(2)
賀来久詠が花見大悟の詰める本棟保険室に早足で乗り込んで来たのは、ちょうど彼女の体育の授業が終わった直後のことだっただろう。
入るなりに椅子を転がしていた大悟を女子高生らしからぬ腕力で吊りし上げ、ベッドへと押し倒す。
「なんだよ」と暴力の理由を問うよりも素早くシャツを搾り上げて、睨み据えて、
「あんた、維ノ里士羽に井田典子とか南部真月の件、漏らしたでしょ」
と、言葉を取り繕う余裕もなく質してくる。
「……話してはいない」
目を逸らし、着衣の乱れを直しながら大悟は言った。
「そうじゃないなら、あんたの迂闊さから漏れたのよ。でなきゃ、露見するもんですか」
だが、そうしている間にも怒れる女の膝が、睾丸を潰す間合いにまでにじり寄って来る。
客観的に見れば薄く汗を発散される体操服の女子高生に詰め寄られるという、なんとも煽情的な構図ではあろうが、当事者としてはたまったものではなかった。
(結構穴だらけだった気もするんだがな)
と言い返せば、その時点で男としての命脈が断たれそうだったのでそれについては黙ることにした。
代わり、遁辞をかます。
「僕と維ノ里士羽は、例の騒動から最近まで接触自体がない。そのことは教員にウラを取ってみればわかるはずだ」
久詠の膝が引いた。怒りが引いた。ベッドから後退していく。
そう、といつもの典雅で高飛車な調子を取り戻した彼女は、くるぶしを切り返すようにして出入り口へと向かった。
「――貴方、どっちの味方?」
最後にそう尋ねた『同僚』に、白衣の襟元を正しつつ答えた。
「誰の味方でもない。政府の指示に従い、その時々で一定の勢力に肩入れし、学園内の勢力のバランスを保つ。それが僕の仕事であり……そこに、僕の意志など関係ない」
なんて面白みに欠ける答え。
そう言いたげに、賀来久詠は筋の通った鼻を逸らした。
~~~
そして、彼女が去っていった。
取り残されたのは起き上がった花見大悟と、
「『最近まで』は、な」
そして、カーテンで仕切られた向こう側にいる少女ひとりであった。
自らその帳を払った彼女、維ノ里士羽は着の身着のまま攻め込んで来た久詠とは対照的に、きっちり制服に着替え終わっていた。
『最近』という曖昧な時間的表現の中に今この瞬間を組み込むか否か。
そこを都合よく解釈し、己の言い訳とできるのもまた、大人になった者と特権と言えるだろう。
「保健室の住人同士、私と貴方が接触しないほうがむしろ不自然。少し考えればその嘘に気づけようものだと思いますがね」
「嘘じゃないな」
ケトルで沸かした湯をパック式のインスタントコーヒーに注ぎつつ、大悟は言った。
「実際、僕が意図的にお前との接触を避けていたのは事実だ。何しろ、お互いに中立的立場だからな。相互不干渉、というのは基本的かつ理想的なスタンスだろう」
そう言いつつも、大悟は安っぽいマグカップに入れたコーヒーを士羽に手渡した。
鼻白みつつも、士羽はそれを受け取った。
「今は違う、と?」
「違わないさ。過度に接触を断つというのもまた不健全な在り方だろう」
それに、と言い添えて、自分の分を煎れ始めようとした。
だが湯量が足らず、ケトルに水道水をつぎ足していく。
「お前の観察も仕事のうちだ。政府も多治比も、お前に未だ興味を失っていないからな」
水音にまぎれて告げた語句に、少女は渋く眉根を寄せる。それでいて、皮肉げに口端を吊った。
「……オモチャを取り上げて大人になれと諭した連中が、ですか。今度は向こうが参考書か勉強机でも買い与えてくれるとでも?」
本人としてはクールに余裕を示したいところなのだろうが、未だ彼女の中でくすぶる幼稚さと心的外傷が、それを許さないのだろうというのは精神医学に通じずとも汲み取れることだった。
だが彼女はその興味の由来を、よくわきまえているはずだった。
「むしろ教えてもらいたいんだよ……何故お前は、レギオンとならずに済んだのか」
輪王寺九音、多治比衣更ほか、二年前の『翔夜祭』にて巻き込まれた者、特に中心近くにいてまともに 『被爆』した者は総じてレギオン化した。それでない者も心身の均衡をバランスを崩し、後天的に怪物となった者や、征地絵草や白景涼のようにその寸前でホールダーによって因子を摘出された者がほとんどだ。
にも関わらず、そのシステムの開発者にして至近で上帝剣の余波を受けたはずの士羽だけが、怪物化の兆候さえなかった。
何故なのか、と思いつつも後回しにされていた疑問が、件の『征服者』の話もあってにわかに重要性が増してきた。
――つまり彼女こそが、『剣』に選ばれ、世界を滅ぼすその適格者なのではないか、と。
幸いにして今現在は明確に自我を保ち、かつ『鍵』自体は抽出できている以上、その可能性も否定こそされているが、その兆候を皆の前で説明したのは彼女自身だ……何者からの受け売りであるにせよ。
その士羽が怪しいともなれば、彼女が唱えた前提自体を疑う声も、そろそろ出始めるころだろう。
黒い水鏡にみずからの顔を写し取った少女は、何も答えない。
士羽にしてもその説を確信していなさそうだったし、他の誰よりも真実を知りたいのは彼女自身であるはずだった。
大悟の方からもそこを追及しようとはしなかった。士羽が今、そのことにどう思いを馳せ、苦しんでいるのか。
それこそ、干渉せざるべき乙女の深奥というやつだろう。
――実のところ、例外はもうひとりいる。
「あの女、またこちらにちょっかいをかけてくるつもりでしょうかね」
問われた側としてはやや強引に過ぎる話題の切り替えであった。
目的や狙いについては、直接的に確認しようとはしてこない。
士羽は大悟が味方ではないということをよくわきまえていたし、そもそも心当たりのあることなのだろう。
そして対する大悟もまた、天井に茫洋と視線を投げつつ、答えた。私見や偏った情報提供ではない。
これは、あくまで賀来久詠の人格から判断した時に誰しもが思いつくような、安易な予想だった。
「またどうせ、ろくでもないこと考えてるだろうよ」




