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「うわー……。なにそれ、めっちゃ腐りまくってんじゃん」

 だから〝前のときみたいに〟だったわけか。顛末を聞くと納得した様子で菖吾が頷く。

「うん。だから、今回の件とどうしても重なっちゃって」

「そういうのって、どこででも繰り返されるんだな。ほんっと、あああ!って感じ」

「うん」

 髪の毛をわしゃわしゃ掻きむしる菖吾に、神妙に頷く。

 香純からの依頼も同じだ。密室感のある空間での、立場の優位性や性格の強弱を巧みに利用した卑劣なセクハラ。証拠を押さえられない安全な環境下なのがタチが悪い。

 でも、声を上げてくれただけ、谷々越探偵事務所に相談に来てくれただけありがたい。

 ――目にもの見せてくれるわ。

 蓮実は、気持ちも新たにゴクゴクとビールを喉に流し込む。絶対に許すまじ。

「わかった。そうとくりゃ、俺もできる限り協力するわ」

 横で同じように喉を鳴らしてビールを飲み干した菖吾が、食器を下げたりお冷やを追加したりとフロアを忙しく歩き回る店員を呼び止め、三杯目を注文する。

 すぐに運ばれてきた中ジョッキを再び傾けた菖吾は、

「俺もお前も、ちょっと若作りすれば、まだまだ現役大学生で通せるって」

 スパーン。蓮実の鉄拳を脳天に食らい、ううっ……と悶絶した。自業自得である。


 それから二日。

 もろもろの準備が整い、いざ香純が通う大学の研究室を訪れた蓮実は、天井近くまである大きな本棚にずらりと並べられた資料本の多さにまず「おお……」と畏怖の声を上げた。

「研究室に入ってくる学生たちも、この本棚を見ると山本(やまもと)さんみたいな反応をするんですよ。本とはいえ、これだけの数があると威圧感がありますからね。圧巻というか」

「ですね。中には貴重な本もあるんですか?」

「もちろんですよ。この本なんか、そうですね。貴重な本です」

 山本優子(ゆうこ)こと蓮実の質問に、ご丁寧にも棚から本を抜き取り見せてくれたのは、今回のターゲットである准教授の深堀旭だった。見た目は中肉中背で身長も平均的な、ごくごく普通の三十代半ばの男性といったところだろうか。Tシャツにジーンズというラフな格好の上に白衣を纏ったその足元は、裸足にゴムサンダルという、これまたラフなものだった。

 今のところ態度も言葉遣いも物腰柔らかな深堀は、本を棚に戻すとこちらに向き直る。蓮実の後ろに控えている香純をちらと見て、それからまた、蓮実に視線を戻す。

「それにしても、こう言ってはあれですけど、矢崎さんに友達がいて安心しました」

「へ?」

 蓮実が驚いた顔を見せると、深堀は、彼女はちょっと消極的なところがあるんですよと困り顔で言う。「でもよかったですよ。心配してたんです、仲のいい子はいないのかなって。教授の論文発表のときにたまたま知り合って、それからずっと連絡を取り続けていたんでしたっけ? そういう友達がいるなら、なんの心配もいりませんでしたね」

 どうやらいらない心配だったようです。そう言ってほっとしたように笑みを零した。

「え、そうなんですか? 香純ちゃん、LINEなんかじゃ、すっごくお喋りなんですよ」

 初めて聞いたふうを装い、蓮実はここぞとばかりに餌を撒く。さり気なく、けれど注意深く深堀の様子を窺いつつ、もういっちょ、と続けて餌の第二弾を投入する。

「よく研究室の話題も出しますし、教授や准教授のことも面白おかしく聞かせてくれて。そのおかげで日本史にますます興味が湧いたんですよ、私。私も来年は院に進もうと思ってるんですけど、楽しそうだし、編入試験を受けてみようかなって本気で考えてるくらいで」

 香純にはあらかじめ、先の深堀の発言の通り、前に行われた牧野教授の論文発表の場で知り合ったと口裏を合わせてもらっている。研究室を見学させてほしいという他大学の友達がいるんですけど、と話を持ちかけてもらい、今日、実際に潜入することが叶った。

 正直、偽の学生証はすぐに準備できたが研究室にはなかなか入れてもらえないかもしれないと思っていたので、二つ返事で了承してもらえて助かった。まあ、深堀がなにを考えているかは本人にしかわからないところではあるが、近くに蓮実がいることで日頃のセクハラに少しでも歯止めがかかってくれれば、そのぶん香純も安心だろうと思う。

「おや、そうなんですね。それはぜひウチの研究室に来てください。この通り、資料も山ほどありますし、教授もとても立派な方です。日本史を研究している研究室の中ではフィールドワークに行く機会も多いほうだと思うんですよ。いい勉強になると思います」

「はい」

 にっこり。警戒心なく笑顔を作った深堀に、蓮実も笑顔を返す。

 どうやら蓮実が身分を偽っていることには気づいていないようだ。

 ふん、どんなもんよ。ちょっと若作りすれば、なんて言って例のごとく鉄拳をお見舞いされた菖吾に鼻高々に思う。若作りしなくても服装や髪型をちょっと変えるだけでまだまだ現役女子大生で通用するのだ。事務所に戻ったら、さっそく菖吾に自慢してやろう。

 それからしばらく、深堀とは香純も交えて三人で雑談をした。付け焼刃だが、一応の知識は入れてきたつもりなので、コアな話に雑談がシフトしてもそれなりに付いて行け、別段、不審に思われるようなことはなかった。蓮実は内心でほっと胸を撫で下ろす。

 さすがに香純は言葉少なだったが、それでも雑談が途切れなかったのは、日本史の話になると深堀がびっくりするほど饒舌に語りはじめたからだろう。ここ一年ほど、彼女にセクハラ発言を繰り返しているとはいえ、本当に日本史が好きだから深堀は准教授という職に就いているのだ。まさか、三年前、谷々越と蓮実が一石を投じたあの会社でもあるまいし、セクハラをしたいがために日本史を勉強し准教授になったわけではあるまい。

「じゃあ、とりあえず今日はこれで。実は午後からバイトが入ってるんです。貴重な資料本を見せていただいたり、お話を聞かせていただいて、本当にありがとうございました。またちょこちょこ遊びに来てもいいですか? ますます興味が湧いてきました」

 小一時間ほどして、蓮実はおもむろに腰を上げた。そうとは知らずに饒舌に語ってくれた深堀にぺこりと頭を下げて礼を言い、さりげなく次の約束も取り付ける。

 これも事前に香純と裏を合わせてあることだ。夏休み期間中なこともあり、研究室の学生たちはほとんどが帰省していて、中はがらんとしている。教授の牧野も休みを取っているそうで、妻とフィールドワークも兼ねて旅行に行っているのだそうだ。

 実家暮らしだという香純の生活環境は、こう言ってはあれだが、潜入するには打って付けだった。身分を偽る相手は少ないに越したことはないのが本音だし、普段から誰も見ていない隙を狙ってセクハラをしてくるとはいえ、今は時期的に教授やほかの学生の目がないぶん、研究室の外や廊下などでも、香純に大胆に言い寄ることがあるかもしれない。

 蓮実は、帰るふりをしてその場を写真や音声に収めるのだ。本当はこれ以上彼女に嫌な思いをさせたくはないが、直接香純に言い寄る場面を押さえるには、こうするほかない。

 自分が囮になるからと言ったのだが、香純は頑として首を縦に振らなかったのだ。

『私が依頼したことですから。自分にできることは、やりたいんです』

 そう、覚悟を持った眼差しで言われてしまえば、蓮実も折れるしかなかった。

『本当に危ないと思ったら私の自己判断で助けに入るからね。くれぐれも無理はしないで』

 そのことだけは何度も念を押して強く約束させ、そうして今日の運びとなっている。

「そうだったんですね。いや、歴史のこととなると、どうも熱くなってしまって。時間を忘れて語ってしまうのが僕の昔からの悪い癖なんですよ。ええ、ちょこちょこと言わず、時間の許す限りいつでも遊びに来てください。編入試験のことも、いい話を待ってます」

 面目なさそうに苦笑し、すっと手を差し出した深堀の手を取る。深堀の裏の顔を知っているこちらとしては、編入試験に有利な情報を教える代わりにセクハラをするつもりなのかと多少、身構えてしまうところもあったが、蓮実も笑顔で「はい」と応じた。

「それじゃあ、私はこれで。香純ちゃんはもうちょっと残っていくんだっけ?」

「うん。片づけておきたい課題があるの。バイト頑張ってね。またね」

「またねー」

 そうして香純と手を振り合い、いったん研究室を出る。

 研究室前の廊下も、がらんとしたものだった。おそらく本棚に収まりきらないのだろう資料が詰まった段ボールが山積みになってはいるが、やはり学生の姿はない。

 その陰に隠れつつ、蓮実はバッグの中からスマホと手のひらサイズのレコーダーを取り出し、手の中にスタンバイさせた。カメラアプリを起動し、レコーダーのスイッチも入れて録音を開始する。いつ深堀が香純にセクハラを働くかわからない以上、必要な措置だ。

 しかし、それからしばらく、研究室からはこれといった声も物音もしなかった。中には香純しかいないので、すぐにでも手を出すかと思ったのだが、そういうわけでもないようだ。

 日を改めたほうがいいだろうか。物陰でじりじりしながら、蓮実は考える。

 だって、これまで親しい友人がいる気配がなかった香純から昨日今日で急に知人を紹介され、見学までさせたのだ。彼女の行動にはっきりと不審な点を感じた自覚はないかもしれないけれど、深堀にも感覚的になにか感じる部分はあったかもしれない。

「……し、失礼しますっ」

 そう思った矢先、中からくぐもった声が聞こえ、研究室のドアの摺りガラスに人影が映った。声も背格好も香純のものだ。困ったような弱々しい声色の中に、緊張と恐怖が混じっている。深堀になにか言われたのかもしれない。蓮実のほうにも緊張が走った。

 すぐに香純の人影に向かってスマホを構えると、蓮実は急いで録画ボタンを押した。

 写真だけでは弱い部分がある。音声はもちろん強いけれど、この場合、動画が一番、証拠としては強いだろう。なにしろ行動も声もすべて映像として撮られるのだ。この機を逃すまじと、蓮実は万一のときに飛び出す用意をしながら指を押し拡げてズームアップした。

 香純は、今日も牧野教授の言葉を守り、携帯端末の類いはバッグごとロッカーに入れてある。持ち物検査なんてものは今までもなかったそうだが、もしもということもあるので、彼女は普段と同じ手順を踏んで深堀のいる研究室に入っていた。本当は身を守るために録音用の小型機器くらいは忍ばせてやりたかったけれど、夏はただでさえ薄着になるし、もし見つかって形勢を逆転させられてしまえば香純の立場が危うくなる危険があった。

 事実が浮き彫りになったとき、間に入る大学側は、学生の言い分を信じるか、職員の言い分を信じるか――後者でないことを願うばかりだが、そういうケースは残念ながらないわけではない。仮に前者であっても深堀に上手く言い逃れされては元も子もないため、よく話し合ったた結果、危険を承知で彼女は文字通り丸腰で研究室に残っていたのだ。

 蓮実は足のバネに力を蓄えながら飛び出す機会を慎重に窺う。

 と、わずかに空いたドアの摺りガラス越しに、深堀が香純の背後に立った姿が映った。その細い肩に流れるような手つきで深堀が両手を添えると、香純の肩がビクリと跳ね上がる。

「あの子もいいね。院からこっちに移りたい気持ちが本当なら、個人的にいろいろ力になってあげるからって伝えてくれる? これ、僕の番号ね。ちゃんと本人に渡して」

 蓮実の存在に気づいていない深堀が、香純の肩越しに紙を渡す。ビクビクした手つきで受け取った香純は、今度こそというように勢いよくドアを開け廊下に駆け出していく。

 その後ろ姿を眺める深堀は、わずかに口元に微笑を漏らすと何事もなかったようにドアを閉めて中に戻った。これでターゲットは香純から蓮実へ――山本優子へ移ったということなのだろうか。一目散に駆け出していった香純が心配だった蓮実は、深堀が中に消えたドアと香澄が走り去っていった廊下を何度か見比べたのち、彼女を追った。


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