(5)
「逃げろ!」
また、あの声が聞こえた。桂騎だったものと、聞き間違うことはない。
妙に耳に馴染む少年っぽいその叫びによって、歩夢はとっさに我を取り戻した。
生存本能が、彼女の身体を転がした。
元いた地点に、怪人と化した桂騎の蹴りが炸裂した。地面が割れる。元は石畳だったと思われる残骸が、完全に砕けて砂塵として散った。
「……たく、声ばかりで姿は見せない飛び出さない。そりゃちょっと男らしくねぇんじゃ、ねぇのかッ!」
くぐもった声とともに、桂騎は右腕を伸ばす。声がした二時の方角へと。その先には、不気味にねじ曲がる大木がある。どこに通じているともしれない校舎の内を除けば、身を隠せるような場所はそこしかない。
鉄の蛇頭を突き立てられた木が、根元から頽れる。
だが、木陰には人影はなかった。元より幻覚幻聴の類だったのか。あるいは貫通した刃によって斃れたのか。
確かめることはしなかった。逃げる隙が生じたから、目もくれずに身を翻す。
意を決して、開けっ放しのドアの内に再び飛び込んだ。
今度こそは、まっとうに校舎の中だった。
朽ちている。錆びた鉄骨は剥き出し。タイルは剥げ、露出したコンクリートからはは、今まで嗅いだことこない濃度の埃臭が、息をつかせることも許さない。
その悪路の中を、歩夢は駆ける。駆ける。駆ける。
だが終わりが見えない。出口が見えない。足を止めるわけにもいかないが、流れ行く視界の片隅に、横たわる人の骸のようなものが見えた気がした。ソレもまた、自分と同じような堂々巡りをした末の末路なのか。
人も草木も無機物も、全てが狂ったこの空間は、普段以上に体力を削っていく。
一歩ごとに、鉄板でも貼り付かせられるかのように、重さとぎこちなさが加えられていく。
脇道に折れることも、部屋に入ることもためらわれた。見えない先をこじ開けようとすれば、より深い混乱が降りかかる。それを身を以て知っている。
足がもつれた。眼前に、突き出た鉄パイプ。とっさに顔を背けて避けたが、その分受け身をとる隙はなかった。平均以下の体躯が無様に転がる。
あわてて顔を上げる。目を左右に配り、状況を確認する。
「見ぃつけた」
桂騎。賊のイメージが象徴化された怪人が、真正面にいた。中腰になって顔を傾けて、歩夢を覗き込んでいた。
今まで、姿が見えないどころか物音ひとつしなかった。ましてや気配など。それでも、彼は冷然たる現実として、そこにあった。
「バケモノ」
諦観とともに、抵抗する力は抜けていく。ただ、驚きと理不尽に対する怒りを込めて、そう吐き捨てる。
「俺が?」
心外そうに、怪物は白い目を歪めた。
ややあって、上体を揺すって、声を大にして笑った。
「滅多なことを言うもんじゃねぇなぁ。たしかに見てくれや稼業こそ因果なもんだが、これ、人助けよ? お前さんのためでもあるし、学校の治安維持でもあるのよ?」
今から害するつもりの相手に、気安い調子で語る。相手に理解とか納得を求めている気配は薄く、あまりにあっけらかんとしていて、まるで初対面の姪っ子を宥めようとしている様子にも似ている。
どこが、と恨み言を返そうとした矢先に、彼は続けた。
「それに、俺なんかよりよっぽどバケモノな連中が、ごまんといるんだよ、このガッコウにはな」
……それ以上、何かを言おうとするのを歩夢は諦めた。いや、抗おうとすること自体を、辞めた。
生存のために為すべきことを、自分はやり尽くした。本当はもっとあるとは思うが、努力と呼べる程度には頑張ったと思う。
だったら後は訪れる宿命を待つだけだ。
――あるよ。
自分の内から、誰かが言った。
――もっと楽に片付く方法が、あるよ。
駆けずり回った末に、鼓動は乱れに乱れていた。その騒がしく不規則な心音にまぎれて、内から誰かが囁く。あるいは、内を介して、誰かが語りかけている。
窓の外に見える剣が、なお、神と悪魔を同居させたような光輝を放っている。
「おいおい、なに気の抜けた顔してんだ。たく、本当に殺すわけじゃないんだが、そういう顔されるとやりにくいだろ」
雑音が、うるさい。
その声が、信じられるかどうかは彼女の中では定かではなかった。
ただ、このまま死ぬ以外の道があるというなら、そっちに流れる。それだけの、シンプルな話だろう。
だから、自分は、足利歩夢は、蛇の刃がその背に突き立つ前にその言葉と、湧き上がる熱と力を受け入れ、
風が、鳴いた。