(14)
「本当にやりやがった……本当に成りやがった……」
眼下にて行われた光景を見下ろしながら、鳴は唖然として呟いた。
歩夢の急成長も信じられないが、レンリの献身も予測を超えていた。
無論、歩夢は生死にそこまで頓着していないだけだし、レンリにはレンリで思惑があるのだろう。
それでも、ここまでするとは思わなかった。
傍目には自分には何のメリットもないはずなのに、今この瞬間に自分に求められていることを果たしている。
お前はどうだ、その弓はただの飾りか? 友を救わずに右往左往しているだけか?
内なる良心がそう咎める。
それによって、腹を括る。
〈長弓兵〉
一対の弓矢が拵えられた鍵。
それを差し込むと、牛の前肢が伸びてアスファルトを突いて固定された。
弦と弭もまた拡張し、一種の固定砲と相成った。
自身も含めた狙撃体勢が整うまでに、所要一分程度。その間にも状況は目まぐるしく動いているが、戦場を移動しなければならないほどではない。目下の歩夢は相手に食い下がり、よくやってくれている。
いったい自分の身に、デバイスに何が起こったのか。そもそもグレードを上げるとはどういうことなのか。
おそらく何も伝えられていないだろうあの小憎たらしい後輩は、それでも逆流現象を利用した肉体のインプットに従い、新たな力と技術を使いこなしていた。
重量感のある盾は、角張った分厚い代物で、半透明でありながらもまるで一個の城塁のようだった。
それを振りかざすと、重くて気持ちの良い風音が鳴の耳にも届く。時折、それが甲冑に打ち当たって、鐘の音を響かせる。
もちろんその鈍重さは筋力由来のものではない。
ただ、突如インストールされた力にホールダーに内蔵された管理AIの処理能力が追いついていないだけだ。順応すれば多少は改善されるだろうが、今その暇はない。
だがそれでも彼らは何とかする。そんな気がする。
現に、人以外の形をしたアドバイザー兼パートナーは、その耳許で何かを助言している。
なら自分も、やらないわけにはいかなかった。
指を弦に懸ける。
念じれば矢は飛ぶ。あくまでも慣習的な動作ではあったが、イメージがつきやすいからこそエネルギーの供給や一極化における効率は良い。
大弓に光輝く矢をつがえると、自身がアルテミスの彫像になったかのような心境だった。
狙いを定める。
――あー、せっかくのお誘いなんですが、すいません。高等部の陸上で待ってる奴がいるんです。
雑念が混じる。
在りし日の自分。運命を分けた瞬間。
――もう一周行っとく? 鳴。
――今度はあたしが先に着く。
――ハイハイ、勝手に言ってなさいよ。
今もそこにあるはずだった、かつての日常。
――アンタ、何やってんの。こんな時期に?
――まぁ、ちょっといろいろあったんだよ……
――いろいろって、なに?
――いろいろさ。
――もう、良い! どこへでも行って勝手にすればいいじゃないっ!
そして覆りようもない、過ち。
典子はきっと裏切られたと思った。鳴自身もそう思えばいいと思っていた。旧友の気持ちがそれで少しでも解消できればと。
しかし裏切られたと思ったのは、実は自分のほうだった。黙してごまかしていたとしても、きっとあいつは察してくれると、甘えていた。そんな考えを持っていた自分は、やはり彼女や周囲を裏切っていた。
鬱屈は晴れない。答えが欲しい。名分が欲しい。
そんな時、ふとひとりの少女の姿を目で追った。
――問題は、あんたがそれについてどう思うかってことじゃないの。
足利歩夢。
自分と同じように、自分の生活を棄てさせられて、あらゆる理不尽を背負わされた女。
それでもなお、自分が今やらなければいけない責任だけは、果たしている。
きっと鳴やレンリが発破をかけてからは、いまだ所在定かでない自分の心からも、逃げることはやめたはずだ。
だから彼女は今、進化させた力を正当に扱っている。
――周囲のすべてが貴女を否定したとしても、貴女自身が自分の正しさを知っているではないですか。ならば立ち上がる理由には十分でしょう。
そして、維ノ里士羽。
今はこの世のすべてに失望して王宮に引きこもっていたとしても、それでも矜持をもって、いや残された矜持だけで今なお世界の危機に挑み続ける無謀な女。だがたしかに、人の上に立つ資質をその言霊に秘めた女。少なくとも、すべてを喪った少女に差し伸べた手を掴ませる程度には。
口元がほころぶ。
余計な緊張から脱し、視界が澄み渡る。
士羽という先達に薫陶を受け、そして後輩の歩夢には教え、逆に教えられた。
そんな合間に立つおのれが、揺らいでどうするのか。
(自分が何だ? 役目はなんだだと?)
言われるまでもない。
自分は士羽の部下で、歩夢の先輩で、そして典子の友人だった。彼女たちがどう思おうとも、自分だけはそう信じて、この矢を引き絞る。
だからせめて、囚われた旧友には口にし忘れていたただ一言を、贈る。
「ごめん、典子」
彼女の手元で、矢が離れた。
放たれた一矢は連射していたものよりも倍の光量を膨らませ、はるかにそれらを凌ぐ速度と圧で地上へと落下していく。
〈ロング・シューター・スナイプ・チャージ!〉
風を巻き、熱を孕み、使命感を研ぎ澄まし、想いを込め、罪悪感を払い、煩悶を振り切る。
〈ヘビー・インファントリー・ファランクス・チャージ〉
それに呼応するかのように、歩夢も打って出た。
腰から抜き取った鍵をホルスターの側へと移し替え、そこに収まっていた短筒を抜き取る。
怪物へ向けてその引き金を引くと、一度消えた障壁が、分裂し、陣形を組んだ。再突撃してきたレギオンの前に立ちはだかった。
敵の足を留める。だがそれだけには終わらなかった。
盾と盾の隙間から、ありとあらゆる角度から、無数の槍が突き出た。
そのうちの何本かは弾かれ、何本かは、鎧の間隙に食い込んでその場に縫いつけた。
狙ったかどうかは定かではないものの、矢が向かう射線上。その中でも特にベストなポジションへと。
鋼の怪物を中心に、輝きが交錯する。
高低からの挟撃は耐久力を上回り、やがて巨大な火柱をあげた。
手摺り越しに靴底を舐めるほどに膨張した光はやがて地上の一点に収斂していった。
不自然なまでに急激に薄れていったそれが完全に消えると、後に残ったのは相変わらず何を考えているのか読めない鳥と少女のコンビと、静寂を取り戻した街と、そして外傷もないものの地に臥したままの旧友だった。
「典子……!」
やるべきことのため、一時的に切り離していた感傷がぶり返した鳴は、たまらず階下へ向かって駆け出した。




