(8)
誰よりも速くなければいけない脚が、枷をつけられたように重かった。
会いたくなかった相手に出会した瞬間以来からだ。
他人の客観はいざ知らず、少なくとも井田典子自身はそう信じていた。
おかげで大会間近だというのに記録は自分の平均タイムにさえ届かず、鬱屈した日々を送っていた。
今日も今日とて、部費の件で生徒会より呼び出しを食らった。
(あの、件か……)
その金回りに不審な点があるというのは、部の内外でまことしやかに流れている噂だ。
不正な流用が発覚するのであれば、まだ良い。本来支給されている部費が知らないうちに減っているのであれば。
だが、実情として増えている。いつの間にか入金され、いつの間にか備品が新調されたり、グラウンドが整備されている。
妖精の仕業か、死んだ部員の怨霊か、でなければ部長や自分が学園の理事長と寝ているとかという途方のないデマまで流されているが、真相は不明のまま、今日に至る。薄気味悪さを覚えつつ、その恩寵に甘えている。
土曜日、学園内にいる多くの生徒が部活動にいそしむ中、自分ひとりが呼び出されたのは、どうやらその事情聴取といったところか。
典子は息を吐いた。
自分について回る因果、まったく預かり知らないこと。
ありとあらゆる不条理が、まるで未開封のシューズボックスのように、自分の心の中に乱雑に積み重なって、消費することができないでいる。
「失礼します」
多少の息苦しさを感じながら、陸上のエースは、生徒会室へと入った。
踏み込んでから、彼女は自身を包み込む闇に気がついた。
昼時のカーテンは閉め切られ、体育部のかけ声もどこか遠く、むしろ環境音の遮蔽となってそこだけが、日常から切り離されたようだった。
「時間、間違えたのかな……」
独りごちる。どことなく感じる不気味さを、払拭するために。
「いやぁ、合ってるわよ?」
静寂を破って、低い女の声が返ってくる。
次の瞬間、ドアが完全に締め切られ、かすかに差していた光が消えた。
〈代官〉
機械によって組み上げられた音声が、重くこだました。
そして背後から、典子は腕を絡めとられ、地面へと叩きつけられるように組み伏せられた。肺がまともに硬い衝撃を受けて、一気に空気が吐き出された。
〈騎兵〉
同じ合成音声で、ふたたび意味不明な文字列が読み上げられる。
抑揚のないからこそ、その声はぞわりと典子の背を撫でるかのようにおぞましかった。
「実はね、貴女のお友達のお友達が我々に何か隠し事をしているようなの」
靴音。さっきと同様の低く、どこか神経質な女の声。
――であれば、背後にいる者は、誰なのか。
「だけど、正面から問い質したところでどうせ素直に語ってもらえない」
多少なりとも鍛えてきた自負がある典子が渾身の力で抵抗しても、その拘束はほころびさえしなかった。
素人にさえわかる。
武術というか、格闘術というか。単純な力任せな荒業と違い、きっとそれは確かな物理法則にのっとったうえでの拘束ではあるのだろう。
「だからね? ちょっと貴女、あのカラスを吊り出す『餌』になってくれないかしら?」
それでも、思った。
このハスキーな掠れ声で甘く囁く女の冷たい眼差しは。彼女に無言で付き従う背後の従者の拘束は。
まぎれもなく、自分にとっては暴力なのだと。
〈エージェント・コンスクリプション・カルバリー〉
混乱に混乱を重ねる典子の首筋に、冷たいものが触れた。
やがてそれは熱を持たないままに液体のように融けていく。クリームのように、彼女の肌は貪欲にそれを吸収し、血管を通過し、止めようもなく体内へと落ちていく。
声をあげる間もなく、少女の意識は、黒い煉獄へと堕ちていった。
死への恐怖、生に対する執着、人生に対する心残り。
走馬燈が駆け巡る中、少女が最後に追憶したのは、
(め、い……)
いつかの、想い出。
何のわだかまりを持たずに駆け抜けることができた、中等部のグラウンド。
そして常に先を行っていて遠のく、旧友の背中だった。




