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ということは、店に入る前の赤面ものの会話は本当に赤面以外のなにものでもなかったということだ。蓮実を尾行していたなら、蓮実に菖吾が接触したときに菖吾の顔を見たはずだ。じゃなかったら、その後、岡崎と落ち合っている場面を尾行できるわけもない。
どうやらかなり自由に泳がされてしまっていたようだ。二重に尾行されていたことにも気づけなかったなんて、なんて自分はぼんくらなんだと蓮実は泣きたくなった。これからは本当に谷々越にGPSを付けて監視してやろうか。わりと本気で考える。
「橋岡さん……!」
と、途端、岡崎が菖吾に向けて、行け、というように声を張り上げた。
どうやら菖吾は実名で探偵をしているらしい。谷々越が菖吾の名前を口にしても岡崎は驚かなかったし、一気に形勢逆転の兆しが見えた途端に、咄嗟に苗字で呼ぶくらいだ。初めから菖吾は実名を名乗っていたのだろう。まあ、蓮実も谷々越も必要に駆られたとき以外は実名を名乗っているから、さして驚くことでもないのだけれど。
「……本当に現場と音声を押さえてあるんですか」
「ええ」
これです。
固い声で尋ねられ、谷々越はポケットからスマホと、盗聴器で聞き取った音声を録音したレコーダーを取り出す。間合いを確めるようにゆっくりとそれらに手を伸ばした菖吾は、イヤホンを耳に差し込むと、写真をじっと見つめながら音声を確める。
「岡崎さん、あんた、もうダメだ」
「……え」
「だってあんた、女性会員からいい物件を横取りする常習犯じゃん。夜遊びも激しいみたいだし、高級ブランド品やら化粧品やら貴金属やら、金遣いも荒い。親身で親しみやすくてなんでも話せる結婚相談所の職員のふりして、裏では男漁りしてたんだろ? 誰がどれくらい金を持ってるか、簡単にわかっちゃうもんな。ほんと天職だと思うよ、あんたには。……知らないと思った? 俺はね、念のために依頼主のことも調べるの」
すると菖吾は、唐突に岡崎を突き放した。その声も表情も、今まで岡崎の味方としてこの場にいた人物とは思えないほど、軽蔑や侮蔑の色が濃く反映されている。
目を見開き、まったく口が利けなくなった岡崎に向けて、菖吾は冷ややかに言う。
「それでも、こっちは依頼料さえきちんと払ってくれれば文句はなかったよ。依頼主がどんなに下衆いやつでも、支払われた金に罪はないし。でも、聞かれちゃったらしょうがなくない? 写真も音声もこの通り、ばっちり押さえられちゃってるんだし。失敗だよ、この依頼は。証拠を押さえられたのもそうだけど、あんたには、目の前にいい物件が転がってるのにモノにできなくなったことのほうが痛いんじゃない? だって、そこにいるもんな。ばっちり聞かれちゃってんもんな。こうしてみんなにあんたの正体が暴かれちゃったわけだし、あとは自分でどうにかしな。そこまでは依頼に含まれてないから。……それにしても、俺も泳がされてたなんて、まだまだだわ。すげーな谷々越さん。蓮実なんていらなくね?」
そして最後は谷々越に向けて皮肉げな笑みを作った。
「そうよ! これまで何人も横取りしてきたわよ! でも、それのなにがいけないの⁉」
すると直後、岡崎の金切り声が店内に広く響き渡った。
「ちょっと言い寄ったくらいですぐにコロッと騙される男が悪いのよ! 他人に結婚相手を見つけてもらおうなんていう、自分に魅力のない女が悪いのよ! 結婚相談所なんてね、私からしてみればキツネとタヌキの化かし合いみたいなものよ。みんな仮面を被って自分のいい面だけを見せようとしてる。気持ち悪いったらないわ。どうせすぐ剥がれるのに、そのときばかり取り繕ったってダメなのよ。だから私は、わざわざ親切に男たちに教えてあげてたの、あなたが気に入った女性会員は実はBL作家だとか、小さい頃から父とふたり二人三脚で生きてきた慎ましやかな女性だと思っているようだけど、実は母親が蒸発していないだけだとか。隠しごとをされてるってわかった男は、急に態度がよそよそしくなって、最終的にフェードアウトするわ。人ってだいたい、そんなものじゃない。有力物件なら家柄もいいところのお坊ちゃんがほとんどだし、世間体も外聞もある。騙されて結婚する前にわかってよかったって、みんな私に感謝したわ。そこを横取りしてなにが悪いの? 横取りされても文句を言えないような隠しごとを持って入会してくる女が悪いと思わない?」
そして一気にそこまで言うと、きつく夏芽を睨みつける。
「でも、田丸さん、あなたには叩けば出る埃はなかった。だから、付き合いはじめてずいぶん歯噛みしたわ。次の有力物件として、私はずっと三好さんを狙っていたんだから」
そこでニタリと。岡崎は笑う。
「でも、とうとう見つけた。いまだに三好さんはあなたに本職を明かしていなかった。あなたはそのことをとても気に病んでいて、ついに私に相談した。やっとか、って思ったわ。ふたりで食事をしたとき、冗談めかして『探偵でも雇って調べてみたら?』って言ったでしょう。あれ、本気の本気だったのよ。そしたらまんまと……ふふっ。三好さんを何度も励ましていたのは、上手くいかなくてそのたびに落ち込む彼の懐に潜り込むためよ。私の誤算は、そんな三好さんが婚活パーティーの席であなたを見初めてしまったことだった。でも、これで彼を私のものにできると思ったわ。……まあ全部、あんたたちが来るまではだけど」
そしてカクン、と。まさに首を折るようにして蓮実たちをギロリと見た。
まるで壊れた人形みたいだと思った。瞳孔まで開いているんじゃないかと思うほどカッと見開かれた彼女の目は、その迫力とは裏腹に作り物めいて見える。あと一歩のところで目論見のすべてが暴かれてしまい、もうどうでもよくなったのかもしれない。
「ふっ……あははっ、きゃはははっ……!」
瞬きすらせず蓮実たちを見たまま甲高い笑い声を上げる彼女の姿は、もはやホラーだ。
この場にいる誰もが、彼女の狂った姿を見たくないのに目が逸らせなかった。蓮実も、谷々越も、菖吾も、彼女に招かれた夏芽たちも、店の客たちも従業員もすべて。
内側から壊れゆく人は、こんなにも目を逸らせないものなのかと蓮実は思った。見たくないのに、どうしても見てしまうのだ。身に覚えがあってもなくても、戒めにしようと思うと思わざると、その一挙一動からけして目を逸らすことはできない。
やがて彼女は、男性従業員ふたり掛かりで、引きずられるようにして店の外に連れ出された。谷々越が「お騒がせしてすみません、締め出してください」と、誰もが指一本動かせない状況に似合わず穏やかな口調で、けれど乱暴な言葉で場の空気を動かしたからだ。
「さあ、僕たちも出ましょう。これ以上は店のご迷惑になります」
そうして谷々越に促されるまま、蓮実たちはぞろぞろと店を引き上げた。代金は谷々越が立て替えたが、おそらくそれは戻ってこないだろうと誰もが思った。岡崎に請求したところで先立つものもないだろうし、なにより彼女はもう壊れてしまったのだから。
「じゃあ、あとはお三方で。僕たちはしばらく席を外しますから。お茶やお菓子類は適当に召し上がってください。冷蔵庫の中のものも。じゃあ行こうか蓮実ちゃん、菖吾君も」
それから夏芽たち三人と菖吾を谷々越探偵事務所に招き入れた谷々越は、ソファーに座って沈痛な面持ちで俯いている三人に声をかけ、蓮実と菖吾を促して外へ出た。
「近くのファミレスに入ろうか。みんな、食事もまだだったし」
そう言って歩き出す谷々越の背中を追いながら、けれど蓮実はどうしても後ろを振り仰いでしまう。三人をあのままにしておいて大丈夫だろうか。すっかり雑居ビルの電気が落ちている中、煌々と光る一室を見上げる蓮実の胸は鈍重に痛みっぱなしだ。
でも、そのほうがいいのではないかという気もする。別れさせないことも僕たちの仕事だと谷々越は言った。けれど、夏芽の行動も、岡崎の真の目論見もすべて白日の下にさらされた今、蓮実たちにできることは、彼らをあえてそっとしておくことなのかもしれない。
「……蓮実」
菖吾に呼ばれ、谷々越と、彼の後ろを歩く菖吾に小走りで追いつく。
ここから先は彼ら次第なのだろう。最終的にどんな結論を出すにせよ、夏芽のしたことは変わらないし、三好の騙されかけた事実も変わらない。津森だってそうだろう。
「ところで、あの人は俺まで連れてってどうするつもりなんだ?」
「……」
「おい無視かよ」
「……」
「蓮実」
「馴れ馴れしく名前で呼ぶな! あんた、なんで探偵なんかに転職したのよ!」
――ばちぃぃん!
直後、菖吾の左頬に蓮実の渾身のビンタが炸裂した。「いってぇー!」と悶絶する菖吾は左頬を両手で押さえてたまらずその場に蹲る。蓮実はその頭をさらにはたいた。
夏芽たちの前では頑張って我慢していたけれど、とうとう堪忍袋の緒が切れたのだ。
「所長が調べてくれたよ。あんたんとこの探偵社って依頼に失敗したら罰金なんでしょ? どうして探偵になろうと思ったかはわかんないけど、どうせ転職するなら、もっと慎重に選びなさいよ! 三好さんたちが騙される瀬戸際で食い止められたことはよかったけど、こっちは菖吾のことも心配で心配で気が気じゃなかったんだからっ!」
「いっで!」
「鉄拳じゃ!」
そう言って蓮実は力任せに菖吾をポカスカ殴る。けれど、その手は次第に力が抜け、最後は背中を丸める菖吾に力なく置かれるだけだ。そこに熱いものがぽたりと落ちる。
「蓮実、蓮実、わかったから、痛いって」
「ほんとにもう……これからどうするつもりなのよ……」
菖吾のいる探偵社は、抜けるにはなかなか面倒そうなところだ。谷々越の推測通り、菖吾もなにか人には知られたくない秘密を握られているとしたら、岡崎からの依頼に失敗した今となっては、どれくらいかはわからないが罰金刑に処されるしかないのだろうか。
探偵が探偵されるハメになるとは思いもよらなかったし、その相手がまさか旧知の仲の菖吾だったなんて夢にも思わなかった。ただ、嫌な目に遭わされたものの、どうしても菖吾の今後を心配してしまう気持ちは、なくなってはくれないのだ。
……黒歴史とはいえ、あの『虫むしキャッチャーズ』での四年間は、思い返してみれば楽しかったから。楽しかったのは、菖吾の笑顔や笑い声が常にあったからだと思う。
「それなら僕のほうでなんとかしましょう」
すると谷々越が菖吾に向けてすっと右手を差し出した。ぱちぱちと目をしばたたく蓮実と菖吾をよそに、谷々越は「五秒以内にこの手を取らなければ今の話はなしです」と言って本当にカウントダウンをはじめてしまい、菖吾は慌てて谷々越の手を取る。
「蓮実ちゃん……?」
「……蓮実?」
「いや、だって。菖吾は私の友達ですから。私からもよろしくお願いします的な……」
そこに思わず自分の手を重ねてしまった蓮実は、きょとんとこちらを見るふたりにごにょごにょと言い訳する。ただ単に咄嗟に手が伸びてしまっただけなのだが、でも、咄嗟にそうしたということはつまり、やっぱり蓮実は菖吾を嫌いになりきれないのだ。
「じゃあ、蓮実ちゃんからもお願いされたということで。この件は僕が承りました」
「よろしくお願いします」
「私からも。本当にどうぞよろしくお願いします」
「はい」
そうして蓮実たちは近くのファミレスへと入った。そこで食事をしながら聞いた話によると、菖吾が探偵になった経緯は実に単純で、しかしめちゃくちゃ訳ありだった。
デパートのバッグ売り場(菖吾の担当だったそうだ)で何度か顔を合わせるうち、雑談もするようになったひとりの女性客から、ある日、ストーカーに狙われているかもしれないと相談を受けたそうだ。機会を窺いつつ取り押さえ、警察に引き渡したものの、しかしストーカーだと教えられた人物は、普通に買い物に来ていた赤の他人だったのだそうだ。その女性がどんな目的を持って菖吾に近づき、赤の他人をストーカーに仕立て上げたのかはわからないが、裁判沙汰にまで発展しそうだったらしく、絶対に許すもんかと菖吾は憤る。




