二 桃姫(二)
鬼ヶ島は岩ばかりの島だが、それを切り出して城のようなものは建てられている。門があり櫓があり蔵があり本丸に天守もある。庭なども桃子が凝って造ったりなどして、石畳の左右で青々とした季節の草花が方々で背を伸ばしていた。
その中を二人は歩いている。
「人間どもに不穏な動きがございます」
そう言ったのは阿良丸だ。
「不足しているものはありますが、今は下手に動かれない方がよいかと」
「奴らは常に不穏ぞ。人間どもはこの世全てが己が世と勘違いしておるでな、我々をどうにか駆逐せんと必死なのよ」
くつくつと笑うのは桃子だ。
「常のこと──ええ、確かに仰る通りで、しかし、今回のは話が違う。他所での諍いなら良しとしましょう──しかし、わざわざこの島を目指して来る一行がいるのだと、そういった話ですからな」
「なに?」
桃子は眉根を寄せた。これまでもこの島を目指してきた人間はいないでもない──が、逃げてきた身寄りのない者や、迷い込んだ者がほとんどだった。彼らは食わずに住処と仕事を与えて居たのだが、まさかここに攻め入ろうなどという輩が居るとは。
「して、規模は」
「さあて……しかし百人も、その半数すらおりますまい」
「ふふん、随分と謙虚じゃの」
鼻で笑ったが、しかし、桃子は険しい顔を崩さなかった。あれだけ強かった父を殺したのもたった数人の男だ。人妖入り乱れの大規模な戦争などここ暫くは聞いていない。最近はどんなに強い力の鬼でも、人間の小賢しい策に陥って、たった一人に殺されることだってままあるのだ。
「ふん、気ままな旅か、遠島か──まあ、そんなことはあるまいな。無謀にも我らの首を狙うと」
「ええ。なんでも彼奴等は鬼を退治すると声高らかに吹聴してまわってるとか。兵を集めてるとの話は聞いてませんから、大軍で押し寄せることはないかと」
「ふむ、ふむ……」
直近では先月に近場の漁村に狩りには行ったが、そこでも特段強い抵抗はなかったはずである。生きる為に狩りをするのは人とて獣とて鬼とて変わらない。人と人との間にも似た行為は横行する。だのに、彼らはそれを理解しようとしないのだからかなわない。
「彼奴等も分からぬものよな」
「いや、まったく」
阿良丸も重く頷いた。
「いつも平穏を壊すのは小さな波紋から──そうさな、見廻衆に疾く備えるよう伝えよ」
「仰せの通りに」
「相手が少人数だとちと見廻が大変じゃが、相手は小さく弱い人間じゃ。見つけて仕舞えば、狩るのは一瞬じゃろ」
豊かな海に囲まれ、甘酸っぱい花の香りと磯の香りに満ちたこの島を、桃子は愛していた。一から鬼たちで作り上げた島だ。鬼が暮らす鬼の為の島。
この島と生活を守る為ならばどんな手段も厭わない。蓄えた宝は勿論だが、ここで暮らす鬼たちも、鬼たちで作り上げた島での暮らしも、全てが桃子の宝だった。そして、その全てを弟に受け継がせなくてはならない。
弟を立派な鬼の頭領にする──それが桃子の長年の夢でもある。
「全く何処も彼処もキナ臭い。疲れるばかりで敵わん。紗紗丸には早うよい頭領になってもらわんとなあ」
桃子はそれを望み、その為に紗紗丸に稽古をつけたりなどしている。残念ながら紗紗丸は争いを好まない性質だったので、あまり稽古は好まず、その成果は芳しくはないのだが……。人間である母の血を色濃く受け継いだのかもしれない。
「早う楽にさせてもらわねばならんなあ──」
本気か戯れか──いずれにしても桃子の口癖だったので、全ての鬼に桃子の夢は伝わっていた。
そのことに、全ての鬼が好意的ではない。
現に阿良丸も眉根を寄せていた。彼は桃子の父を主君とし、桃子をも主君と認めた。しかし紗紗丸のことは認めていなかったのである。
「主君、本気で紗紗丸様に全てをお任せになるのですか」
「なんじゃ、いかんかえ」
こんな反応は日常茶飯事だった。故に、桃子は笑った。
「紗紗丸は良い男になる。じきに父のような──いや、父にはない性質もあるからな、もしや父を越えた頭領になるかも知れぬぞ」
「……弟君がそのお立場に相応しくあられるかは、甚だ疑問ですな」
「相応しくなく、弱ければ、淘汰されるのみよ。まあ、この桃子の生きているうちはそんなことはさせぬがな──」
「いや、そのようには。失言でござりまする……」
阿良丸は深く嘆息した。
「紗紗丸さまは──人の子であられれば良かった。人の社会でのみ生きるのであれば、あの方も大成されたろうに。長く生き、慕われたろうに」
阿良丸は別に紗紗丸のことを嫌ってはいない。嫌ってはいないが、主として認めてもいないだけだ。
「心配かえ」
「鬼の世はかような心持ちでは生きてはいけませぬ。力が無ければ生きてはいけませぬ。頭領が斃れれば即ち我らも斃れるのです」
「ふむ……」
「ただでさえ、不穏なる雲行きがあるのです。──桃姫様。なにもかも──今のままでは弟君に頭領の座を譲るなど叶いませぬぞ」
まあ……と桃子は弟を思った。
紗紗丸は弓の名手ではあったが、武器を厭うた。命を奪う時、彼は懺悔をしながら泣く泣く奪う。扱えばそれなりに強いのに、刀や槍のようなものは握らず、なんとか弓で離れたところから射殺す──まったく臆病な男である。それでも稽古を続け、生きることのなんたるか──即ち奪うことのなんたるかを説き続け、最近はようやく後継者の心持ちはできてきたらしいが……。
他の鬼たちの懸念も尤もなところはあった。
「あれが姉の首を落とせぬと思うか、阿良丸よ」
鬼の世襲は数多の形あれ──桃子が弟に望むのは己の首を落とすこと。万人に長と認められた力を持つ桃子を捩じ伏せたとあれば、もう誰も紗紗丸に不遜な態度はとるまい──そう願い、紗紗丸にもそう命じてきた。紗紗丸は最近になって、ようやくそれを了承していた。
「紗紗はやる子じゃ。一寸ばかり臆病だが、近頃は命を獲ることを恐れてる目はしておらんよ」
桃子はそう信じていた。どうしてもやらねばならぬ時、あの子が躊躇うのを桃子は見たことがない。常ならば嫌がり、泣き喚こうが、その時になればきっとわかるはずだ。
「ああ、あの子ならできるともさ、阿良丸」
からからころころと桃子は笑った。
「じきにわかる」