RAIN〜隠した気持ち〜
私は雨が好き。
地上に降り注ぐ雨は、大地と共に汚染されているけれど、私には清らかな水に思えてならない。
私の心の中に巣食う欲望を洗い流しているようで、雨の日はとても心穏やかになれる。
誰にも告げることの出来ないこの想いを隠し始めて、もう2年の刻が過ぎた。
あの人にばれてはいけない。
私の立場はとても危ういから。
背伸びをして、大人のフリをした私は偽物。
泣き虫で、すぐに落ち込んでしまう子供の私は本物。
本当の私をあの人はきっと知らない。
出会った時に被ってしまった大きな猫ちゃんは、いまだに返上できなくて。
欲しいものを我慢して、大人ぶっている私をあの人は好きなんだと思う。
欲しいものを欲しいと駄々を捏ねる子供の私を知ったとき、あの人はどう思うだろうか。
それを考えると、とても怖い。
だから、この想いだけは隠さなければいけない。自分の為に。
私の居場所を守る為に――
だけど。
嘘で固めた私がずっとあの人の傍にいることなんて無理だった。
熱い、灼熱の夏。
あの人に出会って2年が過ぎ去ろうとしている。
私の恋人は6才年上。
職業、モデル。
180を超える長身なスタイルに、程よく鍛えられた肉体美。
亜麻色の髪は光を受けて金色に輝き、きちんと手入れされた美顔は女の私から見ても羨ましく感じるレベルのもの。
モデルとしての地位は世界でもトップレベルで、数々のCMに最近ではドラマにも出演している。
そんな啓さんに言い寄って来る女たちは数知れず。
ううん、女だけではない。可愛らしい男の子からむさ苦しい男性までと幅広く、誰からも言い寄られている。
そんな男がどうして私なんかと付き合っているのか――いつもそう思い、思い続けて2年が経った。
啓さんが私みたいな普通の子を相手にすることはとても不思議なことだ。
でも、2年も付き合ってきて、啓さんが何もしないということはもっと不思議なことではない。
エッチどころか、キスすら頬どまり。
たまにふざけて抱きついてきたことはあったが、そんな時もすぐに離れていった。
私と付き合う前は、色んな女をとっかえひっかえの状態だったと啓さんの姉であり、マネージャーの藤子さんがこっそり教えてくれた時はとっても嬉しかった。
反面、どうして私なんかと?思わずには入られなかった。
啓さんは、いつも違う女達の薫りがしている。
仕事柄仕方がないことだって分かってるけど、やっぱり心は痛む。
私と付き合いだしてからは、女遊びをやめてしまったことが私を好きだと告げた啓さんの、彼なりの誠意だと信じていたんだ。
ううん、信じなきゃ心がおかしくなるって分かっていた。
そんな風に啓さんを信じていた私を、彼はあっさりと裏切った。
あの日、私が目にした光景が、お前なんかもういらないんだと告げているようで私はその場に立ち尽くすしかなかった。
その時の啓さんの顔は覚えていない。
私が唯一覚えているのは、色。
紅い唇。
啓さんに寄りかかるように、私には似合わないファッションを着こなす女性は笑っていた。
耳元に近付けられた紅い唇は、避けられることもなくて。
二人は、私の存在に気付かずに啓さんのマンションへ消えていった。
「嘘、でしょ?」
涼しい喫茶店内で私はアイスティーを飲みながら、呆然としている友人をみつめた。
複雑な顔をした友人・わかは、アイスコーヒーを手にした状態で固まっていた。
「ホント。啓さんには新しい彼女が出来た。昨日見たから」
「それで、アンタ…見てただけなの?」
恐る恐る聞いてくる。
私は無表情に頷き返した。
突然呼び出されて言われた言葉が、浮気されたということなら疑いたくもなるだろう。
だけど、それは紛れもない真実。
「見てて、何もしなかったの?それにこれからどうするの?」
「うん――まだ考えてない。でも、もう潮時かな?2年間、すごく不思議だったんだ。なんで私みたいな平凡と付き合ってるのかなって。いつか、こんな日がくるって分かってた。だから、啓さんに別れようって言われても、きっと大丈夫だと思う。平然としてるよ、私は」
彼が望む大人の関係ならこんなことですがりついちゃダメなんだ。クールな私を好きな彼に涙なんか見せちゃいけないんだ。
そう、自分に言い聞かせていると突然バシっと頭を叩かれ、
「アタシの前でまで、いい子ぶんな!アンタが泣き虫で落ち込みやすいことくらい分かってる!」
怒鳴られた。
あまりの痛さに涙ぐんでしまう。手加減なし?と視線を向けるとまた叩かれた。
「!?」
「アンタは我慢し過ぎ!あの人の前でもそうやって泣きゃいいのに!」
怒鳴ってすっきりしたのか目の前のアイスコーヒーを一気に飲み干した。
痛い頭をさすり、回りを見渡すと視線が突き刺さる。
朝早い時間だったから店内には数人しかいなかったが、すみませんと頭を下げるとわかも慌てて頭を下げた。
「……」
「……」
「…ごめん」
「ううん、私こそ…」
「今のは大声出したことに対して。瑞季を叩いたことは謝んないからね」
「うん…」
分かってる。
自信の持てない私を、ホントの自分を見せない私を、怒ってくれたんだよね。
「ちゃんとあの人に瑞季の気持ち伝えてきなよ」
「……いいのかな?」
「付き合ってるんでしょ?ホントの自分見せて、ケンカでもしてきなって。それで別れることになったら慰めてあけるからさ」
「……ありがと」
そうだね。
これが最後ならちょっとくらいホントの自分を見せてもいいよね――
啓さんにもらった合鍵を握り締め、目の前の扉を睨み付けた。
合鍵を使って、何度もこの部屋に来たけどこんなにも緊張したのは一番最初に合鍵を使った時以来だろう。
ゆっくりとした動作で鍵穴に鍵を押し込んだ。
早くなる鼓動を胸を掴むことで押さえ、私は大きく深呼吸した。
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
言い聞かせて、扉を開けた。
と、同時に視界に脱ぎ散らかされたハイヒールが映る。
ストン、と何故だか落ち着いてしまった。
音をたてないよう注意して扉を閉め、足を進める。
開け放されたドアからこっそりリビングを覗くとビールやワインなどの空缶空瓶などが散乱していた。灰皿も山のようになっている。だけど、人の姿はない。
どうしようかな~と考えたが体が勝手に動き片付けを始めてしまった。
なんでこんなことしてるんだろう?
私が片付ける必要ないじゃん。話し合いに来たのにね…
ソファーの上に無造作に置かれた真夏らしい薄手のワンピースが目に着いたが、もう何も感じなかった。
綺麗になった部屋を見渡し、溜息をついた。
換気の為に開けた窓からは夏の熱気が入り込んで来た。蝉の声がやけにうるさく聞こえる。
だけど、部屋の中からはなんの音もしない。
もう一度、溜息をつく。
この部屋には私以外入れないってどこかで自惚れていたのかも知れない。だけど実際はこうも簡単に私だけの居場所は奪われてしまった。
「何してたんだろ…」
今までの自分の行動を思い起こしてみる。
部屋の掃除、炊事洗濯を忙しい啓さんの為にやってきた。
啓さんの為に?
違う、自分の居場所を守る為だ。
ここにしか、居場所がないと思い込んでいたのだ。
回りを見ず、自分には何もないと簡単に諦めて、そのくせ淋しいと泣いていた。
居場所が欲しかった。
「…バカみたい」
呟きと共に頬を暖かいものが流れた。
ダメだ。
ここで泣いちゃダメなんだ。
頑張ってここを出て、家で思いっきり泣けばいい。
乱暴に流れ出たものを拭い、ポケットに大事にしまった合鍵をそっとテーブルの上に置いた。
話し合いに来たけど、話す気力もなくなってしまった。
どん底まで落ち込んでいるみたいで、さっき落ち着いたのではなく、沸き上がる気持ちさえも拒否してしまっていたらしい。
今は思いっきり泣きたかった。
声をあげて、子供のように泣き叫びたかった。
誰にも見られず、ひとりっきりになりたかった。
帰ろう、と玄関に向かうと背後でガチッとドアの開く音がする。
啓さん?かと振り返れば、そこには見たこともない女性がいた。
多分、この女性が紅い唇の持ち主だろう。啓さんのパジャマの上だけを羽織り、脚線美を惜し気もなくさらしている。
彼女の出てきた部屋が、啓さんの寝室と気付いて何故だか無性に叫びたくなった。何をしていたかなんて一目瞭然だ。
決定的な裏切り――。
突き付けられたそれに胸が痛くなった。ギュッと締め付けられる痛みを表情には出さず、私は静かに玄関へ。
「ちょ、ちょっと待って!」
引き止めようとする声を無視して靴を履き外に出る。
何か叫ぶような声が聞こえたが、私は深呼吸をして歩き出した。
あれから――
心配したわかに家に帰る途中で捕まった。
無表情で何も話さない私を自分の家に連れて行き、何も言わず傍にいてくれる。
泣きたかったはずなのに、涙はどこかに隠れてしまったみたい。
普段通りに接してくれるわかがありがたかった。お互いに一言もしゃべらなかったが、それでも穏やかな時間を過ごしていた。
「…瑞季、スマホ鳴ってる」
ぼうっとしていたらしい。
わかが私にスマホを握らせた。
誰からか確認してみると、意外にも藤子さんからだった。私に連絡してくるなんてほとんどなかった。
啓さんから私達が別れたことでも聞いて、フォローの電話でもかけたのだろう。
出るかどうか迷ったが、一向に止まる気配を見せないそれに諦めて、通話ボタンを押した。
「…もしもし?」
『やっと出てくれた~!よかった!ねぇ、瑞季ちゃん、啓どこ行ったか知らない?!』
「……えっ?」
『啓、仕事の時間なのにスタジオ来てないのよ!行きそうな場所知らない?』
あの啓さんが、仕事場に行ってない?
仕事は人一番大事で大切にしていたはずだ。遅刻するようなこともなく、自分の仕事にプライドを持っていた。
『どうしよう、誰か心当たりある場所とか知らないかな?』
弱りきった、今にも泣き出しそうな声。
どこに行ったか見当もつかないらしい。
私もそんなに心当たりがあるわけではないが、念のためいくつか確認してみた。
『家にはいないのは確か。行きつけの茶店やバーにも寄ってみたけどダメ。瑞季ちゃんは今お家?』
「いえ、今は友人の家で……藤子さん、私も探してみます!」
返事も聞かずに切ってしまう。
電話の内容を聞いて、心配そうな顔でわかが私を見ていた。
浮気した彼氏を探しにいくなんて普通に考えれば可笑しな話だ。
でも、もし――
私を探していたら?
私と話をするために仕事に行っていないとしたら?
これは願望だ。
それでもわずかな希望があるのなら、と胸が騒めく。
低い確率かもしれないけど、もう一度啓さんを信じてみようと思ってしまった。
「私、啓さん探してくる」
わかにそう告げると、私の気持ちを分かってくれたのだろう、分かったと頷いた。
慌ただしく部屋を出ると後ろから人出が必要なら連絡して!と声をかけられる。
そんな優しさにありがとうと叫ぶように返し、私は飛び出していった。
どこにいるのだろうか?
駅前の人込みを掻き分けて、私は走る。
居場所なんて分からないけど、探すんだという使命感に走る速度をあげた。
最初に辿り着いたのは私の家。
誰もいない。
薄暗い室内に、溜息が響いた。窓から外を見やると午前中の天気が嘘のようにどんよりとした空が広がっている。
まるで、今の私の心境を現しているかのような空だ。
不安と言う雲=啓さんに群がる人 に覆われて、太陽=啓さん が見えない。
自分からその雲をどうすることも出来ず、ただ立ち尽くし、雨を降らせるのだ。
そうだ。
いつも、見ていただけ。
泣き付いて、不安をぶつけていればこんなことにもならなかったかもしれない。
クールぶって、平気なフリして、本当はすがりつきたかった。
私だけを見て。
私だけに笑いかけて。
私にだけ話し掛けて。
幼稚な独占欲が、次から次に溢れてくる。
同時に隠れていた涙も戻ってきた。
大好きな、彼の人の名前を口にすれば、胸がギュッと締め付けられた。
会いたい。
逢いたい。
今すぐ会って――私の本音を、啓さんの本音を知りたい。
ふと、もしかしたら…と思いついた。
私と啓さんが初めて会った場所。
あの日も、今日みたいな薄暗い曇り空だった。
公園の奥まった場所にあるベンチで声もあけず泣く不細工顔の私を見ても。
驚きもせずに、立ち去ることもせず、一人分空けてずっと傍にいてくれた。
その後降り出した雨に二人で濡れて、顔を見合わせて小さく笑ってくれた。
送っていく、なんて言葉があの日初めて交わした言葉で。
ナンパならお断りです、なんて可愛くない言葉を返し。
結局ずぶ濡れ状態なのに、車で送ってもらって。
家の前でちょっと待ってて!と慌ててバスタオルを取ってきた私から強引にスマホの番号を聞き出した後。
またね、なんて優しい言葉をかけてもらえて。
私は何も言わずに立ち去る車を見送った。
その日は母を荼毘に付した日だった。
寂しくて、悲しくて。
母との思い出がたくさん詰まった家にいたくなくて、家を飛び出した私に、温かさを思い出させてくれた人。
その日の夜には二人の間にトークアプリまで開通させて、その時に初めてお互いの名前を知った。
テレビに出るような有名人と気付かなくて、後でびっくりしたのだ。
普通に話をしただけなのに、啓さんはとても喜んで。
普通に接したことが嬉しいと笑っていた。
「行かなくちゃ…」
多分、あの場所にいる。
何故か確証のようなものを感じ、私はまたも部屋を飛び出した。
あの日出会った公園。
私の家の近くにある、高台の公園は、昼間もあまり人がいないのでとても静かだ。
公園の奥に、ちょっとした広場があって、小さなベンチがいくつか並んでいる。
「…いた」
ベンチに座り、空を眺めている彼。
何を考えているのだろう。私に気付くことなく上を見ている。
荒い息を整え、ゆっくりと近づいていった。
一歩、一歩。
「啓さん」
「…瑞季」
やっと、視線が合う。
苦しそうに歪められた顔。
そっと手を伸ばし、頬に触れる。
次の瞬間。
力強く抱き締められた。
腕の中に閉じ込めようとするように、苦しいくらいギュッと抱き締めてくれる。
「…あ、きらさ…」
「ごめん…不安にさせて、ごめんな」
分かっててくれた。
泣き顔の酷い状態を悪化させるように、また涙が零れてきた。
「言い訳に聞こえるかも知れないけど、あいつとはそんな関係じゃないから。オレには瑞季だけだから、信じて」
「…啓さん」
「傍にいて欲しいのも、触れたいのも瑞季だけだから…瑞季も言いたいこと言って?オレにだけ、我が儘言ってみなよ」
「……」
「オレには言えない?」
優しい声が降ってくる。
お互いに顔が見えないからどんな表情をしているのか分からない。
言ってしまえ!
心が騒つく。クールに振る舞う必要はないじゃないか。ありのままの自分でいればいいじゃないか。
「…言ってもいいの?啓さん、私のこと嫌いになっちゃうよ?」
怖がりな私。
泣き虫な私。
すぐに落ち込む私。
それでもいい?
「私だけ見て」
「他の人としゃべらないで。」
「触れないでよ!」
「私じゃ、ダメなの?」
「こんな私は、イヤ?」
「私は、啓さんが、好きだよ…」
「傍にいてよ、一人にしないでよ…」
言ってしまった。
後には引けない。
「――やっと、本音が聞けた」
嬉しそうな声が聞こえた。
「我慢しないで、ぜ~んぶ吐き出しちゃえ。オレには我慢しなくていいよ」
涙が止まらない。
啓さんの言葉が胸に染み込んで、今までの私を消しさる。
ポツリ。
ポツポツ。
雨が降ってきた。
「あの日みたいだな」
出会った日のことだ。
「あの時も泣いてた。瑞季は泣き虫だな~ホントの瑞季、もっと見せて?」
ずぶ濡れの状態なのに、とても嬉しそう。
そっと、啓さんの背中に腕を回した。冷たい感触が余計に涙を誘った。
「あの日から、やり直そう?この雨に、今までのオレも瑞季も洗い流して、これから偽らない二人でいよ?
愛してるよ、瑞季」
「…私も、愛してる」
やっと、言えた。
それ以上の言葉は出てこなかったから、抱きつく腕に力を込めた。
それに気付いた啓さんが、そっと柔らかいキスをくれた――。
雨は降り続く。
二人を包み込むように優しく、雨は降り続く。
全てを洗い流して、新たなる日々をおくれるように。慈しむように、雨は人々の元に降り注ぐ。
雨が上がれば、新しい日々が待っている――。
雨に打たれた次の日――。
当然なことながら、私は熱を出した。
原因は雨、だけじゃないんだけど…恥ずかしいから誰にも言えない。
啓さんは、藤子さんにこってり絞られた。
ま、仕方ないよね…
無断で仕事ドタキャンだもん。責任は私にもあるけど藤子さんが怖いから、内緒だ。
それから
あの女性を紹介された。
私は熱が引かなくて、ベッドの住人だったのに、早い方がいいと押し掛けて来たらしい。
彼女の名前は『二階堂瑛』。啓さんの高校の同級生で
れっきとした男の人
だった。
同じアキラと言う名前が元で仲良くなり、『今じゃ親友よ』との説明に『悪友だろ』、と返す啓さんはちょっぴり照れ臭そうで、そんなことにも嫉妬しそうで困ってしまう。
私のことは知っていたらしく、噂の子猫ちゃんだ~と大騒ぎ。
あまりの騒ぎように、啓さんがキレて部屋から追い出していた…
あんなに悩んだのが馬鹿馬鹿しく思えるくらいの、彼女(?)の態度にものすごく安心した、そんな一日だった。