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 香純はいつも、こんなふうにいつ強硬手段に出られるかわからない恐怖にひとりで晒されていたんだと思うと、本当にたまらない。あれでもできるだけ早く校門前を離れたつもりでいたが、やはり深堀も香純の急な申し出に疑いを持っていたらしい。

 とはいえ、自分の立場も一気に危うくなるようなことをしてまで香純との関係を問いただしてくるとは、ちょっと考えていなかった。蓮実のことも香純と同様、ひとりでは声も上げられないような弱い女子として目に映ったのはこちらの思惑通りではあったけれど、これでは警察に駆け込まれでもしたら、それこそ人生単位で一巻の終わりだ。

 香純にした今までの言動や行動から、蓮実たちは深堀の人格を計画的で用心深い男だと分析していた。と同時に、もっと、より深くこれまでの深堀の遍歴を洗い出した。

 深堀は、子供の頃から頭がキレる子だった。神童と呼ばれるほどではなかったようだが、成績は常にトップで、品行方正、先生からも信頼を置かれる人物だった。

 特に家庭に問題があるわけでもなく、近所の評判もすこぶるいい。中学、高校と何人か彼女がいたこともわかっている。彼女と自宅近くを歩く深堀を見かけた近所の人は、そういう年頃になったんだなと微笑ましく思ったそうだ。手を繋いだり、じゃれ合ったりしながら歩く姿は、その年頃のカップルの姿そのものだったらしい。

 裏を取ると、その彼女たちには、香純にしているようなセクハラはしていなかった。大学に入ってからも、これまで通り、数人の女性と付き合い、別れ、そうして現在は准教授として働いている。けれど、そのときに付き合っていた彼女たちにも、特にこれといった異常性を感じるような性癖をカミングアウトすることもなかったそうだし、ごくごく普通に〝恋人同士〟〝付き合い〟という枠の中で恋をし、終わっていったらしい。

 これらの遍歴から蓮実たちは、たとえ香純や、いきなりぽっと出てきた山本優子――蓮実に疑いを持ったとしても、深堀は十中八九、頭脳戦を仕掛けてくるだろうと踏んでいた。これまでだって、香純に対してどうにでも言い逃れできるセクハラを繰り返していたのだから、と。けれど、この通り強行策に出たということは、どうやら蓮実が思っていた以上に、二日前に撒いた餌は深堀を動揺させるには十分すぎるものだったらしい。

「……い、痛いです。あのときは、香純ちゃんの具合が悪そうだったので、友達として当たり前のことをしていただけです。それ以上はなにも知りません。離してください」

「彼女を庇ってるんですか? そんなことをしても山本さんが痛い目に遭うだけですよ」

「違います違います、私は本当になにも知らないんです。……先生、香純ちゃんと一体なにがあったっていうんです? 誰にも言いませんから、私に話してください」

 なにが深堀をここまでさせるのか。香純にどんな思いを抱いているのか。身をよじって抵抗しながら、蓮実は男の力で押さえ込んでくる深堀に切実に訴えた。

「……彼女がいけないんですよ」

 それから見つめ合うこと、どれくらいだろうか。

 今すぐにでも谷々越と菖吾に深堀を取り押さえてもらいたい気持ちをぐっとこらえ、様子を窺っていると、おもむろに手首を掴む手を離した深堀は、そう言ってだらんと両腕を垂らした。蓮実に背を向け、虚ろな表情でふらふらと研究室内を歩く。

 その後ろ姿からやや距離を取りつつ、しかし蓮実はぴんと背筋を伸ばした。

 谷々越たちには、こう言ってあった。

『絶対に事の一部始終を記録してください』

 もしものことがあったらと難色を示すふたりに蓮実は、本当に危ないと思ったらなりふり構わず叫ぶか、大きな物音を立てて危険を知らせることを何度も何度も約束した。

 蓮実がまずやらなければならないのは、一も二もなく深堀からセクハラを受けること、あるいは香純へのセクハラを自分の口で言わせること。そのためには、ギリギリまで粘って確かな証言を得なければならない。もしここで声や物音を上げ、それを合図に谷々越たちが踏み込めば、あともう少しのところですべてが水の泡になってしまう。

 それでも、不良だったりヤンキーだったり、わかりやすく歪んだ過去を持っていないぶん、徘徊の真似事のようなものをしはじめた深堀から感じる内面の恐怖は計り知れない。

 本当にこの場に香純がいなくてよかったと思う。護身術の心得もあり、仕事として深堀に対峙している蓮実とてゾワゾワとした得体の知れない恐怖が背筋を這い上がってくるというのに、素人の香純では、とっくにどうにかなっていたかもしれない。

 ――でも、まだまだ粘らなきゃ。

 蓮実は全身に鳥肌が立つ中、まだだ、まだだと自分に言い聞かせる。セクハラは何度受けても慣れるものではないけれど、相当動揺し、自分の行動や言動もあやふやになっているらしき深堀が、とうとう白状しはじめようとしているのだ。この機を逃したらいけない。香純の怯え切った顔が頭をよぎった蓮実は、気持ちを奮い立たせる。

 研究室のドア一枚隔てた外では、谷々越と菖吾が様子を窺いつつしっかり見張ってくれているという絶対的な安心感があった蓮実は、ゴクリと生唾を飲み込み尋ねる。

「どういうことですか?」

 と、深堀は、振り向くと虚ろな目のまま「瓜二つなんですよ」と言う。

「え……?」

「僕の初恋は中二のときでした。一緒に図書委員をやったクラスメイトです。その子と彼女が本当に瓜二つなんです。そのまま大学生になったみたいに、全部が全部、同じなんです」

 日本史が好きなところも、いつも自分に自信なさげなところも、服の好みも。

 そう言って深堀は指を折って香純と瓜二つだという彼女の特徴を挙げていった。

「一緒に図書当番をしているうちに仲良くなって、僕のほうから告白しました。付き合えることになったときは本当に嬉しかったですね。読書が好きな物静かな子で、特に日本の歴史ものや伝記ものが好きでした。その影響で僕も日本史に興味を持つようになっていったんです。彼女との付き合いは順調で、それはそれは幸せな時間でしたよ。幼心に、結婚するんだろうなと本気で思うくらいに、相性もばっちりだったんです。――でも」

 そこで言葉を区切ると、深堀は唐突に髪の毛を掻きむしりはじめた。どこにも行き場のない怒りを放出するように地団太を踏み、「あああああああっ!」と声を荒げる。

 あまりの感情の起伏の激しさにビクリと肩を跳ね上がらせた蓮実は、けれど叫び声も物音も上げずに、じっと深堀を観察する。谷々越たちも、まだ突入する気配はない。ふたりもかなり気を揉んでいるはずだが、蓮実と同じくまだまだ粘らなければと踏み留まっている。

 身構えると、深堀が再び静かな口調で言った。

「でも、母が……。母が探偵を使って彼女のことを調べさせたんです。ある日突然、塾から帰ってくると大きな茶封筒が僕の自室の机に置かれていました。中を見ると、彼女の普段の生活の様子を隠し撮りした写真が何十枚も……。母は、幼心に僕が彼女との将来を本気で思っていることを察知していたんでしょう。まだ中学二年――十四歳の女の子とその家族のことを、それこそハイエナのように骨の髄まで調べさせたようでした」

 それを聞いて、蓮実は思わずハッと息を呑み、両手で口を覆った。

 なんてひどいことをするんだと思う。まだ中学生の、たった十四歳の女の子の身の回りを探偵に調べさせるなんて……。普通、息子の交際相手がどんな子か気になったとしても、まだまだ未成年、それも中学生の段階で行動に移せるものなのだろうか。

 戦慄の表情さえ浮かべる蓮実を一瞥し、深堀は続けた。

「結局、そのことが原因で彼女とはなんとなく気まずくなり、二ヵ月後には別れてしまいました。探偵が根掘り葉掘り調べても、彼女にも家庭にも、なにも問題はありません。でも、すべて知っている僕のほうは、後ろめたさが拭えませんでした。どうしたのと聞かれても答えられるわけもありませんから、次第に関係はギクシャクしていったんです」

 とうとう彼女と別れてしまった日、そのことを涙ながらに訴えると、母は言ったそうだ。

 ――『旭ちゃんに悪い虫が付いたらいけないでしょう? あなたは優秀な子なんだから、相手のことをとことん調べるのは当たり前のことなの。私も、私の母も主人の女関係で何度も何度も煮え湯を飲まされてきたんだから。女の敵は女なのよ。大事な大事な私の旭ちゃんの経歴に傷がつくようなことがあってはならないの。わかってくれるでしょう?』

「確かに、父も祖父も女関係にはだらしなかったようです。子供だったので全部知っているわけではありませんが、貢いだり身籠らせたり下させたり、相当だったようですね。そのことが原因で母も祖母も離婚しました。当然です、僕も父も祖父も虫唾が走るほど嫌いです」

 当時、家は母と祖母と深堀少年の三人暮らしだったそうだ。父と祖父から高級住宅街の一角に家を用意された三人は、離婚を機にそこに引っ越し、今までの近所付き合いを一掃して新たな場所で新たな人間関係を築いていくことにしたのだそうだ。

 中一の終わりに引っ越し、新学期からは新たな学校で母親の姓を名乗っての学校生活。前に通っていた中学とはだいぶ距離があったため、同級生たちはこちらから言わなければ親の離婚で転校してきたとは誰も思わなかったそうだし、引っ越し先の近所でも『夫が海外に単身赴任していて』と母がついた嘘を疑う人はいなかったという。

「父や祖父からは毎月、十分すぎるくらいの生活費が振り込まれていました。そのお金を使って調べさせたたようですね。なんでそんな勝手なことをと思いましたが、母や祖母が味わった精神的な苦痛を思うと、自分の息子や孫にはそうなってほしくない気持ちもわかります。女の敵は女だと言い切った母の憎悪や憎しみも、計り知れませんでした。だから僕は、母の言い分を受け入れるしかなかったんですよ。……異常な母でも、僕の母ですから。その後も何人か付き合った人はいましたけど、どうせ調べられるんだろうと思えば、正直、誰と付き合っても同じでした。それにもとうとう疲れ果てた僕は、そうして初恋の思い出を抱えたまま、彼女との唯一の繋がりである日本史研究の准教授になりました。その間に祖母は恨み言を残して亡くなり、母はそのショックから精神を病んで、精神科に入院して長いです」

「……」

 なんという人生だろうか。すぐには言葉が出てこず、蓮実は下唇を噛みしめる。

 蓮実たちが調べた中では、祖母も母も離婚歴はあるものの、十分に家は上手くいっていたようだった。借金を抱えて苦労していたわけでもなかったし、月々の生活費も几帳面すぎるくらいに毎月決まった日に振り込まれていた。父親がいない寂しさはあっただろうが、それでも家は上手くいっているように蓮実たちには――近所の人たちには見えていた。

 けれど本当は、離婚した父親の女癖の悪さから、息子に異常な愛情や執着を注ぐようになった母親からの窮屈な束縛にひとりで耐え続けるしかなった日々だったのだ。

 ぐっと押し黙るしかない蓮実に向かって、深堀は言う。

「ところが、母が入院して久しい去年のことです。緊張した面持ちで研究室に入ってきた彼女を見た瞬間、中学のときの得も言われぬ絶望はこの日のためにあったんだと思いました。だって、もう一度僕の前に現れてくれたんですよ。あのときの彼女がすっかり大人になった姿で、疲れ果てて誰とも付き合う気すら何年も起きなかった僕の目の前に。こんな奇跡ってありますか? 母親に抗えずに手を離してしまった彼女が大人になって二十年ぶりに戻ってきた! 僕のところに! もう離さない、僕のものだって思って当たり前でしょう!」

「……」

 恍惚の表情さえ浮かべて語る深堀に、蓮実は全身の毛が粟立った。

 自分の預かり知らないところで当時付き合っていた彼女の身辺を勝手に調べられたこと、女癖の悪さに散々泣かされた上での母親の主張、味わった精神的苦痛や、入院して久しいという現状は、大いに同情に値する。けれど、だからといって、彼女と瓜二つだという理由だけで香純を自分のものとして捉えるその価値観がまったくもって理解できない。

 やはり、母親と同じで異常な執着心や歪んだ愛情を感じずにはいられなかった。

 表立ってわかりやすく歪んでいた遍歴がないぶん、精神のほうは自分本位な価値観で歪みきっているのだろう。深堀から感じる得体の知れなさの本質はこれだ。そしてそれは、こういってはあれだが、母親譲り――まるで母親を鏡で映しているかのようだ。


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