五 敵襲(二)
「姉上! わ、私も戦います!」
紗紗丸が弓を手に太刀を腰に、駆けてきていた。
弟は口早に、子らは他の女衆に任せて既に退却をしはじめていると語った。それなら何故、紗紗丸は此処にいるのか。桃子は睨め付けた。
「紗紗丸」
「私が次期頭領になるならば、今、ここで一族のため戦うべきでしょう。いま命を掛けずして────」
「は、愚かよ!」
す、と冷たい視線が紗紗丸に向けられた。
ぐう、と唸って彼はたじろぐ。
彼とて姉の言い分は理解していた。紗紗丸に託されたのは、一族を長らえさせること。鬼はここで途絶えてはならない。それならば、彼はここに居るべきではない。
なのに、彼は姉の元に戻ってきた。己の意思だけを優先させてここに来た。
「それが主のやることか。それが長たるべき者のやることかよ」
「姉上の仰せのことも理解しておりまする! しかし、しかし、守る為、長が矢面に立つのは当然でしょう! 私がいなくても彼らは逃げおおせましょう! 如何なる敵とて、我ら二人なれば如何なる敵にも負けはしませぬ! 共に戦い、共に帰りましょう!」
「……聞け、紗紗丸。長は守る為に戦うこともあろう。奪う為に戦うこともあろうよ。それだけが長ではないと、主も心得ておろうに」
「私も、姉上と共に戦いたいのです……」
「……逃げもまたひとつの戦いじゃ。一族を生きながらえさせる為に逃げることもまた一つの長の使命だと心得よ。守るために私が戦う、お前は守る為に退けと言うておるのだ」
だから戯けるのはよせ──桃子はそう言うのである。
本土に着いたら、鬼たちは散り散りに逃げることになるだろう。各地で息を潜めて、じっと機会を待つことになる。人の油断はきっと早い──幾月か、幾年か、その隙を狙うべきなのだ。
「主が皆を引っ張れ。その為にお前を本土に向かわせるのじゃ。この桃子と紗紗丸、互いがやるべきことを見失うことは許されぬ」
「姉上」
「──時を無駄にした。疾く消えよ」
ひどく冷たい声だった。しかし視線は柔らかいものになっていた。その口元にわずかに微笑みが浮かんだのを、紗紗丸は見逃さなかった。
──生きろよ、紗紗。
桃子はおい、と暗闇に呼びかけた。
彼が此処に来たのなら、きっと彼女も追ってきているだろう。あれは己の使命に忠実な鬼だから、決して主人を一人にはしない。
「秋葉よ、何処におるか!」
案の定、近くから声があがる。
「──ここに」
「紗紗丸と子らと共に本土の──件の場所に行け。そこなら、身を潜められるじゃろ」
「はい。────紗紗丸様、御身お預かり致します」
「……な!」
紗紗丸が息を呑む。秋葉が紗紗丸を抱えたからだ。なんとも、秋葉は忠実な鬼だった。真っ直ぐに桃子に頭を下げて、さっさと踵を返す。
紗紗丸は暴れるがどうともできない。秋葉は女だが、滅法力の強い鬼だった。幼い紗紗丸は簡単に抑え込まれてしまうのである。
「姉上! 姉上ッ! 何故ですか! 共に戦わせてください! 一人は嫌だ! 貴女をもう、一人にしたくないのに!」
泣き喚く紗紗丸はやはり、鬼らしくない。
「姉上の御首は紗紗にくださるのでしょう! 嫌だ、お一人になどさせとうありませぬ!」
大きくため息をひとつ。その間にも秋葉は止まらない。二人の距離は広がる。紗紗丸の悲痛な声を聞きながら、桃子は笑っていた。
──ああ、なんとも愛おしい、ばかで、愚かな弟よ!
「すぐ会えるさ、この莫迦者が。──行けよ、秋葉、紗紗丸! 生きてまた会おうぞ」
紗紗丸はしゃくりあげて、それでも動けない身と、姉の意志を理解したのだろう。
「桃子姉様ッ」
もう一度だけ、弟は姉の名を呼ぶ。
離れてゆくのに、その声は不思議と届いた。
「……紗紗の元へ、必ずお戻りください! 必ずです──それまで、それまでは、この紗紗丸が姉上の代理として一族を守って見せましょう……ッ! 必ずやこの怒りを、共に!」
情けなく抱えられて、涙で顔を汚くして、それでも力強い光が目の奥で燃えていた。怒り、悲しみ、それに勝る意志の光。紗紗丸に足りなかった焔が灯る。
──そう、これが見たかった。
桃子としてはもっと別の時に見たかったのだが、我儘は言っていられない。ようやっと及第点だと破顔した。
「ご無事で、姉上」
「誰にものを言うておるのじゃ」
桃子は背を向けた。
「我は鬼の桃姫ぞ。お前の為のこの首じゃ──むざむざ死ぬつもりなぞあるものか」