剣を筆に持ちかえて_16
銀雪に包まれた小屋の外はまるで時が止まったかのように無音だった。時折聞こえてくるのは積み重なった雪に耐えられず折れる木の音だけ。風のさざめきも動物の足音もそこにはなかった。
打って変わって、一人と一体が暮らす小屋の中は静寂とは無縁であった。筆がキャンバスを駆ける音。薬研が薬草を砕く音。今日もルークスは居室で絵を描き、ウィリデはキッチンで薬を作っていた。
「はあ」
小さくため息をつくルークス。すっかりと伸び切った金色の髪をかき上げる。ウィリデに渡す絵を描き始めたはいいが、問題が起きたのだ。
テーマやモチーフ、構図はすでに見通しが立っている。キャンバスには木炭でアタリがつけられており、あとは色を塗り重ねるだけだ。
問題は絵を描くための画材だった。
いくら採取で顔料となる素材を集めてきても、いくら行商との交易で塗料を集めてきても限界はある。昔、ルークスが絵を描いていたときのように質の高い鮮やかな塗料を湯水の如く使うことはできないのだ。鮮やかな色彩の絵は経済的な理由から諦めざるを得なかった。
そうなれば、次に考えるのは描きたいモチーフを鮮やかな塗料なしでどうやって表現するのかだ。鮮やかなモチーフを鮮やかな塗料なしで表現した作品はいくらでもあるが、それを描くためにはモチーフに対する別角度からの解釈とより高い解像度が必要である。
結局のところ、自分が描きたいモチーフについて、ため息と共に考え続けることしかルークスにはできないのだ。自分の表現したいものに対する探求はそのまま、自分とは何かという問でもあった。答えを出すには時間が必要だった。
しかし、裏を返せばこの問題は時間をかければ解決できる。時間をかけても解決しない問題は別にあるのだ。
(……筆がそろそろ限界だ)
納得のいく絵を描くための一番の障害。それは塗料ではなく筆だった。ルークスが使っている絵筆はすべてウィリデが行商から仕入れたもので、元々は廃村などに打ち捨てられていたものだ。
当然、ルークスの手に渡る頃には毛先は四方八方に広がり、持ち手は所々ヒビが入っている状態。習作であれば騙し騙し使うことはできるが、本作であれば話は別だ。完璧で美しい精緻な線を引くためには、少々荷が勝ちすぎる。
(この辺境で上等な筆を手に入れることはできるのか? いっそのこと自分で作るか……? 筆自体は簡単な道具で作れるはず……この小屋にあるもので足りるだろう……。だが、毛皮を採るための狩りをするにもかなりの準備が必要……筆に使える毛皮を持つ動物が近くに生息しているかもわからない。行商から直接仕入れてもらうか? いや、そもそも取り扱っているかもわからないし、もし扱っていたとしても上等な毛皮は往々にして値が張る。ううむ……)
伸び切った金髪をかき上げるルークス。いい加減切らなければ作業に支障が出る。そう思ったとき、ルークスはひとつのアイデアを思いつく。
(俺の髪で筆を作ってみるか? 人の髪の毛で筆を作ったという話は聞いたことがある。試してみる価値はある……!)
ルークスは筆とパレットを置くと、居室を後にした。そして、キッチンで薬を作っているウィリデに筆を作るために必要な道具があるかどうか尋ねるのであった。
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しばらくして、ルークスはキッチンのテーブルの前に立った。傍らにはルークスの作業を見守るウィリデが控えている。
テーブルの上には製筆に使う道具が並べられている。黒曜石でできた鋭いナイフ、毛の長さを揃えるための物指、束ねた毛を止めるための紐や糊。火が燻るかまどの中には焼きゴテが入れられている。
最も重要な道具は櫛だ。これを使わなければ滑らかな描き心地の筆を作ることはできない。幸いなことにウィリデが自身の毛皮を手入れするために様々な歯の粗さの櫛を持っていた。その中からもう使わないお古をルークスは借りることにした。
「よし、筆を作っていくぞ」
「う、うん」
固唾をのんで見守るウィリデをよそに、ルークスは淀みない手つきで伸び切った金色の髪を束ねると、そのまま黒曜石のナイフで切った。
はらはらと金糸は持ち主であったルークスから離れ、窓から入る陽光を反射させながらテーブルの上に落ちた。その幻想的な光景に思わずウィリデは声を上げそうになったが、ルークスの邪魔をしないよう両手で口を抑えた。
テーブルに落ちる金糸をつまむルークス。ろくに手入れはしていなかったが、細く、柔らかく、触り心地が良かった。
(うーん、これは……中々厳しそうだ……)
自身の毛の感触を確かめ、ルークスは苦い顔を浮かべた。母親譲りの金髪はその美しさから王都や戦場では羨望の対象になってはいたが、今ここではまったく役に立ちそうになかった。
恐らく、この製筆は上手くいかないだろう。ルークスはそう思ったが、作業の手を止めることはなかった。ダメで元々なのだ。それに、失敗したとしても製筆の練習になる。上等な毛皮を手に入れた際に、この失敗の知見は大いに活かされることになるだろう。
「次はどうするんだい?」
「次は焼きごてを使って毛を真っ直ぐにしていくんだ。そうしないと次の工程で毛の長さを合わせられないし、毛先も揃わなくなるからな」
ルークスは金糸を薄い布で挟み、かまどから取り出した焼きゴテを上から押し当てた。熱された髪の毛と布から異臭が漂い始め、ウィリデが鼻を鳴らした。
「ね、ねえ大丈夫? 燃えたりしない!?」
「大丈夫、大丈夫。温度はちゃんと調整してある」
コテを外し、布と髪の毛を冷ますルークス。そしてまたコテを当てる。そうして何度も繰り返すと布の中の髪の毛は真っ直ぐに揃っていった。
ルークスは真っ直ぐになった髪の毛を束ねると、次は櫛を通し始めた。徐々に歯が粗いものから細かいものへと持ち替え、毛束を綺麗に揃えていく。都度、コテでは真っ直ぐに伸び切らなかった毛や傷のある毛を一本一本取り除いていく。
「うわ~すごい細かい作業だね……ボクには難しそう……!」
「やってみるか? 意外と上手いかもしれない」
「いいよいいよ! 今日のボクはあくまで観客だからね」
「……まあやりたくなったらいつでもいってくれ」
ウィリデが参加しないことをルークスは少し残念に思った。しかし、今は作業を進めるべきだと判断し、これ以上誘うようなマネはしなかった。
ルークスは物指とナイフを持つと、毛束に当てて慎重に長さを切り揃えていく。そして、ムラができないよう気をつけながら毛束を薄く広げ、小麦粉から作った糊を毛束の根元につけた。これで毛束が広がらないようになる。
「後は糊が乾いたら、この毛束を巻いて三角に形作ればほぼ完成だ」
「なるほどね~いつもトレーダーから仕入れていた筆はこうやって作られるんだね」
「まあ、俺がやってるのはあくまで付け焼き刃だけどな。本物の職人の作業はもっと複雑で、時間もかけている」
「そうなんだ。いつか見てみたいな~」
「機会があれば……な」
キッチンに急な静寂が訪れる。そんな機会が訪れないことはルークスとウィリデは十分わかっていた。
「さて、糊が乾くまで少し時間がかかる。少し休憩にしよう」
「う、うん、そうだね。お茶を入れるよ」
少しの休憩の後、作業を続けたルークスとそれを見守ったウィリデ。筆が完成するのは次の日のことであった。
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一人と一体は居室にいた。目の前には塗料が盛られたパレットと無地のキャンバス、そして金色の穂先を持つ一本の筆があった。
「うわあ、これがルークスが作った筆かあ……!」
「見た目は悪くないな」
特徴的な三角錐を描く筆先は質の低い糊で成形されているにも関わらず、なめらかな光沢の毛並みを持っていた。
しかし、見た目はよくとも描き心地がよくなければ意味がない。絵筆とは絵を描くための道具なのだ。
「さて、描いてみるぞ」
パレットの緑色の塗料に金糸の筆を落とすルークス。金色の毛先から徐々に緑に染まっていき、アンバランスなグラデーションを描く。
(これは……やはり……)
筆に塗料を付けたときの感触に違和感を覚えるルークス。軽すぎるのだ。
その軽さが示すのはひとつの事実である。ルークスは真一文字に筆を動かすと、キャンバスに緑色の線を引いた。
「ルークス、これって……?」
「ああ、お前も気がついたか……この筆は使いものにならない……」
ルークスが描いた緑の線は、始端は色が濃いがすぐに薄くなり、終端近くにもなれば荒く掠れておおよそ線と呼べるような状態ではなかった。それが示すのは塗料を保持する力が弱いということ。ルークスの髪の毛は動物のそれよりも遥かに細く、絵筆に適していないのだ。
さらに、ルークスは金糸の筆の柔らかさも気になった。毛自体の芯が弱く、力を込めれば容易に折れ曲がってしまう上、すぐには元に戻らない。少し筆を使っただけで手入れをしなければならないだろう。
ルークスが自身の髪の毛から作った筆は、かなり扱いにくい玄人向けの筆だった。
(塗料の乗りの悪さと筆先の柔らかさは致命的だ……。乗りが悪いから分厚く塗るときに何度も塗り直さなければいけないし、何度も塗るには毛先が柔らかすぎる。すぐに折れ曲がって、いちいち真っ直ぐに直さないといけないのは手間がかかりすぎる……)
とはいえ、絵筆として使うときの質が悪いだけで、金糸の筆の質自体は悪くない。例えば、キャンバスを立てかけるのではなく、キャンバスを置いて描けば重力によってある程度筆先が折れ曲がるのは防げるだろう。塗料の乗りの悪さも、掠れることが味になる芸術作品であればむしろ利点になる。王国から遥か東の国にはそういった類の芸術作品が存在することをルークスは知っていた。
(この筆は質自体悪くないが……今必要な筆ではない……)
やはり狩りをして野生動物の毛皮を手に入れるべきか。ルークスがそう思ったとき、隣にいるウィリデと目が合った。
頭の上に疑問符を浮かべるウィリデ。やがて、ルークスの視線が顔ではなく、少し後ろの長い尾に向いていることに気がついた。ウィリデの額から少し汗が吹き出た。
「あー、もしかして、ルークス?」
「……お前の毛皮を貰ってもいいか?」
「ええー!」
ウィリデの叫びが小屋中に響く。その振動によって、小屋の屋根に積まれた雪が音を立てて滑り落ちた。
「それはちょっと……困るよ……」
別段、ルークスに毛皮をあげることで生活に支障が出るとか、部族のしきたりで毛皮をあげることに何か深い意味があるとか、そういったことではなかった。
ただ単に、恥ずかしいのだ。同居人であるルークスにまじまじと自身の灰緑の毛皮を吟味されるのが。
「頼む」
一歩ウィリデに近づいて、再度懇願するルークス。ウィリデはのけぞることでルークスとの距離を保つ。
(ルークスたっての頼みだし協力したいけど……ボクの毛皮をあげて……筆を作るのは……何だか破廉恥すぎない!? だって毛の一本一本をあんなにじっくり見られるんだよ!?)
「ダメか?」
おずおずとウィリデを見上げながら、再度懇願するルークス。
(うっ……こんなにもルークスがお願いしてくるなんて……初めてだ……! なんだかすごく悪いことをしている気分……。よし! よし! ボクも覚悟を決めるぞ……!)
ウィリデはのけぞらせた背中を真っ直ぐに伸ばすと、両手でルークスの手を包み込み、優しく握った。
「……あげても、いいよ。でも、約束してよね、立派な筆を作るって」
「……! ああ、もちろんだ! 約束する」
ルークスの答えを聞いたウィリデは満足そうに微笑んだ。そして、ルークスの手を放すと、そのまま後ろを向いて灰緑の毛皮で覆われた長い尾を差し出した。
ルークスはナイフを手に持つと跪き、ウィリデの灰緑の毛皮にそっと触れる。人の髪の毛とは違う、芯の強い毛並みに思わずルークスは二度三度撫でた。ピクリと尾が震える。
そして、ルークスは片手で毛を束ねて房を作ると優しくナイフで切り落とした。
「もう大丈夫だ」
「そ、そうかい?」
ルークスの方に向き直るウィリデ。自身の灰緑の毛を持つルークスを見て、羞恥と安堵が混じった得もいえぬ感情を覚えた。
「それじゃあ、早速お前の毛を使って筆を作るぞ」
「あー、悪いけど、ボクは少し外の空気を吸ってくるよ……」
そういうと、ウィリデはそそくさと小屋から出ていった。毛を刈られるのですら心臓が飛び出るほど緊張したのだ。目の前でその毛が加工される光景に耐えられる道理はなかった。ウィリデは本能で逃げ出したのだ。
「ありがとう」
ルークスはウィリデを見送ると小さく呟いた。
そして、丸一日後、ウィリデの毛皮を使った筆は完成した。
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灰緑の筆を携えて、ルークスはキャンバスの前にいた。キャンバスには先日、金糸の筆で描かれた緑の真一文字がある。
いつも傍らにいるウィリデだが今日はいなかった。丁度薬を集落に届ける依頼が来たからと言って朝早く小屋を出たのだ。もちろん、外には雪が高く積もっており、そんな依頼が来るはずもなかったが。
(さて、俺の髪で作った筆よりはよさそうだが……)
ルークスは橙の塗料を灰緑の筆につけると、キャンバスにもう一本線を足した。
「おお」
思わず感嘆の声をもらすルークス。キャンバスの上に真っ直ぐで美しい橙色の線が生まれたのだ。始端から終端まで色のムラはほとんどなく、描き終わった後の筆先の曲がりもない。
(これは……そこいらの筆よりはよっぽど上等な出来だぞ)
少し楽しくなり、一本線だけでなくさまざまな図形をルークスは描いた。その姿はまるで新しい玩具を買ってもらった子どものようだった。
(これなら納得がいく絵が描けそうだ……!)
ルークスは図形が描かれたキャンバスをイーゼルから外し、居室の隅に置いてあった本作用のキャンバスを立てかけた。
そして、すっかりと柔らかくなった手で灰緑の筆を握るとキャンバスに向けた。
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本作で描くのはルークスがこれまでの旅路で得たものだ。
一見合わないように見える正反対の色でも上手く混ぜていけば美しいコントラストを描くこと。父親のパテルから教わったそれは別に絵だけの話というわけではなく、人と魔族もそうなのだ。
その者の持つ背景が違っても、愛の形は同じだということ。ルークスのためを思って母親のマーサと魔族のウィリデが偶然にも慣れない料理に挑戦したことは、人も魔族も愛の形は変わらないことを示した。
愛を持つからこそ、犯すべからざる罪を犯してしまうこと。両親を愛したルークスは魔族を、マーサを愛した叔父のパトルスは実の兄を手に掛けた。そして、先日出会った小鬼族の戦士は同胞を殺したルークスを手に掛けようとした。愛は大きな力を生み出すが、ときには間違った方向に進んでしまうことをルークスは学んだ。
罪は――器からこぼれた水を元に戻せないように――償えないこと。そして、償えない罪に絶望しても歩みを止めず、前に歩いていかなければならないこと。それがルークスが旅の終わりに見つけた答えだった。
ルークスは筆を動かす。額に汗をにじませながら。
人である自分と魔族であるウィリデが共に過ごす時間がいつまでも続くように、人と魔族が少しでも歩み寄れるように。願いを込めて。
自分と同じ思いを抱えた者が孤独にならないよう、確かにここに存在したと証明するために。
届かないかもしれない。
伝わらないかもしれない。
しかし、それでもルークスは筆を振るった。身体が汚れることを厭わず、一心不乱に。
かつて狂剣と呼ばれ、奪うことしかできなかった男は、剣を筆に持ち替えて、未来を描いた。




