(15)
井田典子の寝顔を、なんとなしに膝を抱えたまま歩夢は眺めていた。特に介抱するでもないし、そんな知識や技術も持ち合わせていない。
先に鳴に言ったとおりに帰ったところで特別な用事があるわけでもない。鳴から無用の顰蹙を買うだけのことだ。
そんなこんなで時間を浪費する少女とカラスの近くに、鳴が駆け寄ってきた。
「典子は?」
「大丈夫だ。他のレギオン同様、彼女の本体は別の位相に閉じ込められていただけだからな」
余裕のない鳴の問いかけにそう答えたのは、もちろんレンリのほうだ。歩夢には答える義理も見識もない。
ほっと息をついた鳴は、典子の上体を掬い上げるように抱き起こした。
「のり」
彼女が呼びかけようと頬に触れた瞬間、制服のボタンの隙間から長大な人影が現れた。
鉄の塊。行李のような筐体を負った、つるりとした鎧の怪人。
〈アンブッシュ。『輸送兵』〉
そしてその身から重低音を発するや、大きく両腕を伸ばしてきた。
「は?」
と対応しきれない鳴を鷲掴みにし、
「はい?」
レンリのストールを絞り上げ、
「ちょっ」
その翼を反射的に引き留めようとした歩夢を抱き込める。
次の瞬間、歩夢の意識は闇に落ちた。
・・・
足利歩夢は夢を見る。
イメージか現実か。意識が混濁している。自分のうちにあるものが、混線している。まるで雑多にプラグをつなぎ変えたテレビのように。
自分と、別の誰かとの意識が交わった。
その中で、夢だけは明確なヴィジョンとなって見えていた。
いつものように、燃える庭園。人間の骸で描かれた曼陀羅。
またか、と辟易する。
いわれのない痛みや熱さも、逃れようもないので受け入れることにしていた。
その中央で、誰かが泣いている。泣いて、詫びている。
哀れみはしない。憐みもしない。そんな感情はとうに焼け落ちた。
そもそもは、ソレの罪禍だ。ソレが自分を責める通りに。
だから好きなだけ泣けとは思う。
それでも、やはり『自分』は『彼』を捨て置けないのか。あるいは、独りよがりなその感傷が絞め殺したいほど煩わしかったのか。
無意識に指がソレに向けて伸びる。だが、それは意識がクリアなままに、場面が変わった。目の前の孤影がなんの前触れもなく変わった。
士羽。少女が背を向けている。今のような潔癖な白衣ではなく、『あの時』と同じ喪服のままに、長髪を流している。それがレンリに代わり怪物に戻り、そして自分自身の鏡像へと変移する。
「嘘つき」
振り返った自分や誰かが、振り返られた自分や誰かに向かって、人とは思えない声で非難した。
「……い! おい! 起きろっ、死ぬぞ!!」
次の瞬間、強烈な衝撃が頬を張った。
痛みで逆に意識を飛ばしそうな、鳴のガチビンタであった。
「ったく、ようやく起きたか」
「殴ったね、親父にも……ってあんたにはこのネタ通じないしそもそも親父いなかったわ」
「自虐すぎて笑えねーよ。それよりも周り見ろ」
硬い声で言われて周囲を見渡す。
上体をもたげた横に、鳴がいる。その彼女が真っ白な顔で過剰に抱きすくめた典子は未だ喪神したままで、自分の近くではレンリが困り切った目で、クチバシをカチカチと小刻みに鳴らしていた。
その彼らの外側に意識を向けた瞬間、理解の許容を超える世界が広がっていた。
それでも鳴の顔が白いのも、声が硬いのも、カラスの口が震えるのにさえも総身で納得した。
すべては、この異常な冷え込みのせいだ。
梅雨も手前だというのに、蒸し暑さとは真逆の、吐く息がことごとく凍りついてしまいそうなほどの。
そしてそれが起因するものこそ、目の前の世界だ。
見渡す限りの氷土、雪原。分厚い灰色の雲。
針で刺すような痛みを伴う風の中を、雪や霰が踊り狂う。
その遥か先に、まるで軍事要塞のような平たい方形の建造物が望んでいた。歩夢には、散々に改造されているであろうその施設の基本構造に、見覚えがある気がした。
「……何コレ夢の続き?」
「残念ながら現実だよ」
レンリが答えた。
さすがに薄着に過ぎるので、暖房がわりにそのカラスを抱きすくめる。
「……多分、知ってる限り最悪の場所だ」
鳴も衝撃から立ち直れていない様子で、呆然とした口調で言った。
「ここどこよ」
歩夢の問いかけに、レンリと鳴、どちらが答えるべきか彼らは互いに視線を配り合って探り合っていた。
だがレンリが答えないので言いかけていた鳴がハッキリと答えた。
「剣ノ杜学園」
は? と聞き返す。
学園、というにはあまりにも現実離れしていて、季節感も広さも母校のそれと合致しない。
……と切り捨てかけたが、あの学園にそういう所が一点存在するのを思い出した。
あらゆる物理法則を否定する場所を。
あらゆる神羅万象を覆す異界の存在を。
「旧校舎。二年前に隔絶された、北棟だ」
鳴の言葉を裏付けるかのごとく、あの忌々しくも歩夢の心を動かした巨大な妖剣が、曇天の下にも関わらず異様な存在感を虹のように放射していた。
長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった。
閉ざされた白い世界。
晴れることのない絶対零度の要塞都市。
そこを治める男は名前のとおりに雪のように潔白清廉で、雪のようにその生き様は美しく、雪のように峻厳で、雪のように冷たく他人を寄せつけない。
その厳しさ、公正さこそが今までこの王国を保たせていたがその下では黒い泥土が少しずつ募っていた。
男の名は白景涼。
清く正しく男の子的な要素をゴリッゴリに詰め込んだ、この憎たらしいクールなこいつには当然女の影もついて回る。
そんな彼女たちの思惑の狭間にあって、俺たちは脱出を図ることになるわけだが……?
次回、『ヒョウリュウの、教室』




