんな憶測を記事にしたら、京の守りが甘いって触れ回るのと同じやろ。奉行所も新選組も怒るんとちゃう? ……下手したら、敵に回すことになるかもよ」
弥生はぞくりとした。想像しただけで背筋が冷える。
(……琴音の言う通りやな。銭になりそうな話題やけど、命あってのことやもんな)
「弥生がおらんと、うちの話し相手もおらんようになってまう。危ないことには気ぃつけてな」
「……ありがとう。そう思ってくれてるんやったら、嬉しい」
銭の匂いに心は揺れるが、やっぱり無理はできない。
(やめとこ。別の話題、また一から探せばええやん)
気を取り直そうとしたとき、琴音がぱっと顔を上げた。
「そうや。弥生、お願いあるんよ。うちと一緒に島原の出座敷に来てくれへん? 一緒に行くはずやった手伝いの子が体調崩してしもうてな。ひとりは心細いんよ」
子どもみたいに頭を下げられては、断りにくい。
弥生は団子を口に運びながら考える。
(……まあ、手伝い言うても裾直しとか荷物持ちやろ。瓦版は今ちょっと手詰まりやし。それに、島原なら――思いがけんネタが転がっとるかもしれん)
「わかった。行くよ」
父には「気をつけて行け」と釘を刺され、心配そうな目で送り出された。
(心配性やなぁ……まあ、間違ってへんけど)