(3)
ふもとにある市立病院の一般棟。その病室の一角に、クマのぬいぐるみが顔と手を覗かせた。
「辺見チャン! コンニチワ!!」
甲高い声で挨拶をしたテディベアを、辺見京香は苦笑と喜びの合いのこのような表情で出迎えた。
「的場先輩。お久しぶりです!」
ただの戯れのつもりだったが、一発で正体を言い当てられては面白くもない。
やや興の醒めた顔つきで、背を丸めるようにしながら的場鳴は素顔をさらした。
「お久しぶりはないんじゃねぇ? せっかく助けてやったのに」
「あ……そうでした。先輩が倒れたわたしを介抱してくれたんですよね? ありがとうございます!」
鳴の両手には山盛りのガーベラとぬいぐるみと、そして
「サイズたしか同じだったろ。練習用にでも使ってくれ」
「わ、そんな悪いですよー。うわ、しかもコレめっちゃいいヤツじゃないですか?」
「良いんだよ、もう使わないし」
――アスリート用の、シューズ。
それらをキャビネットに飾ったり、ソーツに埋めた足の近くに置いたりする。
だが自身の行動ながら鳴にはそれが、ごまかしや欺瞞を隠すように思えてならなかった。
「でも、クスリ疑われて検査なんて、ひどい話ですよねー……あ、ホントにやってないんですよ! たしかに気を失う前後のこと、よく覚えてないですけども。なんか気づいたら数日後のベッドの上で」
「分かってるよ。あたしの時も、よく妙な勘ぐりされた」
彼女は中等部以来の後輩に、真実を知ったうえで嘘をついていた。
実際のところ、辺見がそういう嫌疑のために週をまたぎ、念の入った検査にかけられているわけではないことを鳴は知っていた。
どこかしらかの息のかかった警察や医師団が調べたいのは薬物云々の話ではない。いったいどうして彼女がペスト医師の怪物となったのかという、経緯。かつ残留する影響。それらの手がかりとなるであろう記憶の断片。
だがそのいずれも空振りとなったのは、鳴もとうに知っている。それを承知で来たのには、さらなる秘事のためだった。
「先輩、もう部に戻ってこないんですか?」
かつての陸上部のエースは首を振る。彼女の美意識でもって殺風景な病室を飾り付けながら、それを聞き流すように、あるいは気まずい話題を切り替えるように、尋ねた。
「ところで辺見さ……『さんだつのおう』って、知ってるか?」
辺見はキョトンとして聞き返した。
「なんですかそれ? 小説かなんかです?」
(お前が人間に戻った直後に口走った言葉だよ)
などとは口が裂けても言えず、
「そうそう! なんか最近流行ってるらしくてな! 持ってたら貸してもらおうかなーってな」
それ以上の追及は無駄だ。これ以上欺くのも限界だ。
「それじゃあな、早く退院していい成績残してくれよ」
余計な不審を買うのを承知で、鳴はそう話を締めて退出した。
後ろ手でドアをスライドさせた彼女は、気苦労で固めたような呼気の塊を床へと吐き落とした。
「鳴……?」
傍からの呼び声が、鳴の鼓膜を刺激した。
望まずして、本能的にその声の方向へ目線を動かす。
少年と見間違えるような短く刈り上げた髪。最小サイズのジャージさえ余らすほどの背丈に比して長い手足は、良バランスとアンバランスの瀬戸際といった按配だ。
引き締まってスレンダーな体躯は、鳴よりもよっぽど陸上向きと言えた。
目的は、表向きの鳴と同じだろう。その手の中で桔梗の花が咲いていた。
「……よう、久しぶりだな。典子」
的場鳴と、井田典子。
かつて剣ノ杜陸上部の将来を背負って立つと目されていた双璧は、互いに避けていた本人たちの、その思惑の外で再会した。




