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瓦版娘の事件帖  作者: 三毛猫
京を守る者たち
1/12

プロローグ

 文久三年――春。


 十年前の黒船騒ぎは、いまだ京の町の格好の話題だ。海を割って進む鉄の巨船が火を噴いた――と、見てもいないくせに誰もが得意げに語る。


 そして今度は、異国の使節(しせつ)上洛(じょうらく)するらしい。横浜や大坂には異人がうようよ、物価は上がりっぱなし。最近は「京の辻でも背の高い異人を見た」とまで噂されている。

(どうせ、見た人の友だちの、そのまた友だちが見た程度だろうけど)


 そんなざわめきのただ中で、帳場の隅に座る娘が一人。煤けた行灯の明かりに照らされて筆を走らせる。女が瓦版を手伝うなんて珍しいから、冷たい目で見られたり、物珍しげに笑われたりもする。だが、弥生(やよい)は気にしない。耳に入った言葉を一つ残らず紙に刻んでいく。


 「弥生。瓦版屋の娘です」

 口にしても、別に誇れる肩書きじゃない。齢十六。世間なら嫁入り話が出る年頃だが、彼女の相手は墨と筆。父が病で倒れてからは、帳場(ちょうば)を切り盛りするのが彼女の仕事だった。食うために働く、それだけ。……のはずなのに、筆先が紙を走るたびに胸の奥で妙な熱がちろちろ燃える。

(困ったことに、これが消えそうにない)


 「おい、字をもっと大きく書け。遠目でも読めるようにな」

 布団から父の声が飛ぶ。


 「はいはい」

 返事をしつつ、内心(そんなに大きくしたら紙がすぐ尽きるでしょ)と舌打ちを飲み込む。


 父は痩せても版木だけは離さず、小刀を握って一字ずつ彫る。畳には木屑が散り、墨の匂いと混ざり合う。病には勝てなくても職人の癖には勝てないらしい。


 「へいへい、弥生姉ちゃん、今日の瓦版は何だい!」

 勢いよく戸口を開けて、小僧――新吉しんきちが飛び込んでくる。小遣い目当てに手伝っている近所の子だ。調子だけは一人前で、足の速さと口の軽さだけが取り柄。

(まあ、瓦版売りにはそれで十分や。私が表に立つと顔が割れてしまうし、探りものの噂を書いとる以上、町に広める役は新吉に任せるほかない)


 「弥生姉ぇ、見出しは“幕府右往左往! 京も大騒然”で決まりだ!」

 「馬鹿言うな。そんなもん書いたら奉行所に呼ばれるわ」

 「えー、つまんねぇ!」


 小僧が口を尖らせ、父が咳き込みながら笑う。父が彫り、弥生が書き、小僧が売る――風間屋はそんな小さなやり取りでどうにか生き延びていた。

 瓦版というのは、世間の出来事を紙に刷って売るもの。お上の触れを伝えるのが建前だが、実際は人が飛びつきそうな噂や事件の記事の方がよく売れる。

(要するに、うちの稼ぎは人の好奇心頼みってわけだ)


 一枚十文。酒一合より安い。けれど、枚数が売れれば、ばかにできない。京の辻々で声を張り上げれば、暇な町人も武士も、つい一枚と手を伸ばす。

 ネタ次第では――紙切れ一枚で笑う者も泣く者も出る。面白いし、怖い。……いや、刷ってるこっちの首が飛ぶことだってあるんだから、笑えないときもある。


 (そろそろ、新しいネタを拾わなきゃ今月も赤字だな)


 そう思いながら辻に出る。弥生はどこにでもいる娘だ。背丈も顔も人並み。髪はざっと後ろで結っただけ、前髪は頬にかかりっぱなし。着物は洗いざらしの木綿で色もすっかり褪せ、帯は古布の継ぎ接ぎ。遊女の艶もなければ町娘の愛嬌もない。

 ……ただ、ふとした拍子に頬の髪を耳にかけたりすると、近所の小僧が無駄に赤くなる程度には“見栄え”はするらしい。(本人はまるで自覚がない)


 四条の辻は今日も人でぎゅうぎゅう。魚売りの威勢のいい声、値を張り合う女衆、公家の一行が駕籠で通り、二本差しの侍が足早に横切る。袖口から漂う汗と血の匂いに、町人たちは黙って道を譲る。


 「異人がぎょうさん大坂に来てはるらしいで」

 豆腐屋の声に混じってそんな噂が耳に届く。黒船の記憶は昔話になり、今は実際に町にいる異人の話が主役。子どもは背伸びして異人の真似、大人は眉をひそめる。見た人間は少ないのに、噂はまるで全員が目撃したかのように広まっていた。


 (いつか、この町にも異国人が増えるんだろうな)


 辻斬り、放火、尊皇攘夷――物騒な噂も絶えない。茶屋の隅で耳にしたことばを軽々しく口にしただけで命が危ない、なんて話もある。京の町は、火薬に油をかけたみたいに張り詰めていた。


 けれど弥生にとっては、まだ遠い世界の話。父の店をどうにか守って、明日を生きる。それで十分のはずだった。


 ――まさか、自分の筆がその火薬に火をつけることになろうとは、夢にも思わずに。

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