(8)
見たことのない鍵を、少女は自らの手錠に差し込んだ。
瞬間、見たこともない世界へと放り込まれた。
そして、多治比衣更は怪物と化した。
その事実のいずれをとっても、容易には飲み込めない事実だった。
胸の孔から荒々しい呼気を漏らすとともに、衣更であった車輪の怪人は再びの突入を敢行する。
再び。否。速さも威力も、初動からして人間であった頃とはまるで段違いの別物だ。
スポーツカーや新幹線を相手取って鬼ごっこでもしているようだ。
しかもその軌道は直線ではなく変幻自在の曲線。いや、曲直混合の乱雑な動きだ。
それを可能としているのは、脚部、くるぶしから先に位置する車輪が変形し、その回転をもって不安定な地面を常以上の加速を以て踏破する。
そしてその機動性にのみ留まらず、攻撃性も倍加する。
錆色の無骨な形状に変容した手になおも握りしめた鉄棒は、その機能を封じられているにも関わらず、光輪が幾重にも展開した。
数と勢いを増したそれらは攻防一体となって誰一人として寄せ付けず、かつそれぞれの寄せ手を逆に攻め立てる。
「ぐっ……! レイジッ、準備まだか!?」
「あ、ごめん。今組み立てる順番間違えてたのに気づいたわ」
「アホがぁぁぁ!!」
まるでキャンプ初心者がテント設営に四苦八苦しているが如くにまごつく嶺児を面罵しつつ、さりげなく彼をフォローする立ち位置に回る辺り、よほどに人が好い。
虚を突かれ、機先を制された一同の動きが精彩に欠くのもあって、戦局のウェイトは多治比衣更に大きく傾きつつある。
(あんなのでも、せめて戦闘に加わってさえくれれば、この空気も変えられそうなものを)
ゼロからやり直し始めた見晴嶺児に対し、呼吸を整えるついでため息をこぼしながら、士羽は杖を前方へと傾けた。
投槍を模したエネルギー体が三筋の閃光となって怪人の首筋を狙うが、そのいずれも、新たに生じた車輪が噛みつくがごとくに弾き飛ばす。時を経るごとに、その物量は数を増やしていく。
「また何か隠していることがあれば、正直に打ち明けてもらいたいんですがね」
「これに関してはないって、こんなの初めてだ! てかお前が言うなッ」
緊急回避的に歩夢から離脱し、たまたま脇に滑り込んで来たレンリに皮肉めいた問いかけをすると、不本意気に声を荒げて返す。
だがその碧眼は、凝らしてその尋常ならざる形態と光景に目線を絶えず配っている。
「――ただ、このレギオン体を通して感じることは……『旧校舎』の空気にどことなく似ている」
と、カラスはこぼす。
曖昧な見識。だが、一応の傾聴には値する偽らざる所感ではある。
「なるほど」
忌み嫌い合う仲ではあるが、軽く頷いた士羽は、自らの装備を絵草の置き土産から、本来の自身の『クレリック』へと換えた。
〈布告・グレード5・クレリック〉
衣更が変化に用いたのは、おそらくいずれのグレードにも属さない規格外品。
だがこの場合は、敵の能力を停止するホールダーの機能よりも『ユニット・キー』自体の特性にこそ用がある。
先端で異形の地面を小突くと、彼女の周囲から法塔であり砲塔たる円筒がせり上がる。
斉射。弾幕が少女たちの間を瞬く間に埋める。そのうちの何発かが有効打となって衣更に命中して仰け反らせた。
(やはり)
と士羽はこの空間が剣ノ杜の異界に近似する位相であるという、レンリの直感と己の見立てが当たっていた。その結果を我が目で確かめ、そして、
「戦力再編!」
鋭く声をあげて号令を飛ばす。
「ステイレットと鳴はそれぞれの射線に気を付けつつ散会して私と共に各車輪を牽制! 本体の攻撃は歩夢はいなす! レンリ、貴方も並行世界であってもストロングホールダー開発に携わった研究者なら、組み立て方ぐらいは解っているでしょう。戦力にならないのだから見晴の代わりにやりなさい」
それぞれに向かい来る脅威と対しつつ、学生たちの一瞥が士羽に集まる。
らしくない、とは士羽にも自覚はある。
だがただでさえ別方向を向いている三人娘と一羽に加え、つい先ごろまで敵だった男子ふたりの混成部隊。まとまりを著しく欠く中で叱咤できるのが士羽しかいない。
いやそれよりも、征地絵草消息不明の間、彼女の破壊的に巨大な穴を少しでも埋めなければという使命感が、己が心境にわずかながらの変化をもたらしたか。
とまれ、今は自己分析の余地などなかった。
ここにいるのは、いずれも歴戦。感情はともかく、経験で士羽の方針に理があることを察し、一言もなくそれに従って左右に散った。
互いに交わることなく、だが邪魔などはせず、それぞれの動きに多少の齟齬を生みつつも柔軟に挙動する。
そして、徐々に滑らかな連携が取れるようになった辺りで、
「……そう、そこでカチッと音が鳴るまで回すっ!」
「なるほど、こうでこうでこうか!? できた!」
というレンリの差配のもと、ようやく嶺児が体勢を整えて立ち上がった。
「できたよー、ライカさんできたよー!」
「知るかッ、遅い!」
どっちが本音が分からない調子で、怒鳴りつけたライカはしかし、大手を振って自らの長柄を掲げてみせる相方に、自らの鍵を抜き放ち、ノールックで投げ渡す。
〈電撃戦〉
準備の要領の悪さとは対照的に、何一つ惑うことなく嶺児は鍵を転用する。
瞬間、彼の得物の鋒先に、鳥のガジェットが展開された。
例えるならば、モノクロの雷鳥を民族的にデフォルメしたかのような、特徴的な形状の。
そのクチバシや翼の隙間から黒雲が吹き上げ、細長くその身を伸ばしながら網のように周囲を駆け巡り、車輪たちを絡めとる。
〈ブリッツ・ライトニング・チャージ!〉
必殺を宣言う大音声に刺激されるが如く、雷鳥は啼く。総身から迸る白い電光は連なる黒い雲を通して車輪に流し込まれ、破砕する。
――それが、反撃の狼煙だった。
「メイ!」
〈ダガー〉
〈リベリオン〉
ライカが鋭く声をあげる。諮らずとも、換装した鍵でもってライカの意図するところを読んだ鳴が、ぞんざいなようで、だが確かな手捌きで弓を衣更と、そしてその先のライカ目掛けて射出した。
〈ライト・シューター・ボレー・チャージ〉
光の斉射が車輪とその主人を穿つ。
その流れ弾をライカは弾き、吸い上げ、我が物とする。寄り集めてダガーに換えたそれらでもって、あらためて挟み込んで攻め立てる。
だが、それでもなお、異形と化した少女を討つことは能わず。
それで良い。元より彼女自身を害することが目的ではない。車輪の数を減らし、歩夢が準備をするだけの時と間合いを稼ぐため。
〈ソードマスター・スラッシュ・チャージ〉
腰の鍵を回した歩夢は、ホールダー付属の短銃を抜き放ち、飛び退きながら真正面の衣更へとトリガーを弾く。
奇異なことに、弾丸は直線には飛ばない。銃口から放たれた閃光は四方に散ってダイレクトに車輪の怪物を襲うことはなかった。
不発。否、弾丸それ自体が攻撃手段ではない。
それは、剣閃ならぬ、弾閃。
乱雑に描いた軌道がそのまま熱線と変化し、空間ごとに焼き切りながら迫り出し、激しく怪人の総身に叩きつけられた。
「おのれ……足利歩夢、維ノ里士羽!」
悶絶と共に転がり、呻きながらも多治比衣更は両名の名を繰り返す。万代に渡る呪詛を掛けるような憎念を込めて。
その怨讐の理由を探る。知らねば、繙かなければならない気がする。そのために、トドメの一撃をもって無力化するべく、士羽は後方支援者の姿勢を捨てて前へと進み出た。
太陽が、異空に閃いたのはその間際だった。
否、太陽光がこの煉獄に届くべくもない。だが次元を突き抜け飛来したのは、それに匹敵する熱量と圧。
それが現世とこの幽世の隔絶を打ち砕いた。
その眩さ、熱さに士羽たちが一瞬、だが不可抗的に目を瞑った合間に、その異形の世界も多治比衣更も消えていて、人気を失った天下の往来に、彼女たちは放り出されていた。
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――多治比衣更とはまた異なる怪人が、商店の屋根より士羽たちを見下している。
その姿の異質さは、むろん衣更の形態とは比べるべくもないものの、私立高校のブレザーとコートの上から、十字のバイザーが特徴的なフルフェイスのヘルメットで頭部を覆った女を、一般人とは到底呼べまい。
外部より異界の殻を打ち砕いた彼女は、それを成したクレイモアを血ぶるいのように振り抜いた。
その動作の終わりに合わせ、剣はその手から空気中へ分解されて消失した。
一体何が自分たちに、そして多治比の次女に起こったのか。
一切の理解が及ばず惑う少女たちを捨て置き、ヘルメットの女は、擦り切れたスカートの裾を翻したのだった。