かいの話
それなりに普通の人生、今までに起こったこと身の上の話は全部初対面の人でもあるあるで片付けられる話だと思っている。生き始めてから17年の、私という人間の触感がそれだ。
実際、何か大きなことがあったのかと問われれば明確に答えられない…大きな転換点も事件もない、ただ緩やかにこの時期辺りから変わったな、とかそういう類ばかり。良い変化も悪い変化も、だ。
じゃあ今までの17年間何やってたんだ、となるのだ。前半7年は多分何も考えて無かっただろうけれど。せめて後半7年は何してんだってなる。本を読んで物語を書いて絵を描いてネットの海にダイブして歌うことにはまって。よく言えば多趣味、悪く言えば「二兎追う者は一兎も得ず寸前状態」。何にせよ多「趣味」のつもりは無い。何羽もの兎に全力でしがみつこうとしている。ガチなのだ。
去年の冬くらいから、唐突に「そうだ、歌い手やろう」と思った。きっかけは、スマホ解禁になってから音ゲーにハマり、自分もかっこいい曲つくりたいDTMやりたいと少しずつ手を出し始めた矢先、ボーカルどうしよう…と思ったこと。最低限歌えた方が良いし、仮に自分が歌うことにならなくても歌が上手になるならなんぼ、その時私は音痴の部類だったし音感等含めて音楽センスが皆無だった。とりあえずカラオケで歌ったものをTwitterに投げてくうちに自分の歌の良いところも悪いところも、そしてその改善方法にも見当がつくようになってきた。声が好きって言ってくれる人が現れた。かいはかいだよって言ってくれる人が現れた。
絵は小さい頃からのルーティンだった。絵本ばかり強請っていたし母親昔描いたクレヨンのぐちゃぐちゃの絵も残してくれている。特に向上心があったわけではないから、中学上がるまでは本当に「好きだから」描いていた。誰にも思い浮かばない世界を描いていた、伝わることも叶わないような世界だ。それを補足するかのように言葉を添え出した。やがて小説になって、漫画になって、アニメーションになって。それを度々、素敵だと言ってくれる人が居る。いつも一言言ってくれる人が居る。
言葉は、私の全てだ。言葉の響きが、日本語の造形が、その二つが合わさるだけで背筋が凍る思いをする。恐怖の意味合いではなくて。背筋にそっと霜が降りて、少しずつ音を立てながら身体に染みついていく。その連続が詩だ。それへの自己投影が小説だ。小さい頃から勘だけれどそれを知っていたし区別していた。本当に私の、どうしようもない感情の矛先に言葉がある。誰かが言ってくれた、かいさんの感性に惹かれるって。
そんな日々がここ最近というか一年半くらい続いて思った、「かい」って誰だ?って。
ずっとハンドルネームとして使ってきた。「自分らしくあるための名前」として自ら名乗ってきた。
そしてそれは理解できるしかいとしてのプライドもアイデンティティもある。
なのにふと、その存在がまるで自分じゃないみたいに思えるのだ。
単純にリアルの私がついていけなくなったのだ。自分の頭の中で広がる世界に追いつこうとしても、現実の様々なことが足かせになる。現実を蔑ろにするわけにはいかない…学校で不便がある訳にはいかないから。だけれどそういう日常のハードルが上がるたびに、やらなければいけないこととやりたいこと、1日に出来たことと出来なかったことの差がストレスになっていく。どんどん出来たことの精度も下がっていく。最悪だ。勉強もそこまでできる方ではない、でも絵は描きたい。思い切って一日だけ描きまくるか、でもやるべきことが気になって集中できない…
当たり前というか誰しもあることだけれど最近はそれが本当にひどい。頭の中でかいがやりたいことを考えながら手は数学を解いている。
なんか私かいじゃないよな笑、みたいな。
現実と理想の差、っていうと青春小説でもよくある題材だし多くの人が悩む。私自身の今までの悩みも大抵、理想と現実の差が思ったより開いてることに起因している。理想とプライドだけ高くてそこまで上手くない絵をひけらかすのも、まだ不安定な声に自信過剰になった歌も、言葉も。創作だけじゃない、「僕」と名乗るには不十分な身体も大事な人も、理解を得たかった親も親友も、みんな思ったようにいかない。
思ったように伝わない。詩の様に流暢に、私の思ってることを言えたら、叫べたらいいのに。それすらも最近は叶って無いけれど。自由でありたいと思う。ただ気持ち的に路頭に迷うような毎日だ。何が辛いのかすらもいざ言おうとすると上手く言えない。
かいのことを先輩だって言ってくれる人がいる。かいのことを、相談し会える唯一無二の友達だって言う人もいる。けれど実際はそんな大人でも無ければ冷静でも理路整然としているわけでもない、ただの愚痴ばかりの餓鬼なのです。
現実と理想の差がなんだってんだ、もっと悩んでる人がいる苦しんでいる人がいる。もっともな意見だ。実際私の視界にさえ,私以上に解答を必要とする人が居る。私の悩みなど「そっかそっか、折り合いつけられる様に頑張ろうね」で終わる。本当に。そしてそのためだけに今深夜0:42にiPadと向き合う必要もない。というかごめんなさい何の為にエッセー書こうとしたのか最早忘れている。取り敢えず最初想定した内容とそれてしまったことは確かだ。
少し話を戻そう。
私を1番最初に苦しめた「差」は自分の心と身体の差であり、それを受け入れるかはともかく理解できる人とできない人の差だった。私は必要があれば、不定性Xジェンダーという、トランスジェンダーと似たようなものだという説明で自分の心と身体の関係を説明している。身体が女なのは分かるけれど、心が自分が女だって受け付けない、自覚がない、と拒絶したくなる。男性寄りの中性、無性状態を行ったり来たりしている。それを言っても変わらず接してくれる人や言動を気にかけてくれる人が、最近は身の回りに増えた(思い切って伝えてみたこともあったが)。
けれど中学の時はそんなこと無かった。一度だけ、この場–小説家になろうで知り合った方に支えられた。その恩は一生忘れないつもりでいる…それはともかく。他だと母親と、よく相談を受けていた同級生に伝えたことがあったけれど、猛否定の嵐だった。気のせい、貴方は小さい頃から可愛いものが好きだった、もし本当ならこんなもの使わない、トランスジェンダーっぽくない、生理が来てないから不安なだけだ(初潮後は生理は女性みんなに来るから文句言うな、にすり替わった)(たしかに生理は嫌いだし体調メンタル面への影響が大きいけれど)etc。以降、現実において他の人には今年になるまで言わなかった。自分らしく居るのは優しいネットだけで十分だと思ってた。
でも違う。かいと私は別々じゃない、同じ人だ。かいって名前使ってわたしの悩みとかを創作に載せたいんじゃなくて、私がかいになって言いたいのだ。このニュアンスが伝わることを祈る(放任するな)。創作も満足にできない、駆け出し歌い手、絵師としては失格かもしれない。けれど私は、否、僕はかいなのだ。本質とか概念とか関係ない、全部ひっくるめて僕は僕。感性も声もやるべきこともやりたいことも全部、かいが受け入れるべきもの。
どんなに僕より苦しい人がいても、この苦しみは僕だけのもの。心と身体の噛み合わなさ -声が高いのに背が小さいのに「僕」って言って馬鹿にされたことも、急に髪切って動揺された時の小さな後悔も、柔らかい身体が嫌になってカッターを握った夜も、膨らんだ胸に気づいた時の絶望も初潮の時に食べた赤飯がしょっぱかったことも、今寝そべって感じられる、重なった脚の女性らしい肉付きに催す吐き気も全部、僕のもの。それだけは、誰にもわからない。それらだけは僕が合わせて五年間向き合い続けた違和感と今の僕の自尊心の原材料。
それらを今になってようやく受け止め出している。あるあるなんかじゃない、僕だけの17年目の手触りだ。受け止めただけで今、2年前の、塾帰り泣きながら川辺を走った少年が、救われた。彼に報いることができた気がする。寂しかった、一人だった、無力で頼れる人も居なくて惨めで…あまり変わらない気がしなくもないけど、少なくとも今は一人じゃない。
そうだと思い込もうとしているだけかもしれない。だとしても、そう言う思いを原動力にして一年半、馬鹿みたいなプライドにまで成長してしまったけれど、いろんな人に会えて、少なくとも何かを与えられた。ずっと創作で、僕にできることで誰かを助けたいと思っていた。今も思っている。いろんな人にとっての、ささやかな生きがいになれる様な、悩みの中で日差しになれる様な、そんな物創りをしたい。私「なんか」って自分を制限しないで、見定めないで、どうか、どんなに無意味な生だと思っていたとしても、自由に生きようとすることだけは忘れないで、顔も知らない誰かに僕は、ひたすらに伝えたいことが沢山ある。自分のことどうにかしないとだけど、でもまだ話したことが無かったとしても会ってすらなくても、どうしても生きて欲しい人たちがいる。そんな人たちに、創作の中で会いたい。
貴方は一人じゃない、って言える人になりたい。万人を救うのは無理だ、だとしても手に届く人目に見える人を放っておく経験はこれ以上はこりごりだ。
15歳の時に感じた、誰も助けられないという無力感を今、消したい。あの時感じた孤独感を、大勢の方に少しずつ打ち消してもらった様に。
…話が暴走しすぎてまとめ方がわからなくなってしまったけれど。
僕がお話を書くのは、何かを創るのは、それでまだ見ぬ誰かに会いたいからだ。創作の先にある出会いが、何かを生み出す可能性を見たいから。そしてそれが、誰かが前に進む勇気になれば、孤立の壁を柔らかくするものになれば…
2年経ってやっと、自分は立ち直れたなとおもう。報われるのはこれからだけれども。もう迷いたくない、孤独は好きだけれど孤立は要らない。
いつか僕が僕を認めるだけでなく誇れる日がきたら、その時はどうか、これを読んでいる貴方に見てもらいたいと願う。




