(12)
かくして、決行の日となった。
当日の朝にさえも、ここでの日課となっていた生活用水の確保も兼ねた雪かきに従事させられ、生き残るための座学を実践とともに強いられた。
(おかげで次回の小テストはおそらく全滅だろうけど、仮に南極で遭難しても生き残れそうな自信と忍耐はついた気がする)
立ち会うのはごく限られた人数だ。それが慣例となっているらしい。
理由は、さすがに判る。少なくとも、この一手の誤りや妥協が明日の死に直結するこの世界で数日間を過ごせば、誰であろうと。
この二年間、地獄のような暮らしを強いられてきた多くの人間にとって、現世への出入り口はどれほど蠱惑的に輝いて見えることだろう。
たとえ今まで共に生き抜いてきた同胞を殺すことになったとしても、と精神的に追い込まれることは目に見えている。
いわばその誘惑に打ち克つだけの精神的骨格を持つ者だけが、この作業に従事できるのだろう。
出渕胡市なる生徒がエネルギー供給を担当し、校舎内で白景涼および側近の数人がタイムキーパー兼総指揮を司り、南部真月がホールの固定ポイントまで案内する。
今回用意された場所は……というか周囲と代わり映えのしない、本部から一キロメートル近く外れた雪原のど真ん中なのだが、事前に機材がセッティングされており、マンホールのような基盤に向けて施設から照射されるエネルギーによってワームホールを作り上げる……細かい理屈は専門知識のない歩夢には理解しきれないことだが……傍から見て得た資格情報からすれば、まるでバットマンに出てくる月夜のシグナルにも似ている。
それが固定され、確立され、輪を形成させる。
その先にはおぼろげながらも、見たことのあるような、保健室があり、その窓からは初夏の緑が差し込んでいた。
「座標の固着化完了……あちら側からのパスも承認……まずはお二人からどうぞ」
呪文のように唱えてから、鳴と典子に促す。
涼より譲り受けた『コサック』の鍵を自身のデバイスに装填すると、薄くモヤのかかったようだった現世への口がよりクリアとなり、その輪郭は確たる実体を持つにいたる。
「鳴……あの、私っ」
その口をくぐる間際、おもむろに典子が鳴へと口を開き、二人は見つめ合った。
だが会話の内容は最後まで拾うことができず、あふれる光の奥底へと彼女たちは消えた。歩夢が見られたのはそこまでだった。
その直後に、アクシデントが生じたからだった。
ゲートが途切れた。自分たちの世界へと帰途が断たれた。
〈どうした?〉
通信機越しに涼が尋ねる。唖然と、あるいは憮然とする歩夢とレンリの前で、インカムに真月が答えた。
「すみません。吹雪の影響か機材が不調みたいです」
口早にそういうと、とうとうその連絡も絶えた。
後に残ったのは少女と、役目を喪った機械類と、鳥と、そして極限の見えない雪景色だった。
「なんのマネ?」
歩夢がつっけんどんに問う。
少なくとも、強く糾弾するだけの刺客が、彼女にはあった。
――何しろ、通信障害もマシントラブルも起こっていない。彼女が、真月が一方的に機会を停止させ、通信を絶やしたのだから。
「……言い訳は、しないわ」
その物言い自体がひどく言い訳めいていて、歩夢の冷笑を誘った。
「ただ、事情があってね。そこのレギオンは渡してもらう」
「やだね」
歩夢は即断即決で返答した。
「こいつには、居てもらわなきゃ困るのよ」
「わたしにはね、世界で有名なネズ公の大演奏会の映画の、あの突然割り込んで横笛吹き鳴らす例のアヒルぐらいに必要なの」
「え? 俺あの絶妙に鬱陶しいヤツと同レベルなの?」
自身が鬱陶しいという自覚はこのカラスにはなかったのか。そう呆れつつ、歩夢は続ける。
「こっちにも事情と経緯があって、こいつにはわたしの側に居てもらう義務と責任ってのがあるってわけよ。嵐の中で一緒に不協和音を奏でてもらうし、それこそこの氷雪地獄の中でもね」
真月の表情が時間とともに、歩夢が語るごとに険しいものに推移していく。
「そもそも、わたしには向こう待ってる人間なんていないし、ここで一生を過ごしてもまぁなんとかなるんじゃない?」
そう、とマルチーズは短く答えたきりだった。
だがその小さな背丈から、周囲が歪んで見えるほどに黒い感情が迸っていた。
おそらくは彼女を人間を害しようとするまで追い込んだこの状況に対するものも相乗した、嫌悪や怒り。
「正直気乗りはしなかった。けど、今の発言を聞いて気が変わったわ」
真月が右腕をかざすと、その先の雪中で、何かが蠢くのが感じ取れた。
顔を、いや、牙のついた頭部を覗かせたそれは、その長細い全身を冷風の中にさらけ出す。
彼女のストロングホールダーなのだろう。かつて襲ってきた桂騎と同じタイプの、寒冷地仕様といったところか。その塗装は判別がつきやすいように真紅に。雪に沈まぬように無限軌道の脚部と、スキーのストックのような多足を持っている。
そして蛇行する姿も相まって、それはムカデのようにも見えた。
それが真月の脚を這い、コートの下をくぐって細腕に巻き取られ、手甲の先に牙を伸ばす。
〈猟犬〉
それとは逆の左手に握りしめた鍵を、ハスキー犬二頭分の横顔を形成する結晶体をムカデの鎌首へと挿し込むと、バリトンチックなネイティブ発音が鳴る。
そして真月は、手甲の牙をもって虚空を切り裂いた。
空間に断裂が入り、そこから漏れだす、粉雪のような粒子が少女の矮躯を包む。
「ここで一生を過ごしても? なんとかなる? ……じゃあ望み通りにしてやるわよっ」
甲高い咆哮とともに、真月の姿が変わる。
人とも獣ともつかない姿。外皮とも装束ともつかない茶褐色のフード。その下に、外殻とも装甲ともつかない硬質の保護。触れるものすべてを雪のように脆く切り裂くであろう、真紅のムカデの爪牙。
「そんなふざけたことを言うようなヤツが……本当に苦しんでる彼らを、心の底から出たがってる人々を差し置いて未練もないという世界へ出て行く。赦せるわけがないでしょう、そんなことッ」
再度の咆哮が、歩夢たちの肌を震わせる。
そして自身の言動の是非や戦う意義を顧みる暇もなく、歩夢は自身の駒を起動させざるを得なかった。




