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谷々越と中村の会話は続く。
その横で蓮実は、今も考次郎さんが生きているとするなら、と年齢を数える。
七十八に二十五を足せば、百三歳。考次郎と歳が近いと仮定すると、やはり茂木かつらも百歳前後だ。生まれは大正の初め頃だろうか。一世紀はとてつもなく長い。
「だから、谷々越さんや辻堂さんに言われて調べてから、今さらですが、おかしいと思ったんです。年代をさかのぼってみて、さらにおかしいと思いました。もし仮に茂木さんが私と同世代の方だったとしても、四~五歳で年賀状なんて出しませんよ。消印を見ると、年賀状が届きはじめたのは終戦から三年経った頃です。とすると、七~八歳。その歳でこんなに綺麗な字が書けるでしょうか。書けたとしても、親しい友人ならともかく、三十近くも年の離れた大人の男を相手に年賀状なんて。……お二人なら、出そうと思いますか?」
すると中村がわずかに語気を強めた。その顔には戸惑いの色が濃い。
瞳を揺らしながら、まるで縋るように尋ねる中村に、すっかり慣習になっているものほど気づかないものなのかもしれないと蓮実は思った。盲点というか、なんというか、他人に指摘されて初めて気づくことは、日常生活の中でも意外と多かったりするものだ。例えば、標準語だと思ってずっと使っていた言葉が、実はお国訛りだったりとか。
茂木かつらの年賀状も、きっとそういうものだと思う。考次郎が長年に渡ってやり取りをしていた相手なのだ。中村も不思議に思うことなくやり取りを続けていたのだろう。
「いえ、僕ならまず出そうとは思いません」
「私も出さないと思います」
きっぱり否定した谷々越に続いて、蓮実も可能性を否定する。
学校の先生なら、あるいは――とも思えなくもないが、考次郎の職業は呉服店の店主だ。四~八歳頃の年頃の子供が知り合う相手とは、やっぱりなかなか思えない。
「ならやはり、茂木さんは父と歳の近い方と考えたほうが自然……」
「その可能性のほうが強いかと思います」
呟くように言った中村の言葉尻を谷々越が引き継ぎ、ひとつ首肯する。
「でも、なぜ考次郎さんは茂木かつらからの年賀状を別に取っておいたのでしょうか。家族の誰にもなにも言わず、ひっそりと。――なにか深い関わりがありそうですね」
と、そのとき、プルルルと電話の音が鳴り響いた。固定電話からだ。中村ははっとして立ち上がり、足早に居間を出ていった。ややして戻ってくると、
「警察からでした。検死が終わったそうです」
座布団に座り直し、はあ……と深く息をつく。
「そのご様子だと、詳細まではわからなかったようですね」
「ええ。骨は人骨で間違いないそうですが、保存状態がよくなかったために、はっきりとした死亡年月まではまだわからないそうです。……遺骨の大きさから推測される年齢は、当時の年代も考慮すると七、八歳。おそらくは男の子だろうということでした。やはり覚えはありませんかと聞かれましたが、つい先日まで知らなかった私に覚えなんてありません。昨日まで警察の方が身元の判明に繋がるようなものがないか丹念に調べていましたが、表情が芳しくなかったところを見ると、なにも出てこなかったんだと思います。骨は綺麗にされたあと、警察のほうで『身元不明』として保管されるそうです」
谷々越がなんとも言えない声で尋ねると、中村は力なく首肯し、詳細を語った。
といっても、警察にだって調べてもわからないことは多いようだった。無理もないと蓮実も思う。今までしてきた谷々越の推理通りだとするなら、男の子と思われる骨は戦争前後のものなのだ。今年は戦後、七十四年。身元を調べるにはあまりに時が経ちすぎている。
「――なら仕方ありませんね。蓮実ちゃん、東北新幹線のチケットの用意を」
すると谷々越がきっぱり言って立ち上がった。居心地が悪くなったのか、その拍子に三郎がするりと腕から逃れ、谷々越を見上げて目をしばたたく中村の足下に頭突きをかます。
そういえば、猫が頭突きをするのは親愛の証なのだという。『大好きだよ』――そう言っているのだそうだが、果たしてなぜ〝大好き〟が頭突きなのか。……やっぱり猫は謎だ。
「ま、待ってくださいっ。まさか岩手まで行くつもりですか?」
三郎の頭を押さえた中村も慌てて立ち上がる。どうしてここまでするのだろうという純粋な驚きと、それを凌ぐほどの大きな戸惑いにひどく狼狽している。
「そうですよ」
しかし谷々越は、いかにも、といったふうにサラリと肯定した。
よく見ると谷々越の目の奥がキラキラと輝いている。なにがなんでも真相を知りたいらしい。とはいえ、蓮実だってこのままでは喉に小骨が刺さったようで気持ち悪い。満を持してと言うべきか、外の世界に解き放たれた谷々越の行動力は、時としてものすごいのだ。
一瞬、怯んだ顔を見せた中村に谷々越は続ける。
「見たところ、茂木かつらの住所はずっと変わっていません。生きていても、亡くなっていても、この住所には茂木かつらの関係者が住んでいる可能性が高いと思います。一貫して同じ住所から年賀状を送っているところを見ても、考次郎さんとなんらかの深い関わりがあることは間違いないでしょう。わからないなら足で稼ぐしかないんです。このままでは、骨の身元は永久にわかりませんよ。……可哀そうじゃないですか、まだ幼いのに」
「……」
そう言われて、中村はぐっと押し黙った。最後のひと言が効いたらしく、返す言葉もないようだった。けれど、しばらく逡巡すると中村は覚悟を決めたようにはっと顔を上げる。
「――わかりました」
その目からは、並々ならぬ決意がよく見て取れた。
「蓮実ちゃん」
「はい。自由席、指定席、グリーン車、どれでもよかったら今すぐ取れます。泊まりになるようでしたら、宿はおいおい探しましょう。三枚、手配します」
「うん、ありがとう」
そうして蓮実たちは、一路、茂木かつらの元へ――岩手へ向かうことになった。
さっそく乗り込んだ新幹線の車内は、平日の昼間のわりにそこそこ混んでいるように思えた。とはいっても、滅多に乗らない蓮実には、これが普通なのかわからなかったけれど。
新幹線は、逸る気持ちをさらに加速させるようなスピードで蓮実たちを北へ運んだ。
それから足掛け四時間。蓮実たちは、夕暮れ間際に茂木かつらの家の前に立った。
約三時間かけて着いた盛岡駅で新幹線を降り、そこから隣の滝沢市へ。土地勘もまるでないため、駅からはタクシーを使ったのだけれど、あいにくちょうど帰宅ラッシュの時間と重なってしまい、着くまでに思った以上に長い時間がかかってしまった。
「……ここですね。土地が広いぶん、やっぱり家も大きいんでしょうか」
タクシードライバーに年賀状の住所の近くで降ろしてもらい、それからは電柱に付けられた番地や近所の人に尋ねたりしながら、地道に足で茂木かつらの家を探した。
十数分後にたどり着いた茂木家は、中村宅に負けず劣らず大きな家と広い庭を有した見事なものだった。都心ではほぼほぼ見ない立派な外観に蓮実が思わず、ぽっかりと口を開けると、谷々越も感心した様子で「そうかもしれないね」と家を見上げた。
表札を確かめると確かに『茂木』の文字。どうやらこの家で間違いないようだ。
「ここが、茂木さんの……」
そう呟く中村は、にわかに緊張しているようだった。
無理もない、電話もなにもせず、住所だけを頼りにここまで弾丸でやって来たのだ。それに今は夕飯の支度時だ。忙しい時間帯に訪ねるのは少し非常識かもしれない。
なにより一番の緊張の原因は、男の子と思われる骨のことだ。
どう話を切り出そうにも、けして気持ちのいい話ではない。骨と聞けば、まず人は〝死〟を連想する。それが幼い子供のものともなれば、どんな感情よりも先に嫌悪感を抱くかもしれないし、訪ねてきた蓮実たちにも大きな警戒心を抱くだろう。
そういった中村の緊張が蓮実にも伝わり、きゅぅと胃の下が絞られるようだった。インターホンに指を伸ばしている谷々越とて、やはり躊躇があるのだろう。何度か深い呼吸を繰り返し、ようやく気持ちを固めて――ピンポーン。インターホンを押した。
「……どちら様ですか……?」
ややして出てきたのは、七十代になったばかりかという女性だった。予想通りエプロンを身に付けており、濡れた手を拭きながら蓮実たちを怪訝な表情で眺める。
「こちらは茂木かつらさんのお宅で……?」
そう、震える声で尋ねたのは中村だった。「え……?」と一段と怪訝な表情を深める女性に、中村はまごつきながらも鞄に入れていた年賀状の束を取り出し、
「私は中村一と申します。私の父、考次郎とかつらさんは、何十年もの間、年賀状のやり取りをしていたようなんです。こんな時間にいきなり訪ねて本当に申し訳ない限りです。ですが、早急にお知らせしたいことと、お尋ねしたいことがありまして。非常識を承知でここまでやってきました。……あの、かつらさんにお目にかかることはできますでしょうか」
一息に言い、女性の返事を待った。
蓮実たちは成り行きで首を突っ込んだだけだ。ここは自分が、と中村は茂木家の前に立ったときから、いや、岩手に行くと言った谷々越に「わかりました」と答えたときから、すでに心に決めていたのかもしれない。中村の横顔からは〝早急に知らせたいこと〟に対する責任感と〝尋ねたいこと〟への覚悟がありありと見て取れる。深く一礼しながら蓮実は、どうかこの人が話を聞いてくれる人でありますようにと切実に願った。
すると女性は、はっと息を呑む。
「中村って……あの『中村屋』の中村さん?」
どうやら覚えがあるらしい。大きく目を瞠って口元を手で覆い、それから中村の手の中の年賀状を見て、もう一度、中村に目を戻した。中村と聞いてすぐに『中村屋』を思い起こしたということは、もしかしたら彼女は考次郎さんのこともよく知っているかもしれない。
「そうです! やはりここは、茂木かつらさんのお宅で……」
「ええ。と言っても、私はかつらの妹の娘で、姪なんですけれど」
そうして一気に警戒心を解いた女性は、「すみません、変な勧誘も多いもので」と先ほどまでの非礼を詫びるように、バツが悪そうに笑って頭を下げた。
散らかっていますけれど、とさっそく家に上げてくれた女性――茂木英恵によると、かつらさんは生前、一度だけ中村屋の話をしたそうだ。やはりすでにお亡くなりになっていたらしい。仏壇に線香をあげさせてもらうと、そこには晩年の彼女の遺影があった。
穏やかに笑っているように見えるけれど、瞳はどこか物寂しい。雨や雪の降る前の、静かだが切なさも想起させるようなその瞳は、真っすぐにカメラを見ているはずなのに少しずれたところを見ているような――そんな仄暗さも感じさせる。
「あの、それで、今日はどういったご用件で……?」
仏間から居間へ案内され、そこで待っていると、お茶を運んできた英恵が尋ねた。蓮実たちの前に南部せんべいが盛られた器を置き、手際よくお茶を淹れていく。
「それが……実はつい先日、庭の木の根元から骨が出たんです」
「――⁉」
中村が重々しく切り出すと、英恵は声にならない悲鳴を上げて口元を手で覆う。顔はみるみる蒼白になっていき、一体どういうことかと視線がさまよう。
「僕たちはもともと、中村さんから逃げた黒猫探しの依頼を受けていた探偵事務所の者です。僕たちが捕まえる前に猫は自分で家に帰ったのですが、そこで猫が木の根元を掘る不思議な行動を取っていて。そうして出てきたのが、骨でした――白骨化した人の。今日、警察から報告があり、推定年齢七~八歳くらいの男の子のものだとわかりました」
そこに、谷々越がテーブルを挟んだ向かいで大まかな事情を説明する。
「子供……」
年齢を聞いて、英恵の口から悲痛な声が漏れた。
「そうです。僕たちは、中村さんにご協力いただきながら、その骨が一体誰なのかを調べていたんです。偶然にもその場に居合わせたものですから、猫が帰ってきてよかった、だけで済ませるわけにはいきません。警察から報告があったのは、奇しくも、中村さんが調べてくださっていた中村屋に関係する方たちの中に、かつらさんのお名前が出てきたときでした。かつらさんと考次郎さんは、もう何十年も年賀状のやり取りを続けていたようです。かつらさんから届く年賀状は、考次郎さんの名前から中村さんの名前へと時代とともに変わっていきました。けれど差出人の――かつらさんの名前だけは、この年賀状にあるように、中村さんが幼い頃から今年のものに至るまで変わっていないんです。よっぽどの深いご事情がおありだと思い、警察から報告を受けたその足でここまで来ました。……英恵さん、かつらさんのことでなにか知っていることはありませんでしょうか。かつらさんや中村さん、見つかった男の子の供養のためにも、どうかお話を伺わせていただきたいのです」
そう言って深く頭を下げる谷々越の声は切実で、胸の奥がチリチリと焼けるようだった。
頼みの綱は、かつらさんの姪である英恵しかいないのだ。彼女がなにも知らなければそれまでかもしれないが、少しでも聞ける話があれば――その思いが声音に滲み出ている。
「……でも私、叔母のことはあまりよく知らないんです」
けれど英恵は沈痛な面持ちで首を横に振った。