剣を筆に持ちかえて_10・下
「ルークスが帰ってこない……」
がらんとした小屋の中でウィリデはそう呟いた。
両親が魔族に殺されたことをルークスがウィリデに打ち明けてから二日経った。昨日の朝、食卓で目を覚ましたウィリデはすぐにルークスに謝ろうと居室へ向かった。しかし、そこにはルークスはいなかった。
あんなことを打ち明けてすぐなのだ。きっと魔族である自分に顔を合わせるのができなのだとウィリデはその場では納得をして、特に探すようなことはしなかった。
しかし、今朝になってもルークスは戻って来なかった。戻ってきた形跡すらなかった。ルークスとの共同生活が始まってもう一年近く立つが、初めてのことだった。
「うーん、まさか……トラブルに巻き込まれたとか? この辺りは誰も住んではいないけど、集落も遠いわけじゃないし……」
ウィリデがまず考えたのはルークスがトラブルに遭遇した可能性だ。小屋の周辺には深い森が広がっており、誰も住んではいないが一応魔族の領域に属する。もし魔族と出会ってしまっていたら、凄腕の戦士であるルークスだからこそ最悪の事態になりかねない。万一のことを考えるとすぐに薬を持って探しにいかなければならないだろう。
しかし、ウィリデが動かないのはルークスはトラブルに遭遇していないと考えたからだ。昨日、日課の野草摘みに出かけたときに、辺りに血の匂いを始めとする戦いの痕跡は感じなかったし、薬を届けた集落で人の戦士が出没したという噂は全く聞かなかった。
トラブルに巻き込まれた可能性がない以上、ルークスは自らの意思で小屋を離れたと判断する他ない。それが意味することはひとつしかなかった。
「ルークス……ちゃんと帰れたかな」
帰ったのだ。ウィリデとの取引を反故にして、ルークスは元々自分がいた場所へ帰ったのである。
これで人に絵を描いてもらうというウィリデの目的は果たせなくなった。しかし、ウィリデはルークスに対して失望も怒りも感じなかった。
そもそも、身体の治療を盾にした不公平な取引だ。折を見て改めて絵を描いてもらえるよう頼み込むつもりであったから、ウィリデの中ですでに取引は形骸化しており、効力を失っていた。
加えて、魔族と人が共に過ごすこと自体が異例なことで異常なのだ。両者は水と油のように決して交わることはない。いつか破綻するのはわかっていたし、そのいつかが今だったというだけだ。
ただ、失望も怒りも感じなかったウィリデだったが、少しだけ悲しかった。ルークスと過ごした日々は、ウィリデにとって楽しかったのだ。
絵の保存方法、古い書籍の手入れ方法、肉の切り方にカトラリーの使い方、綺麗にさえずる鳥の名前、聞いたことのない人の言葉、ルークスは共に生活する中でたくさんのことを教えてくれた。どんなに小さく些細なことでも、一日にひとつでも新しいことを知ることができるのは楽しかったのだ。
だから、ルークスがいない生活に戻るのは悲しくて淋しかった。しかし、悲しくて淋しいとはいえ仕方がない。自分とルークスは魔族と人だ。この一年がただ特別な日々だったのだ。ウィリデはそう自分に言い聞かせた。
「はあ……」
いつの間にか傾いていた麦畑の絵を直しながら大きくため息をつくウィリデ。願わくば、わがままが許されるのならば、もう一度ルークスの顔を見たかった。言葉は交わさなくていい。遠くから見守るだけでいい。ただ、ルークスが元気でやっているのか確認したいのだ。
そう、これは経過観察。ルークスの治療が上手くいったかどうか、身体がちゃんと治ったかどうか最後に確かめるだけなのだ。これは薬師として当然の、やらなければいけないことなのだ。
そうやって言い訳をしていると、ウィリデの足は自ずと小屋の出口へ向いていた。
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『それで……あなたたちは金髪の戦士に返り討ちにあったんですね?』
『ええ、そうです。全く、あんな凄腕が護衛してるなんて聞いていませんよ。これじゃあ商売あがったりです!』
『それなら、盗賊まがいのことはこれっきりにすることです』
小屋を出てからおよそ半日後、ルークスを追うウィリデは魔族の一団と共にいた。彼らは皆武装しており、人の街道から少し離れた丘陵に野営していた。話を聞いてみると、どうやら昨日、人の隊商を襲ったらしい。
しかし、彼らの襲撃は失敗したようだ。野営地にいるほとんどの魔族は重症な上、端には何かを隠すように寝藁が積まれている。
『……その隊商はどの方角に進みましたか?』
『薬師さん、あの隊商を追うのですか? それはやめた方がいい。我々は十四名もの戦士で襲いましたがこの有り様です。あなた一人でどうにかできるものではない』
『別に私は襲いに行くわけでは……』
『まあしかし、治療もしていただいたことですから、お教えしますけどね。あの隊商は東の街道を進みましたよ』
『東の街道……? それはつまり……』
『そう、”あの”都市ですよ。一年前、同胞が大攻勢をかけようとした、あの大都市です』
ウィリデの予想はやはり的中していた。
ルークスを追うと決めた後、次に考えたのは彼がどこへ行ったかである。彼は戦士であり、一年前の魔族と人の戦争に参加していたと考えると、魔族の目標であった大都市に住んでいたと考えるのが妥当であった。ゆえに、ウィリデは東の大都市を目指してルークスを追い、この魔族の一団と会ったのである。
(急げばルークスに追いつける! でも……!)
今すぐにこの野営地を後にすればルークスに追いつけるかもしれない。ウィリデは今すぐにでも出発したかったが、結局は野営地に残ることにした。ここには今すぐに治療を必要とする戦士が多すぎるのだ。薬師としてこの状況を放っておくことはできない。
それに、元々は彼ら魔族の戦士の自業自得ではあるが、傷をつけたのはルークスだ。一年も共に暮らした元同居人として、その所業はできる限り正したかった。
そういった思惑があり、ウィリデは野営地の魔族一体一体に治療を施すことにした。
『薬師さん、あなたはあの戦争に参加しましたか? 我々はあの戦いに直接参加できなかったんです。後詰めとして待機していて、あの激戦があった平原にはいなかったのです。敗残する同胞を見て、我々がどう感じたかわかりますか?』
『……いえ』
『我々も”ああ”なりたかったと思ったのです。負けるなら、戦って負けたかった。戦わずに負ける、これほど屈辱的なことはありません』
『だからあなたたちはこんな盗賊まがいのことをして、その鬱憤を晴らしているのですか? それに何の意味があるんですか?』
『薬師さんはあの戦争に参加していないんでしょうね……それならば、我々の気持ちは理解できないでしょう。しかし……あの戦争の意味を考えると……結局は意味などないのかもしれません。だけど……意味などなくても、私たちは何かをせずにはいられないのです。まあ……その結果が今の惨状なので目も当てられませんが』
そう言い終えると治療を受けている魔族は黙り込んでしまった。そしてそれから、ウィリデも戦争の話題について触れることはなかった。
結局、ウィリデが野営地の戦士を一通り治療し終わると次の日の朝になっていた。
『薬師さん、何から何までありがとうございました』
『いえ、薬師として当然のことをしたまでです……では、そろそろ私はここを発ちますね』
『本当にありがとうございました。あなたが何のためにあの隊商を追っているのかはわかりませんが、ご武運を祈っています』
『……ええ、ええ。私もあなた方が無事に故郷へ帰れるよう祈っています』
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丸一日後、ウィリデは東の都市近くの森までたどり着くことができた。強行軍のせいで身体は疲労一杯であったが、これからルークスに会えるかもしれないと考えると不思議と身体は動いた。
「ようやくルークスを見つけられそうだ……でもどうしてこんな森の中にルークスの匂いがあるんだろう?」
東の都市へ続く街道とルークスの匂いをたどりながら進んでいたウィリデであったが、目的地に近づくに連れて新たな謎が生まれていたのだ。
それはルークスが街道から都市に入ってから、一日も経たずに別の道から都市を出たことだ。ウィリデの小屋から都市までそれなりの道程だったはず。加えて、魔族からの襲撃があった。普通、数日休憩をしてもおかしくない。
さらに、ルークスが向かったこの森も違和感があった。魔族も人もおらず、かすかな小動物の気配がするだけだった。目指すにしてはあまりにも普通の森であった。
「雨脚が強くなる前に見つけないとね……」
先ほどからポツリポツリと雨が降ってきている。このまま本降りになってしまえばルークスの匂いは掻き消え、これ以上追うことはできなくなるだろう。
ウィリデは早足で森の中を駆けた。
ルークスはすぐに見つけることができた。泥の中に座り込んでおり、遠目からでも様子がおかしいことがわかった。口元はかすかに動いているようだが、雨が地面を叩く音で何をいっているのかは聞き取れない。見えるけれど聞こえない。一体と一人の距離はそれくらいだった。
(ルークス……どうしたんだろ? 何の計画もなくここまで来ちゃったけど、喋りかけても大丈夫だろうか? イヤイヤ! せっかくここまで来たんだし……)
ようやく見つけたルークスを目前に、どうやって話しかければいいか考え込むウィリデ。あんな別れ方をしたのだ。いつものようにおどけた調子で話しかけるのは違うだろう。ルークスは取引を反故にしたのだ。むしろ毅然とした態度の方が相応しい。しかし、どうやらルークスの様子はおかしい。ここは優しく接するのも選択肢のひとつだ。
そんなことをウィリデが考えていると、ルークスの方で動きがあった。
右手に持った剣を腹に突き立てると、そのまま力を込めたのだ。
「え?」
あまりにも自然で、あまりにも不可解な動きにウィリデは一瞬動揺してしまった。しかし、すぐに状況を理解し、ウィリデは駆け出した。
(何やってんの!?)
ウィリデは自分の背中にピリピリとした悪寒が走るのを感じた。ルークスの行動は過去にウィリデが治療を試みたある戦士たちと同じ行動だったからだ。
四肢を使い全力疾走するウィリデ。すぐにルークスの元にたどり着いた。
「ルークス!」
ウィリデはすぐさまルークスの腹の状態を確認する。
「これは……!」
彼の腹の様子を見てウィリデは愕然とした後、安堵の息を漏らした。ルークスの剣は腹に突き刺さらなかったのだ。恐らく、腹に突き刺さる瞬間、ガラスのように破砕したのだろう。摩耗しきった刀身の破片はルークスの正面でバラバラになっていた。
「……お前は……どうしてここに?」
急に現れたウィリデを見て眉ひとつ動かさずにルークスはそう呟いた。
「そ、そんなことはどうだっていいんだ! キミは……一体何をしているんだい!?」
「俺は……俺は……」
「え?」
「もう、疲れたんだ……」
すっかり生気を失ったルークスの顔を見てウィリデは困惑した。初めて出会ったときの方がまだマシに見えた。いつもの理知的な表情は見る影もなく、たどたどしくて弱々しい。瞳の焦点は合っておらず、ウィリデを見ているようで見ていない。どこか迷子の子どもを彷彿とさせるような表情だった。
そのルークスの様子を見てウィリデはひとつの病に思い当たる。
(死に至る病……!)
それは大昔に人の医者が発見した病である。内傷や外傷が無いにも関わらず徐々に生気が失われていき、そのまま自らの手で死を選んでしまうと伝えられている難病だ。長い研究の末、精神性の疾患ということまでは判明したが、治療方法はまだ確立されていない。
しかし、ひとつだけわかっているのは治療に当たる者は一挙手一投足、ちょっとした会話にも気を配らなければならないことだ。過去の文献によると、『がんばって治療していきましょう』の一言で患者は死に至ったという。
(死に至る病については素人だけど……どう診てもルークスの症状は末期だ。今まさに死のうとしていたことがその証拠……! まずは何としても死ぬのを止めないと!)
そのためなら実力行使も辞さない。ウィリデはそんな腹づもりだった。
ウィリデはルークスの側に寄ると剣の破片を隠すように陣取った。死をできるだけルークスから遠ざけるためにだ。そして、所在なさげなルークスの腕をとると、包み込むように手のひらを握り、まるで何かを教え諭すように口を開いた。
「ボクの小屋を出てから何があったか教えてくれるかい?」
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ルークスはぽつぽつと口を開いた。
ウィリデの小屋を後にして街道に着いたこと、街道で出会った隊商の護衛をして魔族を追い払ったこと、都市に着いて両親の仇が叔父であると知ったこと、そしてその叔父を自らの手で殺したことを。
そして、ウィリデとの出会いから遡って、戦争で多くの魔族を殺したこと、魔族を殺すために昼夜問わず剣を振り続けたこと、剣を振るのは魔族に復讐するためだったこと、両親を魔族に殺されたと思っていたこと、半生をまるで濁流のように口から吐き出した。
ウィリデはなぜルークスが一流の戦士にも関わらず、芸術の造詣が深いのかようやく知ることができた。両親から受け継いだ、芸術に向けられていた想像力をすべて魔族へ復讐することに注いだのだ。その想像力は剣を鋭く振るイメージへと昇華されたのである。
それがわかると同時に、ウィリデの胸は締め付けられるように痛んだ。
(ボクは……なんて酷いことをしてしまったんだ。両親を魔族に殺されたと思っていたルークスに、いくら事情を知らなかったとはいえ絵を描いて欲しいだなんて……。絵を描く約束をしたとき、ルークスはどんな気持ちだったんだろう……)
きっと、それは憎くて憎くてたまらなかっただろう。
そんな憎むべき自分の言葉で彼の死に至る病を止められるだろうか。
(あっ……)
そこでウィリデは気がつく。ルークスの死に至る病を止められる、唯一の言葉を自分が持っていることに。その言葉はウィリデの中ではすでに価値を失っていたが、ルークスにとってはまだ価値があるかもしれない。彼は十年近くも折れることなく復讐を続けてきたのだ。
しかし、その言葉はあくまで一時しのぎであり、欺瞞でもあった。この言葉によって将来的に死に至る病がより悪化する可能性もある。
だから、ウィリデは覚悟を決めた。
「ルークス、キミはすごく頑張ったんだね。そんなキミを労いたいんだけど、何かできることはあるかい?」
「……わからない。今はとにかく寝たい……」
「そっかそっか。じゃあ身体をきれいにして温かい場所で寝なくちゃね」
「……そうだな」
「じゃあ、さ。良かったらボクの小屋に来ないかい? 近くに身体をきれいにできる川もあるし、温かい寝床もあるよ」
「……それは……できない……もうこれ以上誰かに迷惑はかけられない」
ルークスの反応はウィリデの予想通りだった。叔父に騙されていたとはいえ、勘違いで魔族を殺し続けてきたのだ。これ以上、魔族の手を煩わせるわけにはいかないと考えているのだろう。どこまでも律儀でどこまでも生真面目だった。だからこそ約束という言葉が刺さるのだ。
「おやおや、ルークス、キミはそんなことを言える立場なのかい?」
「……どういうことだ?」
「ルークス、ボクは悲しいよ。キミがボクと結んだ約束を忘れてしまうなんて……!」
「……あ」
「キミの身体の治療の代わりにボクに絵を描く、忘れたとはいわせないよ! 診たところ、キミの傷はまだ治っていないようだね。だったら、まだボクが約束を守る番だ。さあ、帰るよ!」
ウィリデの言葉を聞いたルークスは困ったように微笑みを浮かべる。
「ああ、そうだ、そうだったな……」
ルークスはそう言うと、安心したのか全身の緊張を解いて泥の中に倒れ込んだ。ウィリデはそれを優しく抱き上げると、そのまま運び出した。




