別に婚約解消しなくてよいのでは?
「すまないアンジェリカ! 僕はもう引き返せないんだ!」
「はあ……そうですか……?」
王子殿下の、深刻な表情。あまりにも芝居がかった、大げさな抑揚。
私たちは長い付き合いではあるが、その意思を察するほどには理解などできていなかったようだ。
「僕は、君を裏切ってしまった! 罵ってくれ! 蔑んでくれ! 豚になり下がった僕は君に相応しくない!」
「えっと……?」
今年で十年。
私が、殿下と婚約して、それだけの時間が経った。もう何年かで正式に結婚し、互いに支えあいながら国を作っていこうと思っていた。
だが、この様子を見ると、どうにも雲行きがあやしい。
「もう少し細かめに話してくださる? 抽象的にではなく」
「私は、出会ってしまったんだ! まるで頭を鈍器で殴られたような衝撃に……」
「そういうのいいから」
殿下はしょぼんと肩を落とし、仕方なしという様子で話し始める。
不思議だが、芝居がかった話し方をしなくては喋りにくいらしい。
「僕は、真実の愛を見つけてしまった。だから、君との関係をこのまま続けていれば君を必ず不幸にしてしまうのだ。だから、君には僕を忘れて新たな幸せを探してほしい」
相変わらず芝居がかった口調だが、おかしな修飾語がなくなっただけでだいぶ分かりやすくなった。つまりは、浮気をしているから別れてほしいという事だ。
「あの、殿下。そのお相手とは……」
「男爵令嬢。ミランダ・ノーマン嬢だ」
「ああ、やっぱり!」
ミランダ・ノーマン。生まれが生まれならば、間違いなく社交界の宝として注目を集めていただろう。
爵位がもっと高ければ。
家がもっとお金持ちならば。
親にもっとコネクションがあれば。
誰もが認める傾国の美女となりえただろう。それこそ、この国で知らない者など誰もいないほどに。
しかし、彼女はどうしようもなく『知る人ぞ知る』程度の美少女だし、なにより『知らない人は全く知らない』程度の人間なのだ。
一目見てしまえば殿下ですら虜にする美貌を持ちながら、そもそも殿下が彼女を知っている事自体がこれ以上になく意外。だがそれでも、殿下が私を裏切ってこんなバカな事を言い出す理由は、彼女を目撃した事以外には考えられない。
だから、『ああ、やっぱり』なのだ。
「彼女を想うと胸が苦しくなる! 不思議と目で追ってしまう! 今まで知らなかった感情が、僕の胸の内側に湧くのだ! 僕は、この苦しみに蓋をして生きる事ができそうもない!」
「わかる」
「……え? なに?」
「めっちゃわかる」
わかる。あんなに可愛い子がいたら簡単に心変わりしちゃうもん。
あの子が食べてたお菓子と同じ物を探して食べるし、あの子が好きな色のドレスとか用意しちゃう。夜会ではあの子と隣になって不自然じゃない色味の格好をするし、あの子の誕生日はこっそり祝ってる。同じ時代に生まれてくれてありがとうっていつも感謝してるし、同じ空気が吸える幸運で神に感謝とかしちゃう。しばらく顔を見ないと不安になるし、調子が悪いようだと聞くと気が気じゃない。朝起きたらいつもあの子は元気かしらって思う。昼に紅茶を飲む時はいつもあの子は何してるのかしらって思う。夜眠る前にはいつも明日はあの子に会えるかしらって思う。そういえばそろそろあの子は生理じゃないかしらと心配するのは普通の事だし、あの子の事を考えていないと体調が崩れてしまう。あの子がお花摘みに行った後を追って夜会を抜け出し、あの子が出た後の個室に入って息を吸った。あの子が————した————に——するし、——は————が我慢ならない。————のあの子の事を考えるだけで——し、————は————。
女の私がそうなのだ。男性である殿下が今まで無理矢理に襲わなかった事が不思議なくらいである。
「殿下。私との婚約を解消しようというのですから、すでにミランダさんとは親密であると考えてよろしいのですか?」
「そ、そうだ。彼女を責めないでくれ。これは僕が愚かなのがいけないのだ」
「いいなぁ! 私にも紹介してくださいよぉ!」
「話聞いてる?」
「妄想じゃあありませんよね!? それだったら私だって親友なんですから!」
「????」
「今すぐ呼んでくださいよ、ここに! それができなければ信じませんからね!」
「いや横暴すぎる……」
文句を言いながらも、殿下はミランダさんとお話しする席を設けてくれた。
時はすぐ。場所はここ。すぐさま呼べたところを見るに、少なくとも全く知らない仲ではないらしい。
どうしましょう、私。汗臭くないかしら? 挙動不審になったら恥ずかしいわ。ここは冷静に、落ち着いた令嬢として対応しなければ。
「ごごご、機げ嫌麗しゅうミランダしゃん!」
「落ち着けよ」
「あの、えっと……これは一体……?」
「彼女に君と僕の仲を打ち明けていたんだ。秘密にするのは不義理だと思ってね」
「まあ! ではもう私達はおしまいなのですね……」
「いやあ、それはどうだろう……?」
ああ!! ミランダさんが目の前にいる!!
いい匂いする! 可愛いいいいい!!
お人形さんみたい!? いやこんな可愛いお人形見た事ないわ! お人形より可愛い! しゅきぃいい!!
「あ、アンジェリカ様!」
「はいぃ〜!?」
「申し訳ありませんでした! 私は身を引きます! 二度とお二人の前には現れないので許してください!」
「なんでそんな酷い事を言うの!?」
「えぇ!?」
二度と……に、二度、と!? なんで!? 私がいったい何をしたというの!?
「わ、私の事がお嫌いかしら!?」
「い、いや、アンジェリカ様がわたしの事をお嫌いかと……」
「なんで!?」
「なにが?????」
もう二度とミランダさんと会えない。ミランダさんを見れない。ミランダさんに近づけない。全部が全部、苦痛に他ならない。
ていうか、私今ミランダさんとお話ししているわ! どうしましょう、変な事言ってないかしら!?
「私がミランダさんを嫌いになんてなるはずがないわ! こんなに可愛くて、愛おしくて、愛らしい貴女を嫌いな人間がいるはずないもの!」
「確かにその通りだ」
「殿下、ちょっと静かに」
ミランダさんが頭を押さえる。
どうかしたのかしら? 具合が悪いなら一大事だわ。
「あの、お二人は婚約関係にあると聞き及んでおりますが……」
「? そうね」
「間違っていないよ」
「……お恥ずかしながら、この度わたしは殿下に惹かれてしまいました」
「いいなあ」
「この身に余る光栄だな」
「えっと……なので、わたしの事を恨んでおられるかと……」
「なんで? こんなに可愛いのに」
「ああ、その上愛おしくて愛らしい」
「ここが分からないのよねえ……」
「ミランダさん、お疲れかしら?」
「少し休むかい?」
「…………はぁ」
ミランダさんがため息を……
きっと何か悩み事があるのね。分かるわ。ミランダさんはいつだって悩ましいほどに可愛らしいものね。
私も、いつもなんでこんなに可愛いのか悩んでいるもの。
「そうだわ! いい考えがあるの!」
「……あまり聞きたくありません」
「ミランダさんがそう言うなら」
「いや、食い下がってくださいよ、公爵令嬢でしょ……」
多分、話していいという事だろう。なら遠慮せず……
「ミランダさんが殿下と結婚して、私が愛妾に下るというのはどうかしら?」
「アンジェリカ、君は天才か?」
「いやおかしいでしょ!? せめて逆でしょ!!」
「じゃあ逆にしましょう」
「は?」
「そうだな。ミランダが言うならそうしよう」
「は?」
ミランダさんが顔と性格だけではなくて頭もよくて助かった。その類稀な才能によって、瞬く間に解決策を示してくれるなんて。
ところで、そのおっきな目を殊更に見開いているけれど、いったい何が不思議なのかしら?
◆
十二年後、国王が病に倒れ王太子がその後を継いで王座に就いた。
その後五十年にもわたり、王国は平和な時代を築く。
それは王の功績に他ならないが、王を支えた王妃の存在を無視する事はできないだろう。
しかし、後世には一つの不思議が残る。
この国の、この時代の、この世代に関してのみ、なぜか王の愛妾についての情報がやたらめったら多いのだ。
歴史家は、自らの伴侶よりも王の愛妾に詳しいなどと言われる始末である。
特に、その美貌についてはなおさらである。
いったい何故このような情報の偏りが生まれたのか、専門家の間でも意見が分かれている。
まさか、ぶっちゃけめっちゃ好きだったからなどとは思いもしなかった。