■第一話 猫はお手柄 1
依頼主の老紳士から受けたのは、逃げたペットの黒猫探しのはずでした。
――のに、なぜか白骨死体が見つかりました。
*
「お願い、待って!」
朝の閑静な住宅街の細道を辻堂蓮実は猛然とダッシュしていた。
黒地にダークグレーのストライプが薄く入ったパンツスーツ。スモーキーピンクのロング丈の春コートの裾がバサバサと翻る。両手に握られているのは、これじゃあ走りにくいと脱いだ三センチヒールのパンプスだった。形相は必死だ。それはもう鬼のような。
ターゲットを発見したのは、つい今し方だ。それなのに、もう息が続かないことから察する体力事情によると、朝ご飯を栄養補助食品と栄養ドリンクで簡単に済ませる普段からの偏った食生活が大きな要因であるのは、火を見るよりも明らかだった。
「待って、って! お願い……だから……っ!」
蓮実は息も絶え絶えに呼びかける。けれどターゲットは待ってくれるはずもない。それどころか距離は開く一方だった。下手をすると見失ってしまいそうだ。
でも、相手は地面しか走れない蓮実に対し驚くほど身軽なのだから、それも無理はない。
相手はむんずと四本の足の爪で電柱にしがみつき、全身を使ってよじ登る。音もなく塀の上に華麗なジャンプを決めると、ガサガサと葉音を立てながら民家の狭い庭から窮屈そうにせり出している木の葉の陰に潜り込んだ。そのあとはもう、なんの音も聞こえない。
「はあはあっ、いくらなんでも反則でしょう……」
蓮実はたまらず足を止め、霞みがかった薄水色の春空を仰いだ。目標に完全に逃げられてしまった今、蓮実の体を襲っているのはものすごい息苦しさと落胆だ。
今回のターゲットは、猫だった。赤い首輪に鈴を付けた黒猫のオス・三郎、十五歳。
それを追う蓮実は、谷々越探偵事務所の唯一の所員だ。
猫に対して反則もなにもないけれど、探偵事務所とは名ばかりの、九十九パーセントなんでも屋のような仕事しか舞い込まないこの探偵事務所においては、猫探しだろうがドブに落としたダイヤの指輪探しだろうが、大切な大切な依頼に変わりはない。むしろほかの探偵事務所には鼻で笑われてしまうような小さな依頼が多く寄せられるからこそ、蓮実は大学卒業後からこの三年、衣食住の安定をまあまあの水準で得られていると言ってもいい。
――それなのに。
「どうしよう、今日の午後一って約束なのに……」
額に手を当て、蓮実は途方に暮れた。
三郎探しの依頼をしてきたのは、中村一という七十代の老紳士だった。依頼は十日前。さらにその十日前から、三郎はふらっと散歩に出たきり家に帰ってこないという。
中村は、十日で見つけられたら依頼料は弾むということだった。こちらは猫探し専門の業者ではないので明確に期限を設けることはあまりしないのだが、迷った末、通常料金に上乗せされる〝弾み〟に天秤が傾いた蓮実は「承知いたしました」とその依頼を引き受けた。
そうしてなんとか三郎を見つけたはいいものの、この通り、タイムリミットが差し迫っているにも関わらず逃げられてしまった。錆びているのか、中になにか詰まっているのか、三郎の首輪の鈴は鳴らないので、音を辿って追跡することも叶わない。
「永久脱毛分割払い、月々三,九八〇円(税込み)、四月分……」
蓮実はそう呟いたきり、そこから足が動かなくなってしまった。
蓮実は常々、女子は「女子」であるために自分にかける費用が多いという、一種ハンデを背負わされた生き物だと思っている。身に付けるものから、化粧品、ストッキングなどといった消耗品の買い替えも多いし、ムダ毛の処理も最重要事項の一つとして数えていいだろう。たかが知れている給料で自分磨きにかけられる金額は限られるけれど、要は男性以上に身だしなみに気を使うことを課せられた面倒くさい宿命の生き物なのだから仕方がない。
ただ蓮実は、そんな宿命を背負いながらも自分が女子であることに普通に満足もしている。それに今月は春コートとパンプスを新調したので金欠だ。……どちらももうだいぶくたびれてしまい、新調するしかなくなっていたのだ。
だからどうしても、中村からもらう〝弾み〟が欲しかった。
もちろんすべて蓮実の懐に入るわけではないけれど、極小探偵事務所の給料体制はわりと緩く、ごくごく稀にだが〝大入り袋〟が出ることもある。依頼のため事務所を訪れた中村は、非の打ち所がないほど紳士然とした身なりだった。裕福なのは見るからに明らかで、だから蓮実はそのときから大入り袋に大いに期待を膨らませていたのだった。
「とりあえず出勤しなきゃ……」
力なく背中を丸め、手に握っていたパンプスに足を通す。
あーあ、地面を走ったからストッキングももうダメになっちゃってる……。
ボロボロに破れてしまったそれを見ると、蓮実の心はさらに重くなるばかりだった。
そんなとき、ブーブーと蓮実の耳に小さく音が聞こえた。コートのポケットからスマホを取り出せば、谷々越卓の名前。極小事務所、谷々越探偵事務所の所長だった。
「おはようございます、蓮実です。連絡もなしにすみません、今、三郎を探してて」
『あ、ぼぼぼ、僕だけど。……わかる? 谷々越。時間になってもなかなか出社してこないから、ついに僕のことが嫌いになったのかと思って……電話しちゃった』
通話口からは、聞き取りにくいことこの上ないボソボソの声が返ってきた。時刻を確かめる余裕もなかったけれど、どうやらもう始業時間は過ぎていたらしい。
「いえいえ、大丈夫ですから安心してください」
蓮実は、面倒くさい男だなと心底思いつつも、そう返す。
電話だけではなく、谷々越はいつもこうだ。ボソボソ喋る上に声も小さいので、とても聞き取りにくい。しかもこの通り面倒くさいし被害妄想もものすごいから非常に疲れる。
だったら転職すればいいのだろうけれど、残念ながら蓮実にはその際に武器になるような資格もスキルもなかった。それに、依頼主の喜ぶ顔を見るのが蓮実は好きだった。
これだから、この仕事は辞められない。嬉しそうな顔に触れるたび、いつもそう思う。
『そう、よかった』
「それより三郎ですが、日暮の住宅街の細道で逃げられてしまったんです。詳しいことは出社してから報告しますけど、この調子じゃ、午後一の約束までに中村さんにお渡しできるかどうか……。中村さんのお宅の近くですから、たぶんずっとこの辺をうろうろしてるんだと思うんですけど、なにしろ猫なので、見つけてもするすると逃げられてばかりで」
『そ、そう』
「三郎が自分で中村さんのお宅を見つけられたらいいんですけど、もう二十日もうろうろしてることを考えると、すっかり迷子になっちゃってたり、逆に野性に目覚めちゃってるのかもしれません。三郎、いつも窓の外を物憂げに眺めてたっておっしゃってましたし」
『たた、確か元は野良猫だって』
「はい。だとしたら、自分の意思で出ていったのかもしれませんよね」
家猫と野良猫とどっちが幸せなんだろう。ふとそう思い、蓮実はふるふると頭を振った。
もし三郎が本当に自分の意思で出ていったとしても、依頼は中村のもとに三郎を連れ帰ることだ。その契約も済んでいる。すでに金額も前払いで受け取ってしまっている以上、蓮実たちには必ず三郎を連れ帰ること以外に選択肢はない。
『わ、わかった。じゃあ、これから僕もそっちに行くよ』
「え?」
『時間もないし、人手はあったほうがいいから』
「い、いや、ちょっと待ってください、もう少し私だけで――」
しかし言い終わる前に電話は一方的に切れた。そのすぐあと、とりあえず日暮駅で待ち合わせましょう、と谷々越から届いたメッセージを蓮実は複雑な気持ちで眺める。
「ああもう……」
ひとつ大きなため息を吐き出すと、蓮実は再び空を仰いだ。「でも、仕方ない」と無理やり自分を納得させ、この辺りの地図アプリを頼りに駅の方角へ足を向かわせる。
谷々越の言うことはもっともだった。もうほとんど時間がない以上、人手は多いほうが断然いい。三郎を捕まえられなかった場合の謝罪も、ただの所員の蓮実ではなく、所長の谷々越がしたほうがなにかと格好も付くし今後の体面もいいだろう。
依頼主の中村は、動物を相手に必ず十日で見つけ出せ、なんていう無理難題を押し付けてくるような人ではなかったが、代表者が謝罪すればいくらか溜飲も下がるかもしれない。
ただ蓮実は、ものすごく心配だった。依頼が遂行できないかもしれないことではなくて、谷々越が外へ出ると、けっこうな確率で事態がややこしくなることが。
谷々越は、滅多に外に出ない代わりに、出ると高確率で変なことに出くわす。もはや体質と言っていいそれは、この仕事は辞められないと思う蓮実とて、大きな悩みの種だった。
――今日は絶対になにも起こりませんように!
蓮実は道路の真ん中で柏手を打つと駅へ向かう足を早めたのだった。
けれど、蓮実の願いも虚しく、事態は急変する。
「んにゃあ」
そう、どこか訴えるように一声泣く三郎は、谷々越と合流して間もなく、当たり前のように依頼主の中村一宅の庭先に座り、じっとこちらを見上げた。一足早く三郎の帰宅に気づいた中村が谷々越に連絡を取り、蓮実たちが急いで駆けつけた矢先のことだった。
しかし、なぜか三郎の足元には土を掘り返したあと。
中村宅の敷地は広く、庭の面積も、近隣の猫の額ほどしかない庭とは比べ物にならないくらい大きい。庭には様々な木が植えられ、中には何十年もここで中村家の日々の営みを見てきたのだろう歴史が垣間見える木もあった。そのひとつの木の根元を三郎は掘っていたのだ。帰宅して早々に穴掘りなんて、やっぱり猫の考えることは謎が多い。
猫は習性として掘るものだ。用を足すために。それはわかる。けれど、砂地でもないのにどうしてわざわざ固い地面を掘る必要があるのか、蓮実にはわからなかった。
それは飼い主の中村も同じだったようで、
「二十日ぶりに帰ってきたと思ったら、ずっとこの調子なんですよ」
口調は物腰柔らかだったものの、表情はどうしたもんかと途方に暮れていた。
「でも、無事に帰ってきてくれたんですから、よかったじゃないですか」
蓮実は弱りきった様子の中村に笑う。
猫の習性はたくさんあるが、中でも一番危険なのは車の前に飛び出してしまうことだ。
以前受けた依頼の中には、車のヘッドライトに驚いて道路に飛び出してしまった迷子猫もいた。うっかり窓の鍵を掛け忘れて出かけたりしなければと自分を責める飼い主に、そのとき蓮実はどうすることもできなくて、本当に心苦しい思いしかしなかった。
あの無力感を思えば、蓮実は元気な姿で帰ってきただけよかったと思う。結局、蓮実は三郎を確保することはできなかったけれど、無事な姿を見てじんと目頭が熱くなった。
「そうですね、本当に二十日も心配をかけて……。元気でなによりです」
「はい。ここは自分の家だって確かめているだけかもしれませんしね」
「ええ、しばらくすれば落ち着くでしょう」
「そうですね」
深いしわが刻まれた中村の目元にも、光るものが見え隠れしていた。三郎はペットではなく、中村の家族なのだ。家族の無事ほど安堵するものはない。行方知れずだったのだから。
「あ」
するとそのとき、じっと三郎の様子を見ていた谷々越が小さく声を上げた。
「どうかしたんですか?」
尋ねると、谷々越は蓮実と中村にもここへ来るよう手招きをする。訝しみながらも中村とふたり、谷々越の肩越しに三郎の足下に目を向けると――。
「きゃっ⁉」
「な、なんですかこれ……」
掘り返した土の合間から白いものが覗いていた。形からいって、骨のような。
といっても、土色に変色しているので、もとは白だったと言うのが正しい。小指の先ほどの大きさのそれは、よく見ると骨といっても動物のもののようだった。
いきなりのことだったので思わず悲鳴が出てしまったが、ここは以前飼っていた動物の墓かもしれない。今はペット霊園もあるが、中村の年齢くらいならペット霊園より自宅の庭で供養する考え方も持っているだろう。どちらがどうとは、一概には言えないものだ。
けれど、ほっと安堵の息をついたのも束の間。
「全部掘り返してみないとわかりませんが――人骨かもしれません」
「……⁉」
谷々越のその発言に蓮実と中村は同時に目を瞠り、はっと息を呑んだ。
その後はもう、すべて警察に任せるほか、蓮実たちにできることはなかった。
大いに気を動転させながらもどうにか通報を終えた中村とともに待っていると、間もなくして近くの交番から警察が駆けつけ、現場の見分と通報者の中村、そこに居合わせた蓮実たちも詳しい事情を聞かれた。しかし中村ともども、猫が地面を掘ったら出てきたとしか説明のしようがなく、事情を聞く警官の顔は次第に曇っていくばかりだった。
そこに見分を担当していた警官が「人骨かもしれない」と言ったことから、さらに大勢の警官が応援に駆けつける事態となった。たちまち辺りにはサイレンの音が鳴り響き、狭い道はたくさんのパトカーで埋まる。そして瞬く間にドラマやニュースなどでよく見る規制線が貼られ、何事だと出てきた住民たちの目から隠すための青いビニールシートまで登場した。そうしてこの一件は、近隣住民をも巻き込む大ごとに発展していったのだった。