スーパースターの夜明け前
――そう、俺はこの夜を、20年以上生きている。
『スーパースターの夜明け前』/未来屋 環
普段よりも重たく感じるギターを担いで、俺は暗い家路を辿る。
とぼとぼと歩くその様子は、憧れのスーパースターとは程遠い姿だろう。
仕方がない、俺は凡人なんだから。
凡人は凡人らしく、背中を丸めてひっそりと生きていくしかないのだ。
***
「おまえ、もう38歳だろ。こんなこと言いたくないけど、いい加減現実見たら? あかりちゃん、ずっと同棲のままでかわいそうじゃん」
乾杯を終えて開口一番そう言い放ったのは、昔のバンドメンバーだった。
そいつはギリギリ20代の内に就職して、今はそれなりの会社でバリバリ働いている。
スーパースターになって、俺たちの曲を世界中で轟かせよう――そう言って共に目をきらきらさせていたはずだった。
それが今は、子どもと笑顔で映った写真をちらつかせながら、こちらに醒めた眼差しを向けてくる。
俺は逃げるように視線を逸らして「いや、でもこの前のライブにレコード会社の人が来てくれてさ……」と言いながら、グラスに口を付けた。
そんな俺に、目の前のそいつは乾いた笑いと共に言う。
「おまえってさ――嘘を吐く時、目を逸らす癖あるよな」
――嘘じゃない、本当に来てたんだ。
でも、確かに俺目当てだったとは思えない。どうせ他の若手バンドでも観に来ていたんだろう――そんな思いがあって何も言い返せず、俺はグラスを煽る。
喉に流れ込んできたビールが、やけに苦く感じた。
***
彼女のあかりと住んでいるアパートが見えてくる。
ぼやりと暗闇に灯る光を見ながら、俺の中であいつの言葉がリフレインした。
『あかりちゃん、ずっと同棲のままでかわいそうじゃん』
確かにそうかも知れない――バイトをしながらいつ叶うかわからない夢を追いかける俺と、日々忙しく正社員として働くあかり。
俺がこんな身分だから、付き合ってから結婚に至らないまま早20年が過ぎようとしている。
あかりは高校の時から、俺なんかには勿体ない彼女だった。
いつも明るくテキパキとしていて、笑った顔がむちゃくちゃかわいい。そんな彼女だからこそ、男なんて幾らでも選べるだろうに。
ドアの前に立つと、中からふわりとカレーの匂いがする。
そう、あかりは俺が飲み会の夜に、カレーを作る癖があった。
俺としてはシメになるのでありがたいが、彼女に何故そういう癖があるのかは未だによくわからない。
できるだけ明るい声で「ただいま」とドアを開けると、カレーの匂いが強くなった。
視界に入ったあかりは、「おかえり」と言いながら鍋をかき回している。
「カレー食べる? 早く手洗っておいで」
俺は素直にその指示に従い、準備をして食卓に着いた。
あかりが二人分のカレーを運んでくる。
いざ「いただきます」と食べ始めようとしたところで、あかりが口を開いた。
「思ったより早かったね。楽しかった?」
ぐっと言葉に詰まるが――怪しまれないように、俺はすぐさま笑顔を作る。
「あぁ、この前レコード会社の人が来た話したらすごく盛り上がっちゃって。『デビュー決まったら教えろよな』って言われたよ。ほんと、気が早いよな」
ぺらぺらと口から勢い良く言葉を吐き出しながらも、俺はあかりの目を見られなかった。
すると、あかりが「ねぇ」とばっさり俺の台詞を遮る。
「とりあえず、冷める前にカレー食べなよ」
しまった、バレたか――俺は内心焦りながら、カレーを口に運んだ。
瞬間、頬が緩む。
――うまい。
憂鬱さで萎んでいたはずの食欲に火が点いた。
やっぱりあかりのカレーはうまい。
さっきまでの暗い気持ちが、暴力的なうまさで上書きされていく。
スプーンが止まらない。黙々とカレーを食べ進める。
冷たかった腹の中が、熱で満たされていった。
「――あいかわらず、いい顔するよね」
投げかけられた言葉に手を止めて、俺はまじまじと目の前のあかりを見つめ直す。
あかりは穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「昔からそう。カレー食べたら心から嬉しそうに笑う癖、変わらない」
そうなのか?
自分にそんな癖があるとは全然気付かなかった。
あかりが明るく笑う。
「そんな顔ができる内は大丈夫。頑張ってるんだから、きっといいことあるよ」
その笑顔を見て、今度は胸に熱が灯った。
それは決意の炎だったのかも知れない。
「――うん、俺、スーパースターになる。なって、あかりを絶対幸せにする」
勢い込んでそう言った時、机の上のスマホが震えた。
ちらりと通知を見るが、そのアドレスに心当たりはない。どうせ迷惑メールだろう。
ふふっとあかりが笑う声で、スマホへの意識が途切れる。
「いいじゃん、スーパースター。でも、私今も十分幸せだけどね」
「――えっ、そ、そう?」
「ま、もっと幸せになるのもいいんじゃない? よっ、未来のスーパースター!」
あかりのおどけた言葉に、俺も思わず吹き出した。
翌朝、忘れかけていたメールからスーパースターに続く道程が拓かれることを、この夜の俺はまだ知らない。
(了)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
こちらの作品は『癖』というテーマで書いた短編ですが、書き始めたら何だか『癖』の色が薄くなってしまいました。
夢を追うこと、地に足を付けて生きること、どちらを選ぶのもそのひとの生き方。
それを他人がとやかく言うのは野暮ってものです。
きっと、どんなスーパースターも、こんな夜明け前を生きていた。
そう考えると、この忙しい毎日も頑張れるような気がします。
お忙しい中あとがきまでお読み頂きまして、ありがとうございました。