(8)
「おい、大丈夫かよ九音」
「だ、だいじょうぶ……ちょっと立ちくらみ」
「まーあんなトンデモ話聞かされりゃあ頭のひとつも痛くなるわな。でもお前、最近ますます頻度が……」
東棟のふたりを最後に、管理区長たちは軒並み旧校舎から退去した。次は、維ノ里士羽の番だった。
彼女が一番手近な校舎の入り口をくぐった瞬間、その校舎の屋上へと出た。退去の成り行きを見守っていた生徒会と自然、目線の高さが合った。
「征地さん、我々もそろそろ」
自分たちの出入り口を確保し、そう促す副会長に対し絵草は、
「先に行っててくれ」
と、視線を白衣の女に定めたままに言った。
氷の碧眼と、燃える橙光が、組み太刀のように絡み合う。
「……だけど」
賀来久詠は、女でさえたじろぐ美貌を交互に見やりながら、奥歯を噛んで食い下がる。
「良いから行け」
二度命令はしない、と言いたげな強い語気とともに、焔の生徒会長は副会長を視線だけで追い出した。
金属のきしむ音とともに鉄扉が閉ざされる。この異常な空間に取り残されたのは、正真正銘、絵草と士羽の二名だった。
「あぁいう大それた話なら、事前に私を通してほしかったのだがな」
絵草は本音と冗談を織り交ぜるようにして切り出した。
「貴女に?」
士羽は、笑った。絵草の前で、久しぶりに笑った。
だがそれは微笑みというにはあまりに暗く、あまりに敵意が根深いものだった。
「だからですよ。貴女を介するならば、情報は編集される。貴女にとって都合の良い上澄みだけが委員会へともたらされ、重要な部分は貴女が掌握する」
「当たり前だろう。情報統制なくして組織の運営など成り立つものか」
絵草は士羽の憶測にもとづく邪推を、そっくりそのまま肯定した。
「お前のやったことは、無責任に、いたずらに、彼らを混乱させただけに等しい愚行だ」
「ではこの現状が統御できているとでも? よく言って群雄割拠。もっと言えば、兵器が粗製乱造される戦場の直中でしょうに」
「なるほどな」
風が鳴る。両者の間を、冷たい風が吹きすさんでいた。
「まだ、あのことを根に持っている、というわけか」
あおられる白衣のポケットに片手を突っ込んだままに、士羽は横顔だけを、依然旧友へと向けたままだった。
彼女は珍しく感情的になっていた。だが、その情動の根源、自分たちの不和の大元となっているものは、ただその一点なのだろう。
「どうせ聞く耳持たんだろうが、私自身と剣ノ杜の名誉に賭けて何度でも言ってやる。――『ストロングホールダー』のメインシステムが多治比に漏れたのは、私のリークによるものではない」
「……」
「だが、現状の混乱をすべて否定する気も毛頭ない」
士羽はキッと絵草を睨み上げた。ブーツを叩き鳴らすようにして、絵草へと向き直った。
「考えてもみろ。征地や維ノ里だけで、あのシステムが何台用意できたと思う? いかに道理を説いたとて、メリットや見返りがなくば、見えもしない現象の調査への投資やホールダーの量産などに多治比も腰を入れなかっただろうに」
「で、その結果が戦場のケースモデルと化した学園の惨状。ゲーム感覚でホールダーを手にした桂騎などといった無法者の台頭ですか。本来一番に行き渡らなければならない『旧北棟』の配給率は、三割を切っている」
「旱魃で苦しむぐらいなら、嵐も洪水も許容すべきだ」
「それは高台にあって溺れる弱者を見下ろす人間のセリフですよ」
「だが水量は基準値に達した。今は堤を造っている最中だ。今回のお前の仕打ちは、ようやく収まりを見始めていた水を暴れさせたに過ぎん」
「傲慢な物言いですね。神になったつもりですか。それとも王か?」
「玉座に背を向けたのは、お前だ。お前が清濁を併せ飲んでその座についていれば、もっと早められたはずだった」
ふたりの論争は、どこまでいっても交わらぬ平行線のままだった。
そんなことは話しかける前に、いや一年前に決別してからずっと、わかっていたはずだったのに。
おのれの未練を、絵草は哂って首を振った。
――だが、それでも。
「士羽、戻って来い」
諦めきれず、といって素直に従うなどという期待は一片の期待も持てないままに、絵草は誘った。
「何をそんなに意固地になっている? 単身でこの学園や世界が救えるとでも思っているのか? 科学者にしては、ずいぶん感情的で非合理的だとは考えないのか」
士羽はふたたび踵を返した。もはやその碧眼には、感情の波は立っていない。
「貴女はいくつもの勘違いをしている」
剣に背を向け、向かいの校舎に背を向け、そして絵草に背を向ける。
柵の破れたあたりに足をかけた士羽は、抑揚なく答えた。
「ひとつ、私の目的は最初から真実の解明にある。世界や学園がどうなろうと知ったことではない。ひとつ、私がいずれにも与さないのは、遺恨からではなくその目的を果たすためには特定の派閥に在るとかえって不都合な点が多いから。そして最後にひとつ」
つらつらと理由を列挙していく士羽は、上半身を異界の外へと傾けていく。そして最後にこう言い放った。
「科学者ほど、非合理的で感情的な人種はいませんよ」
――果たしてそれは、自虐だったのか諧謔だったのか。
絵草が問い返す前に、白衣の少女は現実世界に戻るべく我が身を投じて消えた。
 




