4
が、店に入ったものの、蓮実はひどく落ち着かなかった。
「……あの、所長。所長と私だけ見事に浮きまくってるんですが」
周囲に目を走らせながら恐る恐る尋ねる声は、どこか震えている。
だってここは、男性ならデートでも入るのに並々ならぬ勇気が要るような、完全に若い女子に客層を絞ったパンケーキ店の一角だ。ふたりの前には、食べる前から満腹感を覚えるような、デカ盛りデコ盛り――デコレーションもこれまた盛りだくさんのパンケーキの大皿が置かれ、さあ写真でもなんでも撮ってくださいと言わんばかりの映え感を放っていた。
入店する前、外観からしてピンクピンクしている店に蓮実はものすごい戸惑いと場違い感を覚えたのだが、パンケーキが運ばれてきても、それは変わらない。むしろ、ずっと増幅し続けている気がする。どう見たって仕事の合間に入る店とは思えない。
けれど谷々越は実に嬉々としたもので、場違いだろうがなんだろうが、まったく意に介していなかった。どうやら、それだけ来てみたいと思っていたらしい。中村に骨の件を調べさせてくれと頼んだときとはまた違うキラキラした目で「ここですここです蓮実ちゃん!」と弾んだ声で言われてしまえば、常日頃から後ろめたさを感じている蓮実は「……い、一度だけですからね」と渋々首を縦に振らざるを得なかったのだった。
「いい、いいんだよ。世間ではインスタ映えする写真を撮るのが流行ってるんだよね? ぼ、僕だって撮ってみたいんだもん。う、浮きまくるくらい、どうってことないよ」
「所長、インスタなんてやってんですか⁉」
「じ、実はね。フォロワーはまだひとりもいないけど」
「いるわけないでしょう! ほとんど外に出ないのに、なにを撮るっていうんです!」
しかし、予想だにしない事実を告げられ、蓮実の口から思わず大声が出た。店内のポップで可愛らしいBGMを切り裂くようなそれに周囲の喧騒が一時止む。
「ひ、ひどいよ蓮実ちゃん……」
「あ、すみません。今のは完全な失言でした……」
咄嗟に本音がダダ漏れてしまった。けれど、谷々越がインスタをやっているなんて誰が想像するだろう。しかも次に撮るのがなぜ女子が飛びつくようなパンケーキ……。
仕事の様子をいちいちインスタに上げるような探偵ほど胡散臭いものはないとは思うけれど、どうしてよりにもよってフォロワーもいないのに映えようとするのか。谷々越の頭の中がまるでわからなくて、蓮実は額に手を当てると深いため息をついた。
なんだろう、それもこれも外に出させない私が全部悪い気がしてきた……。
どこか浮世離れした谷々越の人間性を作ったのは自分かもしれないと思うと、蓮実はたまらなく気が重くなっていくのを感じずにはいられなかったのだった。
「ん! なにこれ!」
けれど、九割方やけくそで口に運んだパンケーキはとんでもなく美味しかった。
店内でちょっと目立ってしまおうが、それ以前に、谷々越ともども仕事の合間といった格好で入ったために最初から変に浮いていようが、まったく関係ないほどに。
「は、蓮実ちゃん、美味しいね」
「はい……! これくらいペロッといけちゃいますよ!」
その言葉通り、昨日からほとんど食べ物が喉を通らなかった蓮実は、大皿のデカ盛りデコ盛りパンケーキを見事な食べっぷりでどんどん胃袋に収めていった。
生地はしっとりしながらふわふわで、生クリームや、それにかかるブルーベリーや苺のソースも甘すぎず、くどすぎずにちょうどいい。飾りに盛られたカットフルーツもどれも新鮮で味が濃く、全部を一緒に口の中に放ると、ほっぺたが落ちそうなほどの美味だ。
店の外観で臆していたところがあったけれど、実際に入ってみないとわからないことは実は多いのだろう。谷々越に連れてきてもらってよかったと心から思う。ひとりだったら、たとえ強烈に興味を惹かれても間違いなく店の前を素通りするだけだった。
そんな蓮実の向かいでは、谷々越も負けず劣らずの勢いでパンケーキを平らげていく。
谷々越は体の線が細く、また背丈も百六十ニセンチの蓮実とさほど変わらない。三センチヒールでほとんど目線が一緒になるので、あっても百六十八くらいだろうか。食が細そうに見えて、実は食べても太らないタイプなのかもしれない。羨ましいなと思いつつ、蓮実は谷々越の大皿の上が気持ちよく減っていく様子にこっそりと笑みをこぼした。
「――で、これからのことなんだけど」
「はい」
「僕は、家系図や、孝蔵さんや考次郎さんの手記には載っていない人がいないか、探してみようと思ってるんだ。ふたりや、もしくは中村さんに兄弟がいるかもしれないしね」
食後に頼んだ、これまたやけにインスタ映えしそうなトロピカルな色をしたジュースを飲んでいると、スイッチが入ったらしい谷々越が唐突にそう切り出した。
「は……え?」
思わず目をしばたたく蓮実は、けれど数瞬して、中村の父親の名前に違和感を覚えた。
そうだ、中村さんは話の中で父親に兄弟はいなかったって……。
家系図を見せながら中村がそう言っていたのだ。家系図に目を落としても、考次郎に兄弟はいなかった。蓮実も自分の目でしっかりとそれを見ている。
そんな蓮実を見てひとつ意味深に頷いた谷々越は続ける。
「中村さんの話だと、父親の考次郎さん以外に中村家に男児はいなかった。考次郎さんから自分に兄弟がいるというような話を聞いたこともなかったそうだから、親の名前から一字もらうことはあっても、長男の考次郎さんの名前に〝次〟の字が入るのは少し変かもしれない。中村さんの下の名前は〝はじめ〟。漢字の〝一〟でそう読ませるくらい、男児には産まれた順番をなんらかの形で名前に反映させるような家柄だから、なんとなく引っかかるものがあるんだよね。それに、骨の場所も気になる。……蓮実ちゃん、まるで墓標かなにかのようだと思わない? 子供の頃の記憶には庭に大きな木はなかったし、不自然なこともなかったという話だから、埋められたのは十中八九、中村さんが産まれる前後だと思う。その頃に、中村家の家系図に正式に乗せられないような人がいたとしたら――」
「……当然、中村さんは知るわけがない」
「そう。まさに全員が、死人に口なし」
そう言って、谷々越はおもむろに自分の唇に立てた人差し指を押し当てた。
「しょ、所長……!」
慌てて諫めるものの、けれど蓮実の背中はその瞬間からゾクリとした悪寒に襲われていた。得も言われぬ暗い影が急激に蓮実の周りに延びてくるようで、薄気味悪い。
調べてみないことにはなんとも言えないぶん、恐ろしさは増幅される。もし谷々越の言う通り、中村家の家系図に載せられないような人が、あの時代に生きていたら。それを知らずに、中村が生まれたときからあの木に親しみ、以降、家を守ってきたのだとしたら――。
桜の木の下には死体が埋まっている。
確か梶井基次郎の短編小説にそんな話があったはずだけれど、中村家のイチョウの木の下にも死体が埋まっていた。そのことが今さらになって蓮実はひどく恐ろしい。
「……と、とりあえず、当時のことを知る方がご存命かどうかや、もしくはその親族の方に話を伺えそうな人がいらっしゃるか調べるところからですかね!」
「そうだね。さっそく中村さんに連絡して、当時の従業員録や顧客名簿、取引先や、今も年賀状のやり取りをしている人がいないか調べてもらおう」
薄気味悪さを追い払うように明るく言ったはずの蓮実の声は、自分でもわかるくらい上ずっていた。ふと見ると、トロピカルな色のジュースはまだ半分も減っていない。けれど、もう飲めそうになかった。下手をすると、胃がぐるぐる回ってしまいそうだ。
これはいよいよ本格的にややこしいことになってきた……。
蓮実は、満腹になった胃が急激に落ち窪んでいくような気がした。
会計を済ませて店を出る。
その場ですぐに中村に電話をかける蓮実の手はカタカタと震え、ともすればもう片方の手で支えなければ取り落としてしまいそうなほど、じっとりと嫌な汗をかいていた。
中村から連絡があったのは、それから二日後だった。てっきり父や祖父の代から親交のある人からの年賀状だと思い込み、今でも毎年必ず年始のやり取りをしているけれど、そういえばその人の名前だけは、覚えている限り子供の頃からずっと変わっていないという。
――これだ! この人、もしくは親族の人から話が聞けるかもしれない。
話を聞いた蓮実と谷々越は、急いで中村宅に向かった。
そこでは、相変わらず蓮実を目にした三郎がサッとどこかへ身を隠してしまい、蓮実は切ない仕方なさを覚えて苦笑をこぼすしかなかった。猫の記憶力のことはわからないが、けっこうだいぶ嫌われてしまっていることだけは確かなようだ。ふと見ると、どこから出てきたのか、居間の座布団の上、蓮実の隣に座っている谷々越には体を触らせているというのに、この扱いの差といったら……。わかっているが切なすぎて気を取り直す暇もない。
「すみません、三郎が相変わらずで」
「いえ、お気になさらないでください」
お茶を運んできた中村と二日前のやり取りを繰り返し、
「では、さっそくですが……」
いとも簡単に三郎を抱き上げた谷々越によって、早急に本題に移る。……釈然としない。
「――はい、これです」
それはともかく、そうしてテーブルの上に置かれたのは、昭和の時代から続く年賀状の束だった。二つに分けられ輪ゴムで括られたそれは、ざっと見て八十枚前後だろうか。
孝蔵や考次郎の代、そして中村の代までの年数にぴったりだ。
緊張した面持ちで蓮実たちの前にそれを置く中村に、片腕で三郎を抱き直した谷々越が「拝見いたします」と断りを入れて手に取る。その横から蓮実も覗き込む。
差出人は『茂木かつら』。一枚一枚確めていくと、宛名の大半は考次郎だった。ということは、茂木かつらは考次郎と親交のある人、またはあった人、ということになる。
文字は細筆で丁寧に書かれているので女性だろうか。綺麗な字だなと蓮実は思う。
「考次郎さんがお亡くなりになられたのは」
「二十五年前です」
年賀状からつと目を上げて尋ねる谷々越に、中村が淀みなく答える。あらかじめ調べておいてくれたのだろう、続けて中村は「確かこの辺りに」と、もうひとつの年賀状の束の中から、その年も以前と変わらず年賀状を送ってきた茂木かつらからの葉書を取り出した。
「なるほど。茂木さんは考次郎さんが亡くなったことを知らなかったんですね」
「だと思います。親族であれば亡くなったときに連絡をしますが、茂木さんのことは、父宛てに年賀状が届くまで知らなかったものですから。長くやり取りをしていたようだったので、その年は私の名前で寒中見舞いを。その翌年からは、私宛に年賀状が届くように」
「なるほど」
普通、年賀状は、親族に不幸があった家には送らない。寒中見舞いを送るのが一般的な礼儀だ。うっかりしていた、なんてこともあるけれど、茂木かつらの場合は本当に知らなかったのだろう。中村も考次郎が亡くなって初めて『茂木かつら』という人の存在を知ったのだから。それに住所も、ここからずいぶんと遠いところだ。
東北は岩手。ここは東京の端っこ。風の便りも届かないだろう。
寒中見舞いを受け取った茂木かつらは、その葉書からすべてを悟ったのだ。
「お母様はご存じだったんでしょうか?」
再び谷々越が尋ねると、中村は「たぶん知らなかったと思います」と答えた。
「母は、父よりずいぶん前に亡くなりました。なにか言葉を残して逝ったわけではありませんし、夫婦仲も普通でした。父は新聞でも郵便でも、まずは自分が取りに行く人でしたから、年賀状も例外ではありません。母はそんな父の性分から、なにか届いても郵便受けには行きませんでした。なので、茂木さんのことを知らなくて当然かもしれません」
「そうですか。茂木さんが考次郎さんと同年代の方だと仮定すると……」
「もう百を超えたか、それに近いかと。父は七十八で他界したので」