剣を筆に持ちかえて_8
桃色の光沢を放つハムが食卓の中央に置かれてからしばらくが経った。その間、食卓には会話らしい会話はなく、カチャリと食器が触れ合う音が鳴るだけだった。
ルークスとウィリデはいつものように食事をしていた。
すでに日は落ちたようで外から差し込む光はない。食卓を照らすのはたったひとつのロウソクの明かりだけだった。
「……そういえば」
これまたいつものように沈黙に耐えかねてウィリデが口を開いた。
「……身体の調子は方はどうかな? ルークス」
「……ああ、すっかり良くなった」
「それはよかった! これまで薬師として腕を磨いたかいがあったよ!」
本日の夕餉は、ルークスは薄くスライスした獣肉を炙って果実のソースをかけたものと山菜のソテー、ウィリデは切り出した生の獣肉と山菜だった。そして、一人と一体の間に大きなハムが鎮座している。
身体がある程度動くようになった頃から、ルークスは自分で料理を作るようになった。ウィリデが作る名状しがたい料理に耐えられないという理由もあるが、何よりも料理をすることでウィリデの機嫌を取ることができるからだ。計画のためにやらない手はなかった。
一人と一体の間に佇む大きなハムも、肉を保存するために冬の初めにルークスが仕込んだものだった。尤も、ルークスは熟練の職人ではない上、聞きかじった知識で作ったため味は大味。ウィリデも好まない味なのか減りは遅かった。
「……ところでこの前ボクが持ってきた新しい本は読んだかい? とある一族の壮絶な運命を描いた作品なんだけど、登場人物の感情表現の繊細さが素晴らしいんだ! ぜひともキミに読んでもらいたい。本棚に置いてあるからね」
「……ああ、そのうちな」
一人と一体の会話はいつにも増してぎこちなかった。
それもそのはず、ルークスはウィリデを殺す計画で頭が一杯であったし、ウィリデの方はルークスにどうやって改めて絵を描く約束を取り付けるのか考えるので頭は一杯だったのだ。お互いがお互いのことを考えているはずなのに、両者とも自分のことで精一杯だった。
「……そういえば、例の、絵のモチーフは決まったかい?」
「……ああ」
嘘だった。ルークスは魔族のために描く絵のモチーフを考えたこともなければ、考えることすら嫌だった。
「……それはよかった! 楽しみだなあ……!」
ウィリデのぬか喜びが食卓を照らすロウソクの火を揺らした。そしてすぐに沈黙が訪れる。時折、小さな音が鳴るがそれは何か意味のある言葉ではなく、ただの生活音だった。
その沈黙を破ったのはまたもやウィリデの方だった。
「……キミの芸術の知識とセンスにはいつも驚かされてばかりだからね、どんな絵が出てきても驚く自信があるよ。どこかで学んだのかな? 人の社会には学校というものがあるようだからそこで学んだのかな? それともボクたちみたいに両親から受け継いだ技術なのかい?」
「……絵は父上から教えてもらった」
「そうなんだね、さぞかしご立派な方に違いない!」
静寂。一瞬、世界が止まってしまったのではないかとウィリデは錯覚した。普段は分厚い毛皮で遮断された冬の寒さも、今だけは感じるような気がした。
ウィリデは円滑に約束を取り付けるためにルークスの能力を褒めたつもりだった。しかし、ウィリデの予想に反してルークスは喜ぶでもなく、ただただ空虚だったのだ。ウィリデは焦った後、何がダメだったのか考え始めた。
その答えをウィリデに与えたのはルークスだった。
「……父上は殺されたよ。魔族の手で。母上も」
「え?」
「……ごちそうさま」
ルークスはそう言うと手に持ったナイフとフォークを置いて居室へ戻っていった。いつもならウィリデが一言かけるところだったが今回はなかった。できなかったのだ。
食卓に残されたウィリデの頭の中にルークスの言葉が反芻する。彼の両親は自分たち魔族に殺された。
「なんて……ひどいことをしてしまったんだ……」
ウィリデが最初に思ったことはそれだった。
ルークスの両親は魔族に殺され、魔族を激しく恨んでいるに違いないのだ。それなのに自分は彼に絵を描いて欲しいと、断ることのできない取引を持ちかけた。それは残虐なことだった。ルークスの内心を想像するとウィリデの心はじくじくと痛んだ。
(すぐにルークスに謝りに行かないと……!)
ウィリデはそう思い食卓から立ち上がろうとしたが、腰が椅子に貼りついてしまったかのように重くて動くことができなかった。もはや、魔族である自分が何を言ったとしても無駄で、よりルークスを傷つけるだけだとウィリデは理解していた。
それからウィリデは動くことはなく、いつもの寝床ではなく食卓で寝てしまった
。
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その夜、ルークスは寝台の上で目を開けた。耳をすましてもいつも近くから聞こえる小さな寝息は聞こえなかった。
(逃げられたのか……?)
どうして両親が魔族に殺されたことをウィリデに明かしてしまったのか、ルークスは自分でもわからなかった。その言葉からルークスが魔族に恨みを持っていることを見抜けないウィリデではない。ルークスがウィリデを殺す理由を持っていることに気が付かれただろう。
その結果としていつも寝床にいるウィリデが今夜はいなくなってしまった。
(まあいい……殺す手間が省けただけだ……)
ルークスは立てかけておいた剣を取り、寝台から立ち上がると抜き足差し。慎重に扉へ近づく。道中、視界の端に麦畑の絵や数々の書籍が見えた。
そして、ルークスは扉の前に立つとその先から生き物の確かな気配を感じた。少し開けると、食卓の机に突っ伏しながら眠る灰緑の毛皮を持つ魔族が見えた。
(……逃げていなかったのか?)
ルークスは扉を開くと、そのままウィリデに近づいた。ルークスが近づいていること察知することもなく、小さく寝息を立てている。その目元が少し濡れていることにルークスは気が付かなかった。
ルークスは剣を構えるとそっとウィリデのうなじに添えた。
そして、渾身の力を込めたとき、先程までいた居室から小さな物音が聞こえた。反射的にルークスは剣を引いた。
(何の音だ……?)
物音が気になるルークス。しかし、今はウィリデを殺すまたとない機会だ。物音を確認している間にウィリデが目を覚ますかもしれないのだ。現に物音によってウィリデの長い耳は機敏に反応を見せた。
(俺は……父上と母上の仇を取るんだ……!)
そう自分に言い聞かせ、ルークスは再びウィリデのうなじに剣を添えた。そして、柄を固く握るとそのまま力を込めた。