(8)
人のものと大差ない血の池が、止めどなく広がり、歩夢のローファーの先に触れた。
「なに、やってんの。あんた」
庇われた。助けられた。
勝手に、頼んでもいないのに。
熟慮するまでもなく観察するまでもなく、それは理解できた。
だが口からこぼれ落ちた言葉は、感謝でも怒りでもなく、まるで目を離した隙に大怪我を負った子どもを見た母親のような、呆然とした心境から起こったものだった。
「こんなナリでも……血は出るし、痛いんだな」
そしてレンリもまた、誇るでもなく恩を着せるでもなく、ただ他人事みたいに、だが少しだけバツが悪そうに目を笑わせただけだった。
互いに意識を向けるあまり、対外への意識はそぞろになっていた。そして『軍服のペスト医師』の、理性と引き換えに得た獣性は、その間隙を見逃さない。刃を突き立てるべく、再度喰らいかからんとした。
光陰のごとき矢が、歩夢の耳元をかすめた。髪の下をくぐり抜けた。
それが通過した後に風を感じ、肌が裂かれたように錯覚した。
その矢は歩夢をすり抜け、鳥の仮面に命中し、一時的にその怪人をたじろがせ、退かせた。
「何やってんのはこっちのセリフだ!」
的場鳴が弓をつがえてそこにいる。
開けっ広げの窓の縁に足をかけ、もう一発射った。そのレギオンが、さらに後退した。室内に踊り込んだ鳴は、開けられた合間に、敵と被保護者の間に、自身を割り込ませた。
「さっさと逃げ……いや、カタがつくまで後ろに隠れてろ! これ以上ウロチョロされたらたまったもんじゃねぇっ」
鳴の叱責に、理解や反発よりも先に身体が動く。
レンリの首根を掴み上げて、デスクの裏にともに飛び込む。
その間にも、血は絶えず彼の傷口からあふれ、羽毛を赤く濡らし始めていた。
手を指し延ばすことが正しいことかさえ分からず、気遣うことも許されず、ただ息を弾ませることしかできない。
そんな歩夢に、絶え絶えの息の合間でカラスは言った。
「お前のモノサシで考えると、こういうことだぞ」
え、と。
唐突に振られた話題は、今の彼女の虚を突くには充分だった。
「何かに優先順位をつけるなら、それが誰かに必要にされてるかどうかで決めるっていうなら、真っ先に切り捨てられるのは、俺だ……」
なんで、と問うことはできなかった。
理由は、あえて言うまでもなかった。その素性の多くはまだそのクチバシから語られてはいない。それでも、今のことならわかる。
「俺は……全てを失った。いや、俺が何もせずに閉じこもっていたばかりに、世界は滅んで、すべてを取りこぼした」
流れ着いたこの場所では、誰も彼のことを知らないし、必要にもしていない。だから……自分が悪意とともに吐き捨てた主張では、真っ先の犠牲にならなきゃいけないのは自分ではなく彼なのだ。
「なぁ、歩夢」
カラスは目を細めて、優しく、噛んで含めるように語りかける。
「確かにこの世は、理不尽なことだらけだよ……どうやっても避けようのない、運命ってのもあるのかもしれないな……」
それでも、と。
レンリは歩夢の、震える肩をそっと羽で包み込む。
あの夜に現れた影のように、フェザータッチの中に、推し量ることのできない万感の想いを込めて、彼は全霊の言霊を紡ぐ。
「自分の心だけは、手放すな。それを捨てたら、二度と戻ってこれなくなる」
情が込められている。血が流れ続ける。
だからこそ、その忠告は歩夢にとって無慈悲な宣告に聞こえた。二つの道を選ばせているように聞こえた。
風音が、嵐のように彼女たちの空間を揺らしていた。
今なお、怪物と鳴の戦闘は継続している。
歩夢はついに話すことさえ難しくなったレンリを、椅子の上にそっと横たえた。
鉄錆びた囀りが、横合いから聞こえた。
機械の鶴が、降り立った。翼を畳んで、その口端には白い剣をくわえて。
たしか、『ストロングホールダー』とか言っていたか。『ユニットキー』だったか。
その鍵を、血に濡れた膝先へと投げつけた。
かすかに曇る瞳が、その向こう側で自分を見つめる何者かが、無言のうちに問いかける。
どうするのかと。
どうしたいのかと。
どうなりたいのかと。
今のお前は、何者か、と。
デスクが、破壊的な音とともに大きく揺れた。
おそらくは、誰かがしたたかに背を打ちつけたのだろう。
ジャラジャラとした鉄音が伴わなかったから、おそらくは鳴のほうか。
是非の自問自答も、善悪への逡巡も、意味はなかった。
自覚した時には、すでに歩夢は白い剣と機械の鳥を両手に掴み取っていた。組み合わせて自身の腰に取りつけて、机から身を乗り出した。
〈『軽歩兵》〉
浮上した白亜の直剣を、振るう。思念で操るのではなく、自身の手で握りしめて。
その剣先は鳴の心臓に突き立てんとしたそのメスを弾き飛ばし、返す太刀筋が軍服の肩口へと叩きつけられた。
「スネたよーな人生論だか運命論だかは宗旨替えしたのか?」
助けにきたにも関わらず、助けてやったに関わらず、後頭部をさすりながら起き上がった上級生に、感謝の言葉はもらえなかった。
好悪は別として、付き合いは短いながらも「的場鳴らしい」とは思う。
「さぁね」
そして歩夢も彼女に、そっけなく受け答えした。
「正直色んなものが詰め込まれすぎてまだ頭の中グッチャグチャだけど、ひとつだけ言えるのは、そこの鳥に知った風に勝手なことを言われすぎて爆発寸前ってことかな」
だがそのレンリは、気持ちよくひとり何やら満足して、生死の境をさまよっている。
「だったら、鳥なら鳥にこのムカつきぶつけることにする」
鳥のマスクの怪人に剣先を突きつけ、歩夢は覚悟のように言い放つ。
鳴と並び立つ。
前後左右を入れ替えながらまるでリハーサルを何度もしたステージを決めるように。
レンリのためでも、鳴のためでも、まして自分のためでもない。
きっとこれは、この憤りだけは正しく、いつもつきまとっていた自分の感情だから。過去も未来も知ったとこではないけれど、これだけは、遂行する。
マスクの奥底で眼光が何度閃こうとも、強烈な殺意を注ごうとももう何も感じない。想わない。無条件で受け入れない。諦めない。
ただ自分は、本来この敵に向けるべきではない八つ当たりを、ぶつけるだけだった。




