剣を筆に持ちかえて_??・上
「―――面!」
武道場に甲高い声が響いた。声の主は本条貴子という名の少女だった。
声と共に放たれた竹刀は相手の面に向かって吸い込まれる。しかし、肝心の手応えは軽く、それは試合が続いていることを示していた。すぐさま相手からの反撃を防ぐために、貴子は肉薄。鍔迫り合いの形に持ち込んだ。そして、反撃がないとわかれば竹刀を構えたままバックステップして距離を取った。
失った酸素を取り戻すため、小さく呼吸する貴子。呼吸音が面の中に響いた。
初撃を交わされた貴子は落ち着いてもう一度正眼で構えた。相手は貴子の踏み込みを警戒し、時折竹刀を当てて牽制する。
(……明日香のやつ……まーた遊んでるなあ。悪いクセだよ)
牽制のリズムが単調になったことに貴子は気がついた。相手は攻撃や防御のために牽制しているのではなく、なんとなくで牽制しているのだ。
竹刀の切っ先が当たる瞬間、貴子は手首にスナップを効かせて相手の竹刀を払った。そして、目論見通り相手が構えを大きく崩すのと同時に半歩踏み込む。そして、そのまま淀みない動作で竹刀を振り下ろした。
「―――面っ!」
竹刀の切っ先は美しい弧を描き、相手の面へ吸い込まれる。小気味よい音が武道場に響き渡った。
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「明日香〜遊んだでしょ〜! バレバレだったよ」
「あちゃー、またやっちゃった?」
「まったくもう……遊ぶクセがなかったら明日香ももっと大会でいい成績取れるのに。もったいない」
「いいのいいの。私は貴子と違ってタッパがあるわけじゃないし。剣道に強い思い入れもないから、楽しければいいの~」
「そんなもんかなあ……」
「そんなもんなの。貴子ももうちょい気楽にやりなよ~」
武道場の隅で正座をする貴子。隣には先ほどまで竹刀を向け合っていた明日香がいた。二人は面を外して側に置き、タオルで額の汗を拭っていた。用意されていたスポーツドリンクを口に含むと一息つく。
「それにしてもあっついね……」
「ほんとほんと」
「明日香は特に暑そうだよね」
「ほんとだよ〜いっそのことこの長い毛を丸刈りにしたいわ~武道場にエアコン入れてくれないかな」
「それは無理でしょ」
夏場の武道場はとにかく蒸し暑い。それに加えて、貴子たち剣道部は密閉性の高い面や籠手を着けて練習しているのだ。少し動いただけで汗がぐっしょりと出てくる。大型の扇風機が設置されているが焼け石に水で、熱風を送るだけの代物に成り下がっていた。
セミの声を背景に休憩する貴子と明日香。ふいに、明日香が口を開く。
「そういえば夏休みの宿題終わった?」
「ほとんど終わったよ。あ! それを聞いてくるってことはまさか明日香……!」
「お願い! 写さして!」
「だめです。宿題は自分で解くのが大事なんだから」
「今度アイス奢るからさ! 駅前の新しいやつ!」
「だめですー」
「よっ! 我らが部長様! 大和撫子!」
「おだててもだめです」
「数学だけでいいからー! お願い!」
「ああ! もう引っつかないで! 暑い! はあ……わかったわかった。写すのはだめだけど、今度部活が終わったら勉強会しよ? 教えるからさ」
「むむむ……しょうがない、それで手を打つか……」
なんであんたが偉そうなんだ、と貴子はいいかけたが面倒くさくなって止めた。最終的に折れるのはいつも自分の方なのだ。今更抵抗しても仕方がない。小学校から数えて数年、毎年のように夏休みの課題を手伝い、明日香を甘やかしてきた自分の責任なのだ。貴子は心の中でひとりごちた。
「ちなみに……我らが部長様は先ほどほとんど終わったといいましたが、逆に終わっていない教科あるということですね?」
「そうだけど」
「ちなみに何の教科?」
「なるほど、取引しようっていうんだね。でも残念だったね明日香。私が終わってないのは美術の宿題だから。写せるやつじゃないから取引はできないよ」
実はもうひとつ終わっていない課題があったが、貴子は明かさなかった。
それは進路調査票であった。貴子の通う高校は県内でも有数の進学校。当然、生徒の進路についてのケアは手厚く、一年次の冬休みから、定期的に進路調査票の提出の課題が出ているのだ。
一年次の冬と春に出た進路調査票は迷うことなく提出できた。しかし、二年次のこの夏に出た進路調査票はどうにも書くことができなかった。貴子は自分の将来に迷いを感じていたのだ。
そんな迷いが明日香に知れたらどんな茶化し方をしてくるのか想像もつかない。いや、逆にまったく茶化されず本気で心配されたら、それはそれで何だか変な雰囲気になる。どちらに転んでも貴子にメリットはない。だから、素直に答えなかったのだ。
「ちぇー流石優等生」
「ちなみに明日香は終わったの? 美術の宿題」
「終わったよ」
「ええ!?」
「ふっふっふ、ちょうどお盆休みに家族で美術館へ行ってきたのだよ」
美術の課題の内容はかなり適当で、何か作品をつくるか芸術作品の感想文だった。貴子は適当な映画を見てそれの感想文を提出しようと考えていたが、まさか明日香が美術館で観た作品の感想文を書くとは思いもよらなかった。
「くそう……明日香が終わってて私が終わってない宿題がこの世あるとは……」
「ほほほほ」
「はいはい、そろそろ休憩終わりだよ。練習練習」
くつくつと笑う明日香を無視して、再び面を装着する貴子。その後も明日香と模擬試合を重ねるが、最後まで一本も取らせることはなかった。
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その夜。貴子は自宅のリビングでテレビをつけながらスマートフォンを触っていた。隣接するキッチンでは貴子の母親が夕食の片付けをしており、カチャカチャと食器を重ねる音と水道を流す音がテレビの音声に混じる。
「そういえば貴子、夏休みはあと一週間くらいだけど宿題は終わったの?」
「んーぼちぼち」
「ぼちぼちってあんたねえ。お母さん知ってるんだからね、美術の宿題が終わってないって。さっき明日香ちゃんのお母さんから聞いたんだから」
「げ」
恐るべしママ友ネットワーク。貴子はそう思ったが、そもそも発端は自身の母親に教えた明日香なのだ。親友の口の軽さに貴子は心の中で悪態をついた。
「げ、ってあんたねえ……まあ、いいわ。これあげる」
母親はリビングのソファでくつろぐ貴子の前まで来ると、エプロンのポケットから一枚の紙切れを取り出す。
「なにこれ」
「美術館のチケット。確か、美術の宿題って感想文でもよかったわよね。面白い特別展示がやってるから観に行ってらっしゃい」
「えー、めんどい」
「えー、じゃありません」
「じゃあ、お母さんも一緒に行こうよ」
「だめ。お母さんはお父さんともう行ってきたから。明日香ちゃんでも誘いなさい。チケットはもう一枚あるから」
「んー」
生返事をしながら母親から二枚のチケットを受け取る貴子。テレビを消すと、そのまま二階の自室へ向かった。
自室へ着くなり、貴子はベッドに転がった。先程受け取ったチケットを目の前へもっていき、そのまま観察する。
『人類の軌跡展』。それが今開催されている特別展示らしい。貴子はスマートフォンを取り出すと、ブラウザを立ち上げて検索欄に展示の名前を入れていく。そして、ヒットした検索の一番上をタップし、公式サイトを開いた。派手なアニメーションが再生され、展示の概要が表示される。
どうやら、人類の軌跡展はその名の通り、人類のこれまでの歴史を芸術作品と共にまとめた展示で、営利、非営利問わず、世界中の団体がスポンサーをしているらしい。一年ごとに国を変えて開催されており、今年はたまたま貴子が住む日本が開催国になっているようだ。
「ふーん」
スマートフォンの画面をスワイプし、ブラウザを閉じる貴子。そして、スマートフォンとチケットをベッドの隅へ追いやると、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは終わっていない課題についてだ。もちろん、美術の課題ではない。
貴子は警察官を目指していた。
きっかけはごくありふれた理由だった。貴子の家は代々警察官を排出する家柄で、家族のほとんどは警察官かそれに関係する職業だった。当然、貴子は幼い頃から警察官の仕事について聞かされており、志すのは必然だった。
さらに、ただ志すのではなく努力も重ねた。勉学に励んで高校ではトップクラスの成績を取っている上、毎日夜遅くまで剣道の練習して大会で優勝したこともあった。
しかし、二年次に上がり、周囲が進路を考えるようになって迷いが生じたのだ。幼い頃から夢見ていた警察官という職業は、本当に自分が成りたいものなのだろうか、と。
別段、警察官という職業が悪いということではない。実際、現役の警察官である祖父母や、両親は立派な人だ。地域の人々を愛し愛される姿には、確かに憧れるものはある。
だが、どうしても胸に何かがつっかえて、納得できないのだ。
「はあ……どうして昔の私は、あんなにも無邪気に警察になろうって思ってたんだろ……」
幼き日、少なくとも小学校までは将来の夢を聞かれたときに迷わず警察官と答えていた。しかし、最近は将来のことを聞かれてもはぐらかすことが多くなった。理由はよくわからない。思春期とはそういうものなのかもしれない。貴子はそう結論付けることしかできなかった。
結局その日、貴子の悩みが解決することはなかった。




