(5)
内側から蹴り込まれた天窓が、地面に落下して割れる。
歩夢とレンリを伴った鳴は、進路相談室の中へとその身を下ろした。
すでに進路に悩む生徒も、職務上応じていた教員もそこにはいない。とうに時期の過ぎた大学別の過去問集だとかパンフレットだとか。あるいは求人などが壁や錆びついた棚の中で朽ちて、蝕まれ、饐えた紙の臭いを発していた。
床のタイルには名前も知らない草花が我が身を伸ばし、机や椅子とかを取り込んで、絨毯のような様相と感触になっていた。
もし人類が滅亡すれば千年後には地球は本来の緑と青さを取り戻して環境問題はあっさり解決するという説があるらしいが、この繁茂っぷりを見ると、さもありなんという気分に陥る。
まぁもっとも、この場には生活の痕跡は残っている。おそらく一時的にここを拠点として使っていた、冒険者を気取った名もなき野心家が食い散らかしたスナック菓子の包みや紙コップなどが、咎める者もいないということで使われたまま放置されていた。
「ねぇ」
先行した鳴の手によって通気口から引き摺り出され、歩夢がむせ込む。頻繁に人が回廊として使っているから、思ったよりかは埃が溜まってはいないが、それでも換気が良いとは言えなかった。
脇を挟むように持たれ、鳴と目線の高さが合った時に、彼女が問うた。
「例の隠者サマって、引きこもってんでしょ。なんでレギオンとやらの討伐なんかやってんの?」
「こっちにも先立つ『鍵』は必要だしな」
「でも『委員会』ってのがあるんでしょ」
至極まっとうな疑問ではあった。同じことを、鳴も士羽に問い質したことがある。その上で、戦闘を重ねてみずからに身をもって実感したことを、彼女は新人へ語った。
「このあたりは、西棟と生徒会の縄張りの間に出来たエアポケット、つまりは緩衝地帯なんだよ。で、ぶつかり合いになりたくないから、そこで問題が起こっても、自分たちの領分に飛び火するまで基本はスルーしてる。あたしらの持ち場は、そんな場所」
「つまりは落ち穂拾いってことだな」
その喩えが最適なのかどうか。レンリが訳知り顔で降り立った。
「あだだ」
と思ったらしりもちをついて着地には失敗した。
やはり、羽ばたいたところで落下の衝撃を和らげるぐらいしか、あの短い翼には能がないらしい。
「で、今からその手伝いをさせようってわけ」
歩夢は問う。問いながら、断定している響きがある。
鳴はそれを呼気のみでもって笑い飛ばした。
「丸腰のお前に何ができるってんだ。先にお前を帰すためにここに来たんだよ。えーと、たしかこのあたりの棚が南棟に……」
「まぁ人柱ぐらいにはなるんじゃない」
だいぶガタのきた書類棚を開こうとした指を、鳴は止めた。
「――マジで言ってんのか、それ」
「それなりに」
この学園の真の姿を知って一年。その短期間で、本来の人生の中で多くの人間と関係を持った。濃密な感情に触れた。
だからこそ、わかってしまう。
間違いなくこいつは、考えなしに思いつくまま言っている。
だが、決してそこには、シンプルで自然な反応であるからこそ、虚勢や嘘の混じる予知がなかった。
つまり、軽微な理由から足利歩夢は、平然と命を投げ出そうとしていた。
「どうせ元々わたしをそういうつもりで引き込んだんでしょ。命日が今日か明日か。そんだけの違いじゃない」
そう言う歩夢は、口の右端をわずかに歪めた。もしこの新入生の精神性はそのままに、表情がもう少し豊かであったのなら、相手も自分も貶めるシニカルな笑いが浮かんでいたことだろう。
「どう考えたって、真っ先に使い潰されるのって、優先順位的にわたしだよね。可愛がられるタイプでもない。実力だってないし、それこそ探せば代わりなんてどこにもいる。身寄りもだってロクなのいないから、死んだって誰も悲しまないし、後腐れなく処分できるってわけだ。入学式からこっち、ロスタイム、オマケみたいな命だし」
「おい、歩夢……」
「まぁそっちの考えに従うけど、殺す時は事前に通達ぐらいしてよね」
棚にかけたままの指が、ぎしりと錆びた軋みを鳴らす。
本人は知ってか知らずか。その減らず口は傲岸不遜は変わらないが、ふだんよりも速く、多い。
話の流れも少し不自然なきらいはあるものの、順当ではある。だが、どうにも別の場所へ向けて発せられた言葉のような、脱線している気配があった。
そしてそれは、鳴も同じだった。
歩夢へ向き直る。感情は、自分のしようとしていたこと、士羽の指示とは別の方向へと動こうとしていた。
「――まぁ、なんだ」
鳴は首筋に手を当てた。
「正直、あたしがお前を招き入れちまった手前、こんなことを言う資格があるかどうかわかんないけど……でも誰かがやらなきゃいけねーのに誰もが放置してるから、あたしがやる」
前置きを告げた。
怪訝そうな歩夢の顔で、かわいた音が鳴った。横を向いた。
鳴が、頬を手で張った。
まさかの不意打ちに、さしもの歩夢も目を見開いて、じんわりと赤くなった頬を押さえた。
「お前、いい加減にしろよ」
彼女の襟を、叩いたその手でつかみ上げる。
「優先順位なんてあるかだと? オマケみたいな命だと? バカかお前は。その命はもう、お前ひとりのものじゃないんだよ、とっくにな」
「……っ、なに? 気遣うフリとかしてるわけ? わたしのこと、なんにも知らないくせに」
「あぁ知らねぇよ。せいぜいお前の中身がそんなボロボロになるほど、ろくでもない環境にいたぐらいは分かる程度でな」
図星だったのか、歩夢も、ハラハラした様子ながらも傍観するレンリも、目を見開いた。
「それに理不尽な環境はここだって同じだ。こんなおかしなコトに巻き込まれたせいで、まだ帰って来れないヤツらがいる。死んじまったヤツだっている。帰れてもその後の学園生活も人生もメチャクチャになったヤツだっている」
「だから? 巻き込まれたのはわたしだってそうだよ」
「けどお前は五体無事で生きてる。そいつらの命を全部背負えっていうわけじゃねーが、それでもカンタンに投げて良い生きる命じゃねぇんだよ」
「……うるさい……」
「ここに死んだ方が良かったヤツだの、代わりのきくオマケの誰かなんてのはいない。お前も含めてだ!」
「うるさい!」
歩夢は鳴を突き飛ばした。
腰が朽ちたデスクに激突する。その痛みで、おのれが熱していたことを自覚する。理性に立ち返る。
顔を伏せた歩夢の表情は鳴からは見えない。だが、初めて露わになった、足利歩夢の感情だった。
「なんで、今さら」
何かを言いかけた歩夢は、息を呑んで押しとどまった。
自分が言ったことの意味を、考えるように、そこが行き着く答えを、望まずして見出してしまったかのように。
そして、そのことに耐え切れなくなったかのように、踵を返して扉口へ駆けた。
「歩夢!」
レンリが制止の声をかける。
だがそれを振り切って、少女はドアに手をかけ外へ出る。
進む道がどこにつながるかさえ、知らないままに。




