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 それから数分。

「……香純ちゃん。大丈夫……?」

 香純を見つけたのは、校門のすぐ脇だった。植え込みの近くに身を小さくして立ち尽くしていた彼女は、蓮実に声をかけられると青白い顔でふらふらと目を泳がせた。

「すみません、急に……。あの、これで証拠になりますか?」

 ややして蓮実の目を見ると、震える声でそう問う。

「……ごめん、さっきのやり取りじゃ弱いかもしれない」

 そう答える蓮実の声や表情は硬かった。

 あざとく、したたかな深堀のことだ、摺りガラス越しでは確かな証拠にならないと主張されればそれまでだし、声も押さえてはいるが、明確な名前も口に出していない。

 個人的な連絡先は渡したものの、深堀が言ったのは〝あの子〟と〝君〟なのだ。その紙を証拠として出したとしても、筆跡を真似たとか、こんな紙は書いた覚えがないと言われてしまえば、逆にこちらが深堀を陥れようとしていると疑われてしまう場合もある。

「そんな……」

「でも、これでターゲットは私に移ったと思う。〝個人的にいろいろ力になってあげる〟って言ってたでしょう。こっちもいろいろと餌を撒いたもの。必ず証拠を掴んでみせる。だから香純ちゃんは、もうこれ以上無茶はしないで。ガタガタ震えてるじゃない。落ち着いたらでいいから、中で深堀にどんなことを言われたり、されたりしたか教えてくれる? 私が深堀のセクハラを証明したときに、香純ちゃんにしたことも一緒にバラしてやるから」

 顔に絶望の色を浮かべる香純の背中を優しく撫でさすりながら、蓮実は大丈夫だからと安心させるように笑顔を作った。深堀のあの言い方は、蓮実も狙っていると取れる。だったら、なにも知らないふりをして近づき、動かぬ証拠を掴んだほうが早い。

 それに一番は、もう香純に精神的な負担をかけさせたくなかった。青白い顔で冷や汗を滲ませる香純をもう見ていられないし、似たような経験をしたぶん、気持ちもわかる。

 やはり、自分で依頼したことだから、自分にできることはやりたいと言った彼女をなんとか説き伏せ、私が囮になるべきだったと蓮実はキュッと唇を噛みしめた。

 香純にセクハラをしている証拠を掴むには、彼女自身が深堀にセクハラをされている場面を映像に収めるしかなかった。そのため彼女は自分から危険な手段に打って出た。けれど深堀は、あざとく、したたかな男だ。香純が大学側に訴えようにも、自分には傷が付かないように上手いやり口を取っている。仕事面では巧妙に仮面を被っているのだろう、教授からの信頼も厚いようだし、いざとなったら、その後ろ盾も大きいかもしれない。

 はらわたが煮えくり返るような思いだが、要は香純は最初から不利だったのだ。彼女の精神をこれ以上疲弊させないためにも、ここからは谷々越探偵事務所が総力を挙げて深堀のセクハラの証拠を掴みに行くしかない。これでも蓮実も探偵の端くれだ。後ろには谷々越と菖吾もいる。たとえ危険な目に遭おうとも、ふたりがいるから大丈夫だ。

「でも、それじゃあ蓮実さんが……」

「大丈夫。うちの男たちは、いざとなったら頼れる男たちだから」

 不安げに瞳を揺らす香純に、ね? と目で念押しする。自分が嫌な目に遭っても他人を気遣う彼女の優しさに切なくなるような気持ちを抱きながら、蓮実は足取りも覚束ない香純を連れて、いったん校門を離れる。深堀がどこかで見ていたら大変だ。

 やがて近場にファストフード店を見つけた蓮実は、ちょっとうるさいかもしれないけど、と香純の背中を押して中に入った。ドリンクだけを注文すると、奥の壁際の席で俯いている香純のもとへそれを持って行く。蓮実も、三年前に面接でセクハラを受けたときは、話す決心がつくまで心の中でいろいろな葛藤があった。最終的に話しはじめればスーッと気持ちが楽になったが、そうなるまでにはやはりそれなりの時間がかかるものだ。

 香純にはホットカフェオレ、蓮実も同じものを飲みながら、彼女が落ち着くのを待つ。どんなに外は暑くても、温かい飲み物はそれだけでほんの少し気持ちを和らげてくれる。

「……研究室でのことですけど」

 しばらくして、ふう、と息を吐き出した香純が話を切り出した。「うん」と相づちを打った蓮実は、コーヒーカップを片手にテーブルから少し身を乗り出す。

 香純の話は、こうだった。

 課題をやっているふりをしていると、すぐに深堀が背後に立った。髪をアップにしたうなじをじーっと見つめ、後れ毛がそそるとか、カットソーから透けて見えるブラのラインがいいねなどの言葉を彼女の耳元で囁いたそうだ。それからしばらく深堀は、黙々と課題に没頭するふりをしている香純を近くの椅子に座って舐めるように見ていたらしい。

 そんな香純に追い打ちをかけるように、一定時間経つと深堀は『そんな格好をして僕を煽っているの?』とも聞いてきたということだった。証拠を掴むため、多少は深堀にセクハラ発言をさせるような格好を意識していた香純だったが、それを聞いてたまらず腰を上げたという。これ以上は、どうしても密室の中にふたりきりではいられない――それが、蓮実が彼女の「……し、失礼しますっ」という緊張と恐怖が混じった声を聞くまでの経緯だ。

「そう……。話してくれてありがとう。よく頑張ったね」

「いえ。こういうことは、よくあるんです。そのたびに、私はいつも研究室を飛び出しているんです。でも、今回は外で蓮実さんが頑張ってくれてましたし、危ないと思ったら助けに入るって言ってくださってたので、もうちょっと粘りたかったんですけど……」

「もう頑張らなくていいから。あとは私に任せて」

 すみません、と消え入りそうな声で謝る香純に、蓮実は咄嗟にテーブルに置かれた彼女の小刻みに震える手を強く握りしめた。温かいものを飲んでいるはずなのに、香純の指先はびっくりするほど冷たい。ぎゅっと包んで、たくさんさすって、冷え切った手を温める。

 世の中は、どうしてこうも不平等なことが多いのだろうか。それだけ苦しめられているということが痛いくらいに伝わって、蓮実はどうにもやるせない気持ちになる。

「ありがとうございました。もうだいぶ落ち着いたので」

「うん。家まで送らせて」

「すみません、よろしくお願いします」

「謝ることなんてないよ。あとは私たちに任せて」

 しばらくして、どうにか落ち着きを取り戻した香純を自宅の前まで送った蓮実は、彼女から受け取った深堀のプライベートな番号が書かれた紙切れを乱暴にバッグの中にねじ込んだ。すぐにでも明確な約束の日時を決めたいところだが、しばしの我慢だ。もちろん深堀について調べていないわけではない。けれど、もっと、より確かな調査結果が欲しい。

 事務所に戻ると、蓮実は動画と音声を谷々越に見せて言う。

「所長、深堀は完全にクロでしたが、徹底的にやり込めるには、まだ弱いのが現状です。牧野教授のことも、もっと掘り下げて調べていったほうがいいかもしれません。なんとなく引っかかるんですよ、以前から不快に思っていたからとはいえ、携帯端末の持ち込みをここまで制限するのは、ちょっとやりすぎなんじゃないかって。もしかしたら、深堀とどこかで繋がっているんじゃないでしょうか。……私、三年前の自分の経験とまるっきり重なってしまって、香純ちゃんが可哀そうでなりませんよ。早急に手を打ちましょう」

「うん。それがいいね。今回も、僕も外に出るよ。彼女にはこれ以上無理はさせられないから、囮は蓮実ちゃんしかいない。菖吾君とも連携して、一緒に付いていく」

 谷々越のその言葉に、蓮実は神妙に「はい」と首肯した。


 それから二日。

 また研究室に遊びに行ってもいいですか? と深堀に連絡を取ると、彼は二つ返事で了承した。編入試験のことも詳しく聞きたいと言うと、資料は僕のほうで揃えておくからと返事があり、とんとん拍子に再び研究室に足を踏み入れることが叶った。

 香純には自宅にいてもらっている。大学を訪れたのは蓮実、それから谷々越と菖吾だ。ふたりには研究室の外でセクハラの証拠を押さえつつ待機してもらっている。大学は在校生でなくてもわりと出入りが自由だ。蓮実からやや遅れて校門をくぐった谷々越と菖吾を咎める人はおらず、構内の適当な場所で落ち合うと、三人で研究室を目指した。

「つい二日前も見たばかりですけど、やっぱり圧倒されますね、この本棚は」

 なにも知らないふりをして、蓮実は本棚を見上げながら無防備に背中を見せる。

 今日の格好は、背中にリボンが付いた透かし編みニットに、ショートパンツだ。インナーはカップ付きのキャミソール一枚。ざっくりと肩口が開いたニットから肩紐をチラ見えさせ、深堀を煽情的な気持ちにさせる作戦だ。パンツもできるだけ短いものを選んだ。

 身に纏った戦闘服を見せると、谷々越には無言で目を逸らされ、菖吾には「似合わねー!」と散々笑われたりもしたが、似合う似合わないは関係ない。香純の怯えきった様子を目の当たりにした蓮実は、このままでは誰にもなにも言えないまま大学を休むようになってしまうかもしれないという危機感を持ったのだ。いつものように軽口を叩く菖吾の頭に鉄拳を食らわせた蓮実は、解決を急がなければという思いで深堀の前に立っている。

「でしょう。ますます魅力に思えてきたんじゃないですか? こちらも優秀な学生が入ってくれるといい刺激になりますからね。教授はまだ休暇中ですから山本さんの話はしていないんですけど、話したらきっと喜んで迎えてくれるでしょう。そのためにも、僕たちはさっそく編入試験の対策を立てないといけません。早く連絡をもらえてよかったです」

「でも、優秀かどうかはわかりませんよ?」

「いえいえ。編入試験を受けたいということは、優秀な学生の自覚がある人しか言わない台詞ですよ? 謙遜したってダメですよ、僕にはわかるんですから」

 照れたような口調で言うと、深堀も声に楽しげな色を含ませる。

 この前会ったときもそうだけれど、普段の深堀は本当に物腰も口調も柔らかく、まるで毒気を感じない。いやらしさも感じないし、あざとく、したたかにセクハラ発言を繰り返す男だと知らなかったら、すっかり信頼してしまうようなところがある。

 だからこそタチが悪いのだ。

 ファストフード店で聞いた香純の話では、最初は全然、そんなことはなかったという。彼女自身も、深堀の発言にしばらくなにも感じなかったそうだ。〝もしかしてセクハラを受けているんじゃ?〟と思いはじめたのは、思い返せば院に進みたいと考えている、と雑談の中でふと香純が話した頃からだったという。それまでも深堀にはよく目をかけてもらってはいたが、その頃から徐々に言動に怪しさを感じるようになっていき、今に至る。

 もしかしたら深堀は、いつ香純にセクハラを暴露されるだろうというスリルも楽しんでいるかもしれない。そうだとしたら、本当に気持ち悪い。一体、なにが目的なのだろうか。深堀の考えていることが一般的な常識に当てはまらないため、余計に気味が悪い。

 しかし蓮実は、それをおくびにも出さずに振り向き、笑顔を作った。こちらは探偵だ。ターゲットの化けの皮を剥すため、めいいっぱい油断させなければならない。

「じゃあ、香純ちゃんも相当優秀だってことですよね? 院に進むために准教授と準備をしてるって聞いてます。ほんと羨ましいですよー。香純ちゃんは友達でありライバルでもありますからね。私も頑張らないと。ご指導のほど、よろしくお願いします」

「そのことですが」

 すると深堀がわずかに眉根を寄せた。何食わぬ顔で「はい?」と聞き返すと、深堀からは「普段、彼女とはどんな会話をしているんです?」と質問が返ってきた。

 なんとなく雲行きの怪しさを覚えつつ、蓮実は答える。

「え? 別に普通ですよ? 前回お会いしたときにも言いましたけど、本当に他愛ない話ばかりです。教授や准教授のことを面白おかしく話して――きゃっ」

 しかし直後、ずんと歩み寄った深堀に両の手首を取られ、そのまま本棚に背中を押し付けられてしまった。その衝撃で本棚が揺れ、本の背表紙が背中に当たり鈍く痛む。

「嘘を言うんじゃない。見ましたよ、この間。山本さん、体を小さくしている彼女の背中をさすってたじゃないですか。……どうもおかしいと思ったんですよ。普段、物静かな彼女が急に友達に研究室の見学をさせたいと言ってきたんですから。僕もバカじゃありません。彼女になにか頼まれていることがあるんだとしたら、早く白状したほうがいいですよ?」

「……っ」

 急に態度が変わった深堀の目は、焦りと狂気を孕んでいるように見える。本棚に押し付けられる手首。そこに食い込む深堀の指の力は蓮実ではどうにもならず、これでも私は探偵だからという自負も、多少の危険は覚悟していた気持ちも、さすがに萎んでいきそうだった。


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