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水葬と第二ボタン

作者: みちのく丹

『海に行ってきます』


 そうメールを送りかけて、やめた。


 ふとした瞬間に、糸が切れることがある。何のきっかけもなく、張っていたわけでもない糸がただふっと切れる瞬間が。それが多分今日だった。天気予報のアプリには、一日中快晴の文字。絶好の海日和である。思い立ったが吉日とはこのことか。


 乗り込んでくるスーツと制服の群れに逆らって、高校へと向かう電車を降りた。足はまだ学校へと向かう意志が残っているようで、それを何とか引きずり、向かい側のホームに止まっていた電車に乗り込んだ。


「海に行ってきます」


 小さくその場で呟いた、同級生と親への報告。扉が閉まってすぐに、携帯電話の電源を落とした。海へと向かう電車の中は閑散としていて、なんだか天国行きの電車に乗ったみたいだ。すっきりとした顔のサラリーマン。乗り過ごしたのだろう学生。遊びに行く親子。まばらに座る乗客に柔らかい日差しが当たって影をつくっていた。


 気分が次第に軽くなって、イヤホンを付けながら外の景色をなんとなく眺めてみた。流すのは最近好きなインディーズのロックバンド、音は最小で、BGMになるくらいが丁度いい。


 ベースの音が心地よくて、心臓の鼓動みたいに良く響く。ギターの音が少しベースラインをかき消してしまっているが、今日はそのギターの音すらとてもありがたかった。今日の足取りを更に軽くしてくれるのは、ベースよりもギターの音だろう。


 新学期が始まって数日しか経っていない、秋一歩手前のなんともない日。そういえば課題の提出日だっただろうか。そう思って手帳を確認したが、提出日は幸い明日だった。うん、本当に何もない日だ。


 夏期講習で埋まった夏休みは、部活に明け暮れた去年までとは違い長く退屈で、心が揺れ動くこともなかった。教室の窓から入り込む水色と、下級生の声が嫌にちらついて、少し憎々しかった。


 四季とは関係のない練習内容に、いつも夏はいつの間にか終わっていた。夏の終りを歌った曲を私が聴こうと聴くまいと、いつの間にか夏は死んで、秋になっていた。だが今年は、秋の気配が未だに来ない。いつもより遅く感じる秋の登場は、夏を永遠のように感じさせていた。


 だからきっと今年くらいは、夏を自分の手で殺したかったのだと思う。毎年気づいたら死んでいた夏を、今年だけは自分の手で。蝉の声は既に聞こえなくなっていたけれど、夏はまだ虫の息で生きているように思えた。


 車窓を通して見える空は快晴なのに窓ガラスのせいか少し淡く灰色で、それになんだか安心した。やはり天国行きの電車のようだ。


『間もなく、××海岸、××海岸――』


 ぼんやりと聞こえてきたアナウンスに席を立った。少しめくれたスカートを直してホームに降り立つと、波の音がイヤホン越しに聞こえた気がした。改札を出て、潮の匂いの中を少し歩くとすぐに砂浜に辿り着いた。


 海を目の前に息が詰まる。ローファーに砂が入ることも気にしないまま、少しの間砂浜を歩いてみた。さらさらとした砂の上は、この靴では歩きにくい。ふとした瞬間に歩き疲れてしまい、その場に体育座りをした。


「海にやって来ました」


 イヤホンを外しながら誰も居ない海に呟いて、反応してくれる人もいない。携帯電話の電源を切って砂浜にひとり座っている私は、自由で孤独で、崩壊しかけていた。その崩壊を止めることなく、むしろ進めるためにここまで足を運んだのだ。


 目を瞑って、足を抱えていた手を緩めた。波音に同調するように少し体を揺らしながら、自分の輪郭をぼやけさせていく。空気と身体の境界線を曖昧にして、段々と空気に溶かしていくように。


 切れた糸が、他の部分を支えていたり、目立ったりしていない部分だったら良かったのに。いや、目立つ部分であっても切れた方が見栄えが良くなるものならよかった。例えばそう、男子の学ランの第一ボタン。なくなったら目立ちはするが、一番上を開けて着るのはなんとなく様になったりする。しかし、私の中で切れた糸は、切れたら制服が無様な布切れに戻ってしまうような糸だった。


 一度壊れてしまったものは、作り直すしかないのだと思う。パッチワークを施された人形も、ページが破れてしまった本も、あの子との関係も、自分も全部、作り直すしかない。作り直すために、一度解体しなければならない。そうやって皆何もかも再構築していくのだろう。だから、夏も生まれ変わるために、死ななければならないのだ。


 幸い電車の数も人通りも少ないここでは、波音しか聞こえなかった。風も弱弱しく吹くばかりで、その中に響く波音に任せて自分を霧散させていく。身体も心も、この拘束具から脱け出して潮風にまぎれて欲しかった。


 障害物も限界もない空間の中で、砂の粒より小さな粒子が拡散していった。砂浜に紛れて、潮風に流れて、波音に震えて、思い思いに。


「制服、汚れちゃうよ」


 拡散していた身体を元の輪郭に押しとどめる声に、崩壊が止まった。声がした方向へと顔を向けると、逆光で顔は見えないが、自分より少し年上だろう女性が立っていた。


「……大丈夫です」


 無理やり引き戻された身体は中途半端に崩壊したままで、意識はまだぼんやりとしていた。


「学校は?」


「休みです」


「悪い子だな」


 咎める様子もなく笑いながら、そのお姉さんは私の横に腰を下ろした。肩程まで伸びた黒い髪に、ハスキーな声。恐らくほとんどメイクはしていなさそうだったが、美人だった。


「お姉さんの服こそ、汚れちゃいますよ」


「大丈夫大丈夫、デニムだし」


 確かに自分の着ている服よりはデニムの方がマシだ。スキニーで細長い足の先には、この時期にはもう合わないサンダルを履いていた。それに白いTシャツ。大人びた格好に、私の真似をしたのだろう体育座りが少し可愛らしい。


「大学生、ですか」


「そうだよ。そちらは高校生?」


「……御覧の通り」


「何してるの」


「それも、御覧の通りです」


「んー、分かんないな」


 平日の朝から、遠くの高校の制服を着た高校生が砂浜で一人、膝を抱えている。そんな図を改めて考えてみるが、なるほど訳ありにしか見えない。学校に行きたくないまま家を出された少女が、行き場のないまま辿り着いた先が海だった、とも見えるだろう。ともかく「御覧の通り」に受け入れたら、「何もしていない」が正解になることもあり得て、「分からない」が最適解だった。


「……海を見に来たんです」


「なんで?」


「夏を、殺したくて」


 笑われるかと思ったが、彼女は一瞬目を見開いただけで、それからすぐ「分かる」とでもいう風に優しい顔をした。その様子にこちらが苦笑いしそうになる。受け入れられても困る。こんな理由で納得されても困るのだ。


「……もう秋だからねー。……あ、ちょっと待ってて」


 そう言って彼女はどこかへ行ってしまった。また波の音だけが響くようになった砂浜に、意識が持っていかれそうだ。リセットしきれていない身体も心も、未だに綻んでいてどこかへ流れ出ていこうとしていて、それを押しとどめるように思考を巡らせた。先ほど発した言葉を思い出す。


「夏を、殺したくて」

 再度呟いてみると、我ながら滑稽で一人ふっと笑ってしまった。少なくとも初対面の誰かに言う言葉としては、痛々しいことこの上なかった。訳ありだと思われただろうか。待っているよう言いながら、話しかけたことを後悔して逃げてしまったのかもしれない。そちらの方が気は楽だ。知人のいない空間に、一人になりたくて来たようなもので、誰かを求めていたわけではないのだ。


 夏を殺したいとは言っても、この夏にあったことと言えば高校の講習くらいで、むしろ私の今年の夏は生きてさえいなかったのではないかと思えてくる。では何を殺したかったのだろう。そう考えてみると、むしろ私の中で終わっていない夏は、去年の夏かもしれなかった。その夏を、一年越しに殺しに来たのかもしれない。


「馬鹿だなあ」


 部活に明け暮れた去年の夏、伝えることもないまま、失恋した。ただそれだけであればここまで引きずることもなかったのかもしれないが、想い人にできた恋人が、私の親友だったのだ。失恋の鈍い痛みを共有する人もいないまま、ひっそりと布を重ねて隠しただけの傷は、癒えることもなく今年の夏まで残っていた。


 幸い、親友も想い人もクラスが離れていた。部活に更に熱を入れ、部活中は声を張り、朝早く登校して練習に励んだ毎日。家に帰ってからもランニングに出ては、夜遅くに家に戻って親に叱られていた。


 二人に何も伝えることがないまま、段々と希薄になっていった関係を、顧みることもしなかった。だが、部活の引退と同時にその問題は受験勉強と、布のはがれた傷を伴って眼前に現れることになった。小学生の頃の、夏休みの宿題を無視してやっていたテレビゲームを消した後のような虚無感と焦燥感。思えば夏休みの宿題は昔から貯めこむ方だった。


 一年越しの宿題を、翌年の夏休みが終わってから解いている気分だった。その時解いていれば楽だったかもしれない問題は、一年を経ることによってまるで未知の問題かのような顔をしていた。


 常に心に引っかかっていて、取り除かずにいた憂鬱は、いつの間にか自分の中核に沈んでしまっていた。そんな中でも無理やり着た制服に身体を任せる毎日を送っていた。重たい身体と澱んだ心に、精神と行動はちぐはぐなまま、つきまとっていた言いようのない空虚さと苛立ちも無視して。心が悲鳴をあげ、身体の支配権を取り戻して初めて気付いた。


 疲れたのだろう。逃げて、逃げ続けて、何事もなかったかのように思い込もうとすることに、疲れてしまったのだ。


 どうせ、想い人の心はもう手に入らない。


「お待たせ」


 十五分くらい経って律儀に戻ってきたお姉さんは、片手に持っていたラムネをこちらに渡すと、再度同じ場所に座り直した。戻ってきたことに驚きと、少しの安堵を覚えた。


「買ってきたんですか」


「車に積んでたやつ」


 ラムネを車に積む大学生がいるのだろうか。まだ高校生の自分には分からなかったが、慣れない思考に喉は渇いているようで、ありがたく頂こうと瓶のふたを開けた。一口含んだラムネは炭酸が強くて、あまり勢い良くは飲めなかった。甘くて、少し安っぽい夏の味。


「どう?」


「美味しいです。ありがとうございます」


「それはよかった。どういたしまして」


 お姉さんはポケットからハンカチを取り出して、瓶についていた水滴を拭った。シンプルな服装には少し合わない可愛いハンカチに、昔から使っているもののような気がした。


「飲み干したらさ、夏を殺したことにしようよ」


 何もかも分かっているような口ぶりで、彼女もふたに手をかけた。


「……そうですね」


 自分の言葉を正面から受け止められた気恥ずかしさと、その口ぶりに少しの苛立ちを覚えたが、ラムネを飲み干したら夏が終わり、というのは区切りがいいような気がした。私のあの夏は、この甘い炭酸水を飲み干したら終わるのだ。うん、そういうことにしよう。


 そう思った途端、炭酸の強いラムネが更に飲みにくくなってしまった。


「私もたまーにね、本当にたまに、海に来たくなっちゃって」


「今日も本当は大学、あったんですか」


「ううん、大学の講義はまだ始まってないよ。ただ、バイトはさぼっちゃった。何か行く気にならなくて」


 アルバイトはさぼってもいいものなのだろうか。それもまだ、働いたことのない自分には分からなかった。たった数年の差なのに、分からないことだらけだ。数年経てば色々なことが分かって、この悩みに対する正解を出せるようになるのかもしれない。


「この時期は何となく、センチメンタルになっちゃうよねー」


 軽い口調で話す彼女に、身構える気持ちが段々と薄れていた。彼女の方はずっと笑顔で、身構える様子もなく自然体のように思えた。お姉さんは今、どんな気持ちで私と話しているのだろう。


「……お姉さんは、彼氏はいますか」


 興味を持った理由は、正直良く分からない。彼女の風貌には鬱屈とした雰囲気は感じられなかった。普段身近にいる同級生が持つ、慢性的な憂鬱すら見えなかったことが、もしかしたら一番の理由かもしれない。


「いきなり恋バナかー。残念ながら今はいません」


「じゃあ、今までで忘れられなかった恋は」


「ない、って言ったら嘘になるけど、もう何年も前のことだから」


「ないことに、できますか」


 初対面で踏み込んだ質問をしている自覚はあった。嫌悪感を示されても仕方のない状況で、それでも彼女は姿勢を崩さず、真剣に話を聞いてくれていた。


「できたらいいね」


 さりげなく吐いたその返答は、一般論だろうか。それとも私の状況に対してか、はたまた彼女の状況に対してだろうか。分からなかったが、もうその話題を打ち止めにしようと瓶に口をつけた。すると今度は向こうから話を続けてきた。


「私は頭がよくないからなー。あんまり真剣に考えてもちゃんとした答えは出せないし。覚えてる恋はいっぱいあるけど、でもそれは忘れられないわけじゃないし、忘れたいわけでもないからなー。難しい」


「そういうものですか」


「私はね。自分の事なんてあんまりよく分からないのが普通だと思うし、そういうの考えないで生きていけるならそれが一番良いような気がする」


「無視、できなかったら?……質問ばっかりで、すいません」


「分からないよ。私も無視しきれてるか怪しいもん。ただ考え続けちゃう人は真面目なんだなーとは思うけど」


 徐に、ごめんね、と言いながら、彼女は煙草をポケットから取り出し火を点けた。


「真面目な話向いてなくて、すぐ煙草吸いたくなっちゃう」


「すいません」


「全然。こちらこそごめんね、高校生の前で」


 副流煙は風向きによって自分の方へは流れてこなかった。煙草を吸うようには見えなかったが、吸う姿は様になっていて、彼女の過去を想う。


 いつから吸い始めたのだろう。きっかけは何だったのだろうか。元恋人が吸っていたのか、友だちに勧められたのか。普段触れないものに対する好奇心が溢れそうになるのを、抑えつけた。


「時間も世界も限りはあるけど、思ってるよりも長くて広いらしいからなー。だから大丈夫じゃない?今答えが出ないなら今考えるべきじゃないし、時間が経ってもうすこーしだけでも世界が広くなってから、また考えてみればいいと思うけど」


「それはまあ、そうでしょうけど……」


「まぁ皆言うからね、「世界は広い!」って。でもそれをなんとなく思ってるだけっていうのは、分かってないのと一緒なんだよ、きっと。頭でぼんやりと「広い世界!」って思ってたって、いざ目の前にあるのは狭い世界だから。アルバイト先だったり、講義室だったり、友だちの家だったりさ。あなたの場合は、教室とか、音楽室とか、体育館とかかもしれないけど」


「……そうですね」


「まあ、そんなに偉そうなことも言えないし、私自身も狭い世界にいるからなー。世界が広がったと思ったら、今度は元の世界がなくなってたりして」


「なくなるんですか」


「中学の友だちと、高校に入ったら疎遠になったりするみたいな感じかな。中が空洞になりながら広がっていく、ドーナツみたいな?違うかな」


「なるほど」


「分からないけどね。あんまり考えたことないし」


 それから暫く沈黙が続いた。波の音と、中身の減ったラムネのビー玉が動く音が重なった空間に、目を瞑った。お姉さんも気を遣ってくれているのか、話しかけることはしないでいてくれた。


 今日初めて会った名前も知らない女性と、砂浜に二人。それが不思議と心地よくて、自分の崩壊が止まっていく感覚を覚えた。


 いや、拡散した自分に彼女が混ざってきた感覚の方が近いかもしれない。彼女も拡散していて、その一部を貰っているような、そんな感覚。


「はい、夏死んだ」


 気づくとお姉さんはラムネを飲み干していて、何かを思いついたように瓶の中からビー玉を取り出そうとしていた。自分はといえばまだ半分近くラムネを残していて、慌てて飲み干そうとしたところを「慌てなくていいから」と止められた。


「飲み干したら、ビー玉埋めようよ」


「何のためにですか」


「夏のお墓、みたいな」


 夏のお墓。何とも言えない響きだった。自ら殺した夏に、お墓を用意する。どこかおかしいけれど、悪くない。


「供養すれば大丈夫だよ、きっと」


 何が大丈夫なのかは、聞かないでおいた。そんなことを聞くのは野暮だろう。彼女は理解しているのだ。私が何を殺したくて、何に悩んでいるのかを。そのうえで、詳細を聞かずにいてくれていた。


 既にお姉さんは二本目の煙草に火を点けて、ビー玉を砂浜に置き上から砂をかけていた。           


 私も、残り少なくなって気の抜けたラムネを一気に飲み干して、ビー玉を急いで砂の上に落とした。そのまま周りの砂をその上にかけていき、簡単にビー玉が表に出ないように厳重に埋めてやった。これは「あの夏のお墓」だ。戒名もつけてやりたい気持ちになってきた。遺骨を埋め終わったお姉さんは、先ほどの煙草の吸殻を空の瓶に入れていた。


 なるほど、こうやって置いていけるのだ。殺して、お墓を作って、そうやって夏も恋心も、過去の自分ごと置いていける。忘れる必要もなく、墓参りに来て供養してやれば良い。


「四十九日で一回来ないと行けなくなっちゃうかな」


「手厚い供養ですね」


「祟られるかもしれないからね」


 そんな冗談を言いながらも横で煙草を吸う顔は、やはりとても綺麗だった。すっきりとした顔立ちに、煙草を咥える口許がなんだかいやらしくて、それを羨ましく思う。自分が煙草を吸ってみても、駄菓子にしか見えないだろう。


「お姉さん、面白いですね」


「まあね」


 忘れずにいることは、辛くないだろうか。お墓を作って、墓参りに来るたびに思い出すことは、傷を抉ることにならないだろうか。


 人の死とは根本的に違うのだろうが、法事の度に故人を思い出して胸が締め付けられるあの感覚が襲わないとも限らないだろう。それでも、この方法でしか、今はあの夏を処理できないように思えた。


 四十九日、一周忌、三回忌と、その都度来ることすら忘れるまで何度も墓参りに訪れよう。私のあの夏は、もう死んだ。このラムネを飲み干すことによって、私が殺したのだ。


「あとは、この瓶に紙を入れて海に流してみようか」


「え、でもこれ口開いてますけど」


「まあ細かいことは気にしない。ルーズリーフとペンある?」


 このまま海に流しても中の紙は濡れてしまうだろう。何より彼女は吸殻ごと流すつもりだろうかとも思ったが、言われるがままリュックからルーズリーフとペンを取り出し、彼女に差し出した。二本目の煙草はまだ口許で赤く燃えている。


「これ水性じゃん」


「あ、すいません」


「まあいいか。消えるくらいが丁度いいよね」


「え?」


「海の中で消えるか分からないけど、紙に書いて忘れるくらいの言葉なら、消えるくらいが丁度良くない?」


 お姉さんの言葉は、年齢のせいか声のせいか、説得力に満ちていた。あるいは話し方のせいかもしれない。ともかくそうかもしれないと思わされる説得力が彼女の言葉にはあった。


 水性のペンを探してペンケースを漁ってみたが、結局私は油性のマジックを取り出した。


「え、油性じゃん」


「私は残っていた方がいい気がしたので」


「ふうん、まあそれも分からなくはないな」


 何を書こうか。物語で見たボトルメールは他人に向けて書かれているのが普通だった。しかし、見知らぬ他人に向けて書きたいことなど、今の自分には思いつかなかった。


「お姉さんは、何書くんですか」


「秘密」


 見知らぬ人間なら、未来の自分でもよいだろうか。この手紙が自分の許に届くとは到底思えないが、それでも。


 未来の私へ。


 この手紙を拾ったとすれば、あなたはまた海に来ているのでしょう。お墓参りに来たのでしょうか。それともまた別の、新天地の海で拾ったのでしょうか。


 まだあのロックバンドを聴いていますか。もう解散してしまいましたか。解散しているとすれば、音楽性の違いでしょうか。


 彼氏はいますか。いたらいいな。忘れられない恋はできましたか。それは何年も前のものかもしれないです。もしかしたら、これを書いていた時にしていた恋かもしれません。


 ラムネは車に積んでありますか。アルバイトはさぼっても良いものでしたか。煙草は吸い始めましたか。質問ばかりですいません。


 質問ばかりの手紙は、インクと水滴が滲んでしまっていた。この手紙に、未来の自分は答えを出せているだろうか。出せていなくても、悩むたびにお墓を作ってくれればいいと思う。供養して、そうやって一つ一つ整理していくことができれば良い。


 書き終えた手紙を折りたたんで、ラムネの空き瓶に入れた。少し不格好なボトルメールだが、羊皮紙ではなくルーズリーフの手紙だ。これくらいが丁度いいだろう。


 自分の意志で掘り返すことのないタイムカプセルを、これから海に流す。無機質に肌に触れる瓶が、少し愛おしく思えてきた。口の開いた瓶。折りたたんだルーズリーフ。滲んだインク。まだ分からない、未来のこと。


「書いた?」


「はい、一応」


「じゃあ流そうか」


 流そうと思ったが、瓶を改めて見ると、何か物足りない気がしてきた。内容の問題か、瓶の形状か、それとも紙が良くないのか、分からなかったが何か他にも入れるべきかもしれないと、訳もなく感じたのだ。

少し悩みながらリュックを探る。この瓶に入るものは恐らく文房具か、プリントしかない。

まずは筆箱。一つずつ取り出してはリュックの上に置いていった。あれも違う、これも違う。そう思いながら探してみても、ピンとくるものはない。


 今度はクリアファイルを取り出してみた。パラパラとプリントをめくっていくと、明日提出の夏休みの課題に目が留まった。前日に終わらせようと解きかけのままにしていた課題。これだと思った。これを入れよう。


「はやくはやく」


 お姉さんに急かされ、誰かに見られてはいないかとドキドキしながら瓶を流しに立ち上がった。そっと水面に置くと、波はすぐに手紙と課題を持ち去っていってしまった。


「ふう。お疲れ様」


「ありがとうございます」


 今悩んでいる数式を、「忘れた」と言ってしまう日が多分来る。答えを出して、解き直してなんて、そんなことを求めているわけではない。


 ただ、「分からない」と言いながらも笑える日が来れば、三角くらいは自分につけてあげたい。


「こちらこそ。じゃあ帰ろうか。送っていくよ」


「いえ、」


「遠慮しなくていいよ。駐車場はあっち」


 こちらの返答を無視して歩き出す彼女を追いかけながら、スカートとリュックの底を払った。駐車場まで十分ほど歩いて、車に乗る前に靴の中の砂を落とした。


 乗り込んだ車内には無駄なものはほとんどなく、ドリンクホルダーに水のペットボトルが一本だけ置かれていた。ドアを閉めて、エンジンがかけられた車内には、ラジオの音が鳴りだした。


「音楽は聴かないんですか」


「CDとか?最近はラジオばっかりだなー。好きなの流していいよ。コードなら繋がってるはず」


「……おすすめのバンドがあるんですけど」


「どれどれ。……おお、良い感じ」


 一人で作り直すなら、広大な海と砂浜がいい。でも誰かと混ざり合うなら、水のペットボトル一本を挟んだ狭い車内くらいが丁度いいのかもしれない。鳴り響く音楽は、会話のBGMくらいにして。


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