(7)
走っていた。いや、逃げ出した。
衝動的に部屋を出た足利歩夢は、勝手のわからない通路を記憶もしないままにくぐり抜け、いつのまにか仄暗いどこぞの一室に立てこもっていた。
一体何が、自分の感情をそこまで逆撫でにしたのか、咀嚼せず、飲み込めないままにここに流れ着いた。
職員室と思しき場に整列した机は、極力上下関係を排そうと躍起になっているかのように神経質で、先の進路相談室とは異なって、それほど荒らされた様子はなかった。だからこそ、用をなさないデスクは障害物となって進路も退路も限定してしまってはいるが。
息が荒い。鼓動が乱れている。
細い髪は、汗でぴったりと首の筋に張り付き、目元が熱を持っている。
(なんて、みっともない)
自分を美しく虚飾する趣味はない。それでも、これは望まざる醜態だった。
あんな安い悪態に心乱して、薄っぺらな説教に背を向けて。
こんなものは、自分のスタイルではない。
もっと世界は自分に無関心で、冷淡であるべきだ。それが自然なのだ。あるべき姿だ。今までと同じように。
どうして、それが、今になって。
(今になって)
また、その言葉だ。
感情がついまろび出た際にも、一番先に転げ落ちた一言だった。
乾いた笑いが、口端に浮かぶ。
何気ない言葉にこそ真理は宿る。他愛ない呟きから正体は露見する。
(あぁ、そうだよ)
つまり自分は、世界に期待を持つことを諦めようとしていたのではなかった。
諦めることを、自分のどこかに期待をしていた。
所詮この世はこんなものだと、中途半端に期待を持つよりは、さっさと見切りをつけて楽になりたかった。
そしてそれを自発的に思うのではなく、あくまで流れに任せようというのがどこまでも受け身だ。
そんなものが、足利歩夢の本性だった。
気配を感じて、歩夢は顔を上げる。
そしてまた軽く笑った。
「ほんとうに、今更だなぁ……」
つくづく、自分と世界とは、間と相性が悪いと見える。
眼前には、異形の怪人がかがんでいた。
たしかペスト医師の肖像だったか。鳥にも似た嘴のついたマスクの奥で、長細い体躯のそれは呼吸を荒くしている。
窪んだ眼窩の奥底でギラギラと光り、左右する目は、淀んだ湖で獲物を待つ肉食魚の、蠢く姿にも似ていた。
頭部以下の全身を、焼け焦げた軍服にも似た詰襟の装束で覆う、突き出した腕からは、メスをハリネズミのように無作為に生やしていた。
「……ヤァ、マッァアアアア!」
しきりに首や腕を痙攣させていたそれだったが、歩夢の姿を完全に視界に捉えるや、脇目もふらずに飛びかかった。
(けど、やっぱりそういうことだよね)
恐怖も、怒りも混乱も。自分の中で基準値を超えた感情のスイッチを、すべてオフにする。そして悟る。
自分に夢の断片を見せてから殺しにくるあたり、やっぱり運命というのは、底意地が悪い。
……
…………
血が、眼前で流れた。
歩夢は閉じていた目を大きく見開き、封じていたはずの感情が、動き出した。鼓動とともに、荒ぶり始めた。
それが彼女自身の流血であれば、そうはならなかっただろう。従容として、死も痛みも、受け入れていただろう。
だが、そうはならなかった。
彼女に代わって、凶器の拳に貫かれたのは、血を代償に苦痛を引き受けたのは、横合いから飛び出したカラスだった。




