(23)
そこは、学園内に、そしてその裏の位相に数多存在する彼女の拠点。彼女の居住空間、彼女のラボ、彼女の工廠、彼女の城、そして彼女の目。
本来何者もの侵入も介入も許さないその一つで彼女……維ノ里士羽は、剣ノ杜とその関連施設で起こる大半のことを把握できる。
だが逆に、今彼女の動揺を知る者は、ただの一人もいなかった。
多治比和矢に、合意の上で仕込んだ盗聴器。
そこ無作為に流れた会話、物音、そして情報。
それが一つの名で締めくくられた時、気づけば彼女はデスクに手をつき、器物を散らしながら立ち上がっていた。
だが、しばらく顔を上げることが出来なかった。
それは、衝撃の真実を知ったからではない。むしろその逆だった。
和矢が冷笑した通り、己はそのことに気づいていた。何のことのない、招待だった。筋道や情報の断片を繋ぎ合わせれば、かんたんにアタリがつけられたはずだった。
だがずっと目を無自覚に背けていた。
その事実を突きつけられたがための、衝撃だった。
そして翻って。
その意図に結びつく。それをあえて何のことはないと吐かし続けていた、カラスの。そして分からないフリをし続けてきた、秘めたる己の。
そしてその先にある推測は、極一点に繋がっている。
激情と冷酷さが、士羽の中に同居している。
一方では奥歯を噛み締め書類を握り潰し、その内では沈思する。
おそらく、採るべき手段はいくらでもあった。
それでも、清算として自分が選ぶのは、ただ一つなのだろう。
全てを、取りこぼしてしまうその前に。
〜〜〜
日が沈み、新たなる中庭で、『翔夜祭』。
後片付け半ばの無人の教室、その窓の向こう側で、電飾に囲まれ、学年学級、そして勢力間の垣根を超えて生徒や教師職員は踊る。
腹の底から楽しんで、戯れ、今日の、価値観の異なる出し物と、そこに至るまでの互いの学習見識や青春を冗談まじりに讃え合う。
そして何処かしらから借りてきたらしい流行り物の音源が響いて、欧米でもあるまいし、ダンスパートに入る。
あるいはその裏側に打算めいたものがあるにせよ、皆が晴れ晴れとした表情を浮かべている。
――レンリの世界では、この光景それ自体が存在しなかった。
『上帝剣』が墜落してきてから。
そして――桂騎習玄が殺害されてから。
清算の方法は、いくらでもあった。
その全てを取りこぼして何も果たせなかった己が、今更許されようとはどうしても思えない。
だからこの余生においては事が済めば全ての交わりを断って、独り消える気でいた。
だが、過去はまだまとわりついてくる。追いついてきた。
――六十億人ことごとくを殺してもなお、切り離すことができなかった。
「……痛い」
埋められぬ胸の傷が、激しく痛む。
「痛い。痛い痛いホントに痛い。ねぇ、止めて?」
……そして、断続的に手刀を連打される頭頂が、実際に痛む。
「あ、良かった。とうとう壊れたかと思った」
と、何ら悪びれる風もなく、正面に屈みこむ足利歩夢は言ってのけた。
未だ着替えずアイドル衣裳のまま、小首をかしげて見せる彼女に、思わずため息が零れる。
「往年のペッパー君の方が、もう少しマシな扱いだったと思うぞ……今、見るからにシリアスな雰囲気だったろ? 気を遣ってくれないかね」
「どーせ、過ぎたことでウダウダ悩んでたんでしょ? あんたが悩む度に見せてやるほど、わたしのプリティースマイルは安くないよ」
――度を過ぎた己惚れはともかく、彼女の推量は正しく鵠を射ている。
であればこそ、ますますこのカラスのあるかなしかの首は重く垂れるのだ。
「そうだな……あの時のお前の笑顔で、俺はとりあえず命を繋ぐことにした。ただそれはそれで、今まで見ないようにしてきたもの。見切りをつけてきたもの……あらためて、それらに向き合うことになって、俺は……あでっ!?」
「わたしのせいにしないでよ」
「し、してな……あでっあでっ!」
再び眉間に割と本気でチョップを叩き込まれ、泣きたくなったきた。
「あんたが何に悩んでいるかはともかく、下、見てみなよ」
そう促されるままに、組み上げられた机によじのぼり、あらためて見る。
どこぞから引っ張って来たらしい白景涼の腕をとる南部真月。
相も変わらず突っ走る深潼汀とそれに振り回される澤城灘。
色々思うところがあるのか目を細めてそれを見つめていたライカ・ステイレットの手を、見晴嶺児が掴み取って、その小柄な身体を浮かせて振り回す。
そんな彼らの下に、正気を取り戻したらしい多治比衣更が姉たちに伴われて、長い身体を畳むようにして謝罪にやって来た。
それを、ウーロン茶を手酌に花見大悟が眺めていて、賀来久詠に見咎められ神経質にどやしつけられながらこそこそと何処かに逃げていくさまが見えた。
「あいつらだって、明日にはそれぞれの生活が待ってる。それぞれの人生と向かい合わなくちゃならない。それぞれの戦いに行くことになる。その深刻さは、あんたに劣るようなものじゃないでしょ。中には、あんたと同じで世界を滅ぼすかどうかの瀬戸際にいる奴もいるかもしれない」
「滅多なこと言うなよ、縁起でもない……」
それでも、と。
歩夢はその輝きを背に浴びながら、カラスに告げる。
「みんな、楽しんでる。ここは、この一夜はそういう場所だから。そうでなくちゃならない場所だから」
そう、言葉に一抹の淀みさえなく、言ってのける。
「で、だよ。ここまでの流れを踏まえて、わたしにも乙女らしく悩みながら待っていることがあります。それは、なんでしょう」
おもむろに、クイズ形式でそんなことを切り出してくる歩夢に、レンリはつとめてロジカルにその意を汲み取ろうとする。
だが、あえて問うまでもないことだった。彼女がわざわざ説教をしにここまで来たとは思えない。彼女から差し伸ばされた掌は、少しだけ目線の下にいるレンリに向けられている。
外からの光で、教室の入り口から伸びる、腕組みした影が浮き彫りになる。
髪型からして、おそらくは的場鳴。
(このままあえて出て行ったら、それこそ殺されるな)
そう思ったカラスは、苦笑と共に自らの短い翼を歩夢に差し出した。
「踊ろうか、歩夢……少なくとも、この一瞬だけは」
「ん」
歩夢は、強く握り返した。
彼女は踊りをすでにマスターした、などと根拠なく自負していたが、所詮は一人用の付け焼刃である。
踏み外す、相手を巻き込み、ぶつかり合う。
だからこそ、型も作法もへったくれもなく、踊る。
二人は、夜灯に照らされた青春の一ページ、その傍らで踊り続ける。
朝日がのぼり、何が待ち受けるその合間で。
俺たちは、互いの鏡像だった。
右を行けば、あいつは左を向く。
上を見上げれば、下を向く。
前を向けば後ろに転じる。
だから互いを見ないで済んだ。
見ればすぐに気づけてしまうから。
だが、過去に追いつかれた俺が、足を止めて顧みた時――あいつは、取り返しのつかないところまで突き進んでしまっていた。
あいつらのように、何もかもを捨てて終わりのその時まで籠ることが出来ていたのなら、互いにどれほど救われただろうか。
次回『カガミの、迷宮』




