剣と筆_13
橙色の光をルークスはじっと見ていた。キッチンに据えられたかまどの中で燻っているその炎は、ルークスが薪を追加するにつれて、徐々にその勢いを強めていく。
額の汗を腕で拭った。しかし、拭ったそばからまた汗が吹き出してくる。それもそのはず、すでに季節は初夏を迎えており、夜明け前でまだ薄暗いにもかかわらず、気温はすでに高かった。そんな中で火の番をしているのだ。汗はひっきりなしに流れる。
ルークスが普段は近寄らないかまどの前にいるのには理由がある。いつもルークスよりも早くに起き、かまどの番をしているウィリデが珍しくまだ寝ているのだ。
別段、病にかかったとか、怪我をしたとか、そういうわけではない。ただ単に、夜中まで薬を作っていて、遅くに寝たから遅くまで寝ているだけだ。
ここ最近のウィリデは忙しくしている。ウィリデがトレーダーから聞く話によると、人と魔族との争いが激化しているらしい。毎日のように各地で小競り合いが起きており、それに合わせて薬の需要が高まっているのだ。一度大口の納品をしたことのあるウィリデに、また大口の依頼が来ることは必然であった。
実のところ、人と魔族の争いが激化する原因を作ったのはルークスだった。彼が殺した叔父のパトルスは地域一帯の有力者を束ねていた実力者。そんなパトルスという軛を失った有力者は我先と野放図に魔族の領域へ侵攻し始めたのだ。
パトルスは土地を切り取るという明確な目的を持って魔族の領域に侵攻していた。裏を返せば魔族そのものは目的ではなく、逃げる魔族に対して不用な追撃を加えることはなかった。
一方、地域の有力者は違う。魔族に恨みを持ち復讐しようとする者から、魔族を労働力として活用しようとする者まで様々いる。そんな彼らが自らの欲望のままに魔族の領域へ侵攻すれば、魔族の死傷者が増えるのは当然のことであった。
そんな情勢など知る由もないルークスはかまどの中で燃え盛る薪を崩した。火の粉がぱちぱちと音を立てて爆ぜ、少し小屋の中が暗くなった。
しばらくして、ぐうとルークスの腹が鳴った。
いつも食事を用意してくれるウィリデはまだ寝ているが、当然自分の腹を満たすためだけに起こすわけにはいかない。ルークスは自分で食事を用意する必要があった。
キッチンの地面に作られた食料庫を開けるルークス。ルークスの腰の高さほどまで掘られたその穴には、採ってきた山菜やウィリデがトレーダーから仕入れた干し肉や小麦などが並べられている。地上よりも低い場所に作られているからか、中は少し涼しい。
(ふむ……)
食材を眺めて思案し始めるルークス。ウィリデから食料庫の中は自由にして良いといわれているが、必要以上にいたずらに浪費することは憚られる。手伝いはたまにしているとはいえ、今ルークスは生活のすべてをウィリデに依存してしまっている。いや、生活だけでなく絵を描くのに必要なものも揃えてもらっている立場なのだ。だから、食べるのは古くなって腐る直前のものが良いだろう。
食材を吟味していくルークス。そうしていると、ルークスの中にある考えが浮かんでくる。
(小麦に油、干し肉、それにいくつもの木の実……これだけあれば、料理が作れそうだ……そういえば、あいつは人が作る料理に興味を持っていたか)
書籍や絵から人が作る料理について知識はあるウィリデだったが、あくまでそれは知識だけ。実際に人が作った料理を口にしたことはなかった。そんなウィリデに料理を振る舞えば、これまでの恩を少しでも返せるのではないか。ルークスはそう考えた。
幸いなことに、ウィリデの趣味によって調理に必要な器具は揃っている。金属製の蓋付きの鍋にフライパン、網焼きグリル、はたまた計量用の天秤など明らかに普段遣いしないものまで用意されている。少なくとも調理器具の種類はそこいらの農家よりも遥かに多いだろう。
ただし、問題もあった。この小屋には調味料の類がほとんどないのだ。胡椒はもちろんのこと砂糖やバターなんてものもない。あるのはわずかばかりの塩のみであった。
(乳や卵があればもっと上等なものが作れるが……いや、ないものをねだってもしょうがない。あるもので上手く作るだけだ……!)
決断すれば後は動くだけ。ルークスは食料庫から次々と食材を取り出すと、キッチンにあるテーブルに並べ始めた。小麦粉に干し肉、山菜や木の実に干したカミンの実、それに塩や油を始めとする調味料。ルークスは料理のレシピを思い出しながら、漏れがないか確認する。
ルークスが高い身分の貴族にも関わらず、ある程度凝った料理でも作ることができるのは、実のところ母親による影響が大きい。
ルークスの母親であるマーサは家族に料理を振る舞うのが趣味のひとつではあったが、その才能は壊滅的。作り出すものすべてが前衛的かつ猟奇的だった。ルークスや使用人は再三止めようとしたが、それでも料理を振る舞おうとするので、最悪のモノができあがらないよう度々手伝っていたのだ。そのおかげで、これまで母親が作ろうとした料理に限っては美味しく作ることができるのだ。今回、ウィリデのために作る料理もそのひとつだ。
(まずは生地づくりからだな……)
ルークスはボウルに小麦粉と塩を入れると、少しづつ油を流し込みながら手で捏ね始めた。小麦粉を油を纏わせるように捏ねていくと、徐々に粘り気のある細かい粒状の生地へと変化していく。生地に力を込めると、ぼろぼろと指の隙間からこぼれ落ちた。その感触を確認したルークスはすかさず用意していた水をボウルに加えた。
また生地を練り込むルークス。ぼろぼろとした生地がだんだんと、しっとりとしたひとまとまりになっていく。ルークスはその生地をひとつの球形に成形すると、濡れた布巾でくるんだ。
(よし……これで生地は大丈夫だ。次は具材だな)
寝かせた生地を脇に追いやると、ルークスは様々な木の実が入った器に目を移した。親指の先ほどの大きさの褐色の実、こぶし大のこげ茶色の実、赤みがかった皮が柔らかい実など、冬に収穫した木の実が集められていた。
ルークスはそれをひとつずつ取り出すと、丁寧に皮を剥がし別の器へと移し始めた。茶色の衣がなくなり、木の実たちはその特徴的な薄橙の肌を露にする。
その木の実を見て、ルークスは母親のマーサのことを思い浮かべた。マーサもよく木の実を剥いていたのだ。
ルークスと同じ美しい金色の髪をたおやかに揺らしながら、真っ白な細指を器用に動かして木の実を剥く様はまるで一枚の絵画だった。溢れ出る気品に対して、木の実を剥くという俗な行為から生まれる不均衡で倒錯的なコントラストは、見たものを誰でも魅了しただろう。
もっとも、マーサが皮むきをする理由を知っているルークスや使用人からは呆れた目で見られていた。芸術的なまでに料理ができないマーサが唯一できる作業が、皮むきなのだ。
最後の木の実を剥くと、ルークスはそれらを水が沸いた鍋に投入していく。木の実はそのままだと渋みやえぐみが強すぎるので、それを取り除くためだ。熱湯にくぐらせた木の実からは固い泡が染み出し、熱湯の表面に浮いていく。そして、頃合いを見たルークスは熱湯から木の実を取り出した。
(このまま具材にしても良いが……もうひと手間加えよう)
そう考えたルークスはかまどの上にフライパンを置き、その中に湯がいた木の実を入れた。
やがて、フライパンから香ばしい木の実の匂いが漂ってくる。
(よしよし……見たことの無い木の実だったが、ほんのりと甘い香りが立ってきたな。これだったら、ちゃんと料理に合いそうだ)
ルークスはフライパンの中の香りを確認し終わると、油を加えて炒め始めた。木の実に火が通ったのを確認すると、続いて刻んだ干し肉を投入した。木の実と干し肉の水分が熱された油に反応し、ぱちぱちと音を立てた。
(生地は……いい感じに休んだな)
ルークスは鉄製の蓋付きの鍋を用意すると、その表面に薄く油を塗り始めた。そして、休ませた生地を鍋の中に入れると、鍋の中に器を作るように成形し始めた。
後は生地に先ほど炒めた具材を入れるだけだった。ルークスは具材に偏りが生まれないよう、少しずつ慎重に生地へと流し込んだ。そして、最後に干したカミンの実を具材の上に散らして、鍋の蓋を閉じた。
(よし……後は焼くだけだ……!)
厚手の手袋を着けるとルークスは鍋をかまどの中にそっと置いた。
・
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(……ん? 何だ? この匂い……)
まどろみの中、ウィリデは嗅いだことのない匂いで目を覚ました。目を開ければ、陽光に照らされた居室が見える。どうやら、太陽はすでに中天にかかっているようだ。
大きな口をあけてあくびをするウィリデ。出てくるのは素っ頓狂な声だった。猫のように背筋を伸ばせば、身体の内から乾いた関節の音が聞こえてくる。
(なんだか……香ばしくて……甘くて……これは……カミンの実の匂い?)
寝ぼけた頭でウィリデは考える。どうして小屋の中からこんなにも良い香りがするのか。
昨夜のことは覚えている。ルークスが寝た後も薬を作り、ひと段落したところで精神力に限界が来て、倒れるように眠り込んだ。だから、ウィリデは昼間まで寝ていたのだ。
(……そういえば、ルークスはちゃんと朝食を食べたんだろうか? いつもはボクが用意していたけど、今日はこんなだし。食料庫の中は自由に使っていいって伝えてるけど……。はっ! もしかして、干し肉だけとかじゃないよね!? そんな偏った食事はダメだよ!)
勢いよく身体を起こすウィリデ。そのとき、ルークスが何を食べたのか、いや何を食べようとしているのか気がつく。
「もう! もう! ルークス! 料理を作るならボクを起こしてよ~!」
ドタドタと足音を立てながらウィリデはキッチンに向かった。
「おはよう。もうすぐ焼けるぞ。悪いな、起こさなくて」
キッチンに勢いよく入ってたウィリデはそう声をかけられた。 居室とキッチンは薄い壁で隔てているだけ。起き抜けの独り言はルークスに筒抜けだったようだ。
急な言葉にウィリデは一瞬呆けたが、すぐに咳払いをするとルークスに向き直った。
「ルークス、深夜まで薬を作っていたボクを心配して、お昼まで寝かせてくれるキミの気遣いは嬉しいよ、ありがとう。でも、それとこれは話が別だよ! 前にいったじゃないか、ボクは人の作る料理に興味がある、いつか作っているところを見てみたいって」
「ああ、そうだな」
「だったら! 何で起こしてくれなかったんだい!? せっかくキミが料理を作るというのに!」
「別にあのときの話は、俺が作るという話ではなかっただろう。お前が人の作る料理に興味があって、いつか作っているところを見てみたい。本当にただそれだけの話だったはずだ。
」
「んもう! ルークスのいけず!」
「悪い悪い。次の機会があったら、そのときは起こすよ。おっと……もうじき焼き上がるぞ」
ぎゃあぎゃあと喚くウィリデを受け流してルークスは厚手の手袋を身につけると、かまどの中に手を入れた。そして、慎重に中にある鍋を取り出すとキッチンのテーブルの上に置いた。
「開けるぞ」
ルークスは鍋の蓋を開けた。
「わあ! う、うわあ~!」
鍋の中から顔をのぞかせるのは艷やかな茶色が眩しいタルトだった。小屋中に漂っていた香りが繊細になり、ウィリデは思わず鼻を鳴らした。
(これが……聞きしにまさるタルトってやつか! 木の実の香ばしい香りに、カミンの実の酸味のあるさわやかな甘い香り……よだれが出てきそうだよ……!)
ぐう、とウィリデの腹が鳴った。そんなウィリデを見てルークスはほくそ笑む。そして、タルトを鍋から取り出すと、八つに切り分けた。
「ほら、驚いていないで座ってくれ。タルトが冷める」
「え、あ、うん!」
まるで新しい玩具を買ってもらった子どものように目を輝かせるウィリデ。料理を前に鼻を鳴らすのはマナー違反ではあったが、ルークスがたしなめることはなかった。
「それじゃあ、いただきます」
「い、いただきます……」
タルトを手づかみで頬張る一人と一体。口の中に木の実と小麦の香りが広がる。
(悪くない出来だ……)
ルークスはそう思った。木の実とカミンの実の香ばしさと甘酸っぱさの調和はもちろんのこと、ザクザクとした小麦の土台とほくほくとした木の実の食感は噛むのが楽しくなる。塩のみのシンプルな味付けながら、木の実の種類の多さが複雑な風味を生み出していた。限られた材料、限られた設備を使ってこれならば十分だろう。
「……」
しかし、ルークスとは裏腹に、ウィリデの顔は険しい。タルトを一口咀嚼するとそのまま黙り込んでしまった。
その様子を見て少し心配するルークス。嫌いな食材でも入っていたのだろうか。いや、そもそもウィリデが仕入れてきた食材だ。その可能性は低い。
では、味付けが気に入らなかったのだろうか。しかし、目の前にあるタルトは最低限の食材しか使っていない。悪くいえば簡素、良くいえば素材の味を活かした味付けだ。それが理由でウィリデが嫌がるとは考えにくい。
ルークスがそんなことを考えていると、ウィリデはぼそりと呟いた。
「……しょっぱい」
「え?」
その言葉を聞いて、ルークスはもう一口タルトを食べる。塩加減は問題ない。素材の味を引き立てる良い塩梅に感じた。
「あ、そうか……!」
生肉や山菜をそのまま食べるウィリデの食生活、そして塩しか調味料のバリエーションがないことを鑑みれば理由は明白だった。
(味覚が人よりも鋭いのか……?)
ウィリデの味覚が鋭いならば、これまでルークスに出してきた簡素な食事にも合点がいく。あの味が薄い料理は別段療養食というわけではなく、ウィリデにとっては一般的な普通の食事なのだ。
(はあ……味覚の違いに気が付かないとは……体格や生活様式が異なれば味覚が違うのは当たり前のことなのに……)
自分の思慮の至らなさに気落ちするルークス。そんなルークスを見て、ウィリデはタルトをもう一口。
「……しょっぱいけど、美味しいよ。なんだか複雑ですごい味だね」
「無理して食べなくてもいいんだぞ? 塩分を摂りすぎるのは身体に悪いとよくいうし……」
「無理なんてしてないよ! せっかくキミが初めて作ってくれた料理なんだ、食べさせておくれよ」
このままでは押し問答が続いてしまう。そう考えたルークスはあるアイデアを思いつく。
「わかった……少し待てるか? 同じものは時間がかかるから作れないが……余った食材で別のものを作ろう」
「そ、それって、今から料理をするってこと!?」
「ああ、そうだ」
「手伝ってもいいかな!?」
「もちろんだ」