一 桃姫(一)
むかしむかし、いつ頃かの話である。
まだ人世と隔世が交わっていた頃、鬼たちは人の近くで生きていた。ある者は山に御殿を築き、ある者は人に紛れ町に暮らし、ある者は谷に棲み、またある者は本土から島に出た。その中でもひときわ鬼ばかりが棲むその島は、誰が呼んだか鬼ヶ島──本土からそう遠くない海の上、ぽっかりと浮いた岩ばかりの小島である。
島を治める鬼はまだ若い。溢れんばかりの活力で自ら民を鍛え上げ、狩りを行い、赤い旋風のように島を駆け抜ける。
「姫様!」
男子のように結えた燃えるような赤髪に、人とは異なる鮮やかな色の瞳が陽光を受けて輝く。裸足姿で岩山を駆け、その都度黒い水干の裾をひらりひらりと翻す。よく笑う口元からは鋭い犬歯が覗いていた。
よく跳び、よく跳ねる、風のようなこの彼女こそこの島の鬼を束ねる鬼の姫君──
「桃姫様!」
名を呼ばれてようやく、花の顔が振り返った。
名を桃姫──桃子と言う。
桃と言えば古来から魔除けに使われるような代物だ。それなのに、魔に近い存在に桃と名付けるとは。母から貰った名だが、笑い話のようだと常々思っていた。
彼女の父は生粋の鬼だが、母は何処ぞの名高い人間の娘御──要するに貴い姫君だった。攫われて嫁に来たと言う話だから、きっと抵抗する気持ちで名付けたのだろうが……。
幸か不幸か、彼女は鬼として立派に成長した。
桃子の父の屋敷は都にほと近い山にあって、人を喰らう悪鬼としてそこそこに名を馳せていた。彼の元には金銀財宝がうずたかく、共に暮らす鬼たちもそれは豊かな暮らしをしていたそうだ。それがある日、食うはずだった人間に逆に討ち取られてしまった。金銀財宝も、命も、何もかも奪われたのだ。
一方で母はといえば、うんと前に風邪を拗らせて死んでいたので、桃子は父が死んだその日から父の代わりに一族を纏める頭領になったのである。
桃子とその弟紗紗丸は一族を連れ、ここ鬼ヶ島まで流れて来た。
幸いにして、桃子は強い鬼だった。
薙刀を振るえば暴風がおこり、放つ矢は万里を疾り、大陸の見慣れぬ火薬や道具も難なく使いこなした。身一つでも問題ない。ひとつ踏み込めば屋根まで跳び、くるりと舞って音もなく着地する。十分すぎる力、奪うことへの躊躇いのなさ、そして先代頭領の姫という血筋──どこからもこの島を桃子が統治することへの不満は出なかった。
奪い、守り、命を繋ぐ。
桃子は既に一族の長として立派に責を果たしている。それは全て、弟の紗紗丸に頭領の地位を譲るまでの話──これが桃子の口癖だった。
「のう、紗紗丸よ、いつになったら姉に楽をさせてくれるのかえ」
桃子がそう聞けば
「当分は叶わぬ夢かと。紗紗は未熟者にございます」
紗紗丸がそう返す。これが常だった。
まだ幼い弟は、やはり出来すぎた姉と比べると少しばかり見劣りする。
父によく似た桃子とは反対に、彼は母によく似ていた。黒々とした髪に同じ色の瞳の容姿は人間らしいが、十分すぎるほどに麗しい。幼いながらに弓の名手であり、勤勉ではあるのだが、いかんせん鬼らしくない。動物であれ人間であれ奪うことを渋るほど、残酷さが足りない。それは紗紗丸自身も認識していた。他の鬼からも頼りなく思われていることは周知の事実だった。
とは言え、姉弟の仲は良好そのものだった。姉は弟を疎むことなく愛し、導いたし、弟も姉を慕いこそすれ、恨むことなどはなかったのである。
桃子はひらりと欄干に降り立つと、腰に手を当てて遅れてやってくる侍女たちを睨め付けた。折角、自由な時間を楽しもうとしていた矢先だったのに。
「なんじゃなんじゃ、揃いおって」
仕事はとうに片付けた、そう言いたげな瞳で桃子は振り返った。鬼に仕える朝廷などないのだから、書類仕事などありはしない。あるのは生きるべく日々狩りに出かけ、城を強くし、兵と後継者を鍛えることだ。時折外来の書物を広げて議論もするが、最近は新しい書物の類は入って来ていないのでそちらの心配はないはずである。
「何ぞ足りぬのか」
考えられるのはそれくらいだった。
島でも作物などはいくらか育ててはいるが、やはり皆が満足に生きていくには心もとないものがあるのも確かだった。島で足りないものは他所に探しにいくしかない。
「仕方あるまい、ならば手近な人里に出向くか」
「いいえ、いいえ、姫様」
そう言って侍女たちを押し退けてやって来たのは、身の丈七尺ばかりの大男。桃子の師であり、父の代から仕える鬼である。
「なんじゃ、阿良丸」
「姫様、島外に不穏な動きがありまする。そう遊び歩いておられる暇などありませぬぞ」
「遊び歩いてなどおらぬ」
桃子は口を尖らせた。
「島を回るのもまた、我が職務ぞ」
「まあ、それもそれで良いのでしょうが……」
溜息混じりに返された。
「なんじゃなんじゃ、その言種は」
「いえ、失礼。話を戻しましょう」
「お主が始めたのだろうに」
「……急を要しておりまするが、ちと、慌てすぎたのやもしれませぬな。なにぶん島の安寧を左右する話故……」
「ええい、仕様のない奴じゃ。わかった、歩いて話すぞ。阿良丸はついて参れ──主らは元の場所に戻れや」
桃子は侍女たちを帰すと、阿良丸と連れ立って歩き出した。