(11)
足利歩夢は眠りにつく。
脱ぎ散らかした制服にくるまれて。
――地獄が見える。
放り投げたカバンを枕に。
――地獄を夢見ている。
学生として必要なもの、人間として不必要なものは数あれど、自分が欲しいと思えるものはないその部屋で。
――地獄の中で、剣の十字架の前で、自分は燃え落ちる。
痛みはない。悲しみもない。喜びもない。幸福もない。
欲しいものは、いつだって手に入らなかった。
自分が望みを言えば、周囲は、世界は、他者は、逆のものを歩夢に与えた。
家族であり続けて欲しいと願ったら、孤独を。
平穏な日常をと望めば、虐待と偏見を。
せめてその地獄の中で、一抹の理解を、一片でも感情の共有をしてくれる人を求めた。ただ一言、日常的にあいさつをかけてくれるだけで良かった。
友を、あるいは恋人を……神が与えたもうたのは、二、三言葉交わしただけの無関心な隣人だった。彼女は、ある時を境に……自分が本当に声をかけてほしい時に、姿を見せなくなった。
(だから、こうなるのかな)
夢の中で、ぼんやりと想う。
みずからを焼く業火の熱さも、世界の終焉も人類の死滅も。『侵略者』も上帝剣も、今となっては、何も感じない。疑うことも信じることもしない。ただ漠然とそれを受け入れ、やり過ごす。だから地獄さえも、自分を素通りしていく。
ただひとつ、その中で鳴く、異形の王だけが、自分の前に留まっている。
自分に唯一目を向ける存在にも、何も……何も。
ただ他人事のように、想った。
自分に気をかけてくれる相手にさえもう無関心なんて、とんでもない人でなしなんだな、と。
でも、自分とは、誰だ?
誰が思い描いた、心情だ?
目が覚めた。思考の途中で、覚めた。
そこにあるのはすっかり硬く冷たくなったベッドと、無数のゴミと、制服と、カバンと……それに背を向け壁に目を向け眠る、自分。
覚める直前まではこれが明晰夢だという自負があったが、今回は起きてみれば、大部分がすっぱり抜け落ちていた。具体的なヴィジョンを持っていた憶えはある。その具体的情景がひとつも浮かんでこない。
ただそれに対する思考の道筋だけがある。
ともかく、あまりいい気分でないのは確かだった。
水でも飲もうかと寝返りを打って立ち上がろうとした。だが、できなかった。本能的にストップがかかった。
入り口に、誰かが立っていた。長大な何者かが。
闇の中にぼんやりと浮かび上がる影法師の正体を、何故か確かめることはできなかった。それはそうだろう。夢の住人である自分であれば恐怖はないが、現実に忍び寄る恐怖には、今の自分は無抵抗だった。例の鍵とやらもそれを読み取るデバイスも、取り上げられていた。
だから、恐怖は恐怖のままに、受け入れるほかないのだ。
そう結論づけると、とりあえず震えは止まった。
だがいやがおうにも、聴覚に神経は集中する。足音が、人間のそれではない。鉄の軋むような音。それがフローリングに負荷をかけている音。本人は忍んでいるつもりだろうが、その図体で完全にかき消すことは不可能だった。
ゆったりとした歩速で、それは歩夢の背面近くに立った。
ジャラリと、鉄鎖の音を鳴らし、手を伸ばす。壁に浮かび上がるその影が、ホラー映画のようだった。
ここに至っては、自分にできることはただひとつだけ。
覚悟する。諦める。受け入れる。受け入れる。受け入れる。……受け入れろ。世界が命じる。
だが、次の瞬間に少女の背に触れたのは、人の手だった。
その指先は触れるか触れないか、起きないようにという微妙なタッチで、背から肩へ、首筋、髪へ。
その手が離れる直前、留まろうとした。だが、彼自身がそれを許さなかったようだ。ビクリとわずかに痙攣するや、慌てて引いた。
「ぎゃあっ!?」
捨てようと思って床に放置していたキャビネットの、思いっきり角を踏んだようだ。悲鳴が上がった。起こさぬようにという気遣い、台無しである。
すすり泣く声と足音が遠のいていく。小さくなっていく。ペタペタと、軽いものになっていく。
結局正体もこうした理由も確かめることもできず、夢か現かわからないままだった。
そうなると人間、厚かましさというか複雑さというか。何しに来たんだあのバカ、という怒りにほうが強くなっていた。
ただその怒りを抱えたままに目を閉じると、自分でも驚くぐらいに早く、睡魔に襲われた。
そして余計な夢など見ることなく、柔らかな闇の中で、身も心も休ませた。




