(11)
それがいつ頃のことだったかはすぐには思い出せないが、エピソード的な記憶ははっきりと刻み付けられている。
――そう、父親と母親がいつまとめて死んだかは覚えていない。大事なのは、その告別式でのことだ。
その死顔さえ、本当に彼ら自身だったのかさえ定かではない、縁遠い両親だった。
が、隣にいる伴侶に拘わらず自身の研究に没頭する、とさえ言われていた偏屈な人達であったらしいところは、いかにも血のつながりを感じる。
そして生と死によって永遠に分かたれたその親子はしかして、一括して奇異の目で見られ、囁かれた。
「……気味が悪い。あの子泣きもしないしずっと黙りこくったままよ」
「なんか別辞もよそよそしかったし」
「まぁ滅多に家にいなかったらしいし。親も子も」
「じゃああの子どうしてたの、ていうかこれからどうなるの」
「なんか本家の……えーっと、時なんとかってのが本家でそっちが後見してたみたいだけど」
「じゃあ引き取り手で揉める必要もなくて安心だな」
「まぁそれはそれで上手くいきすぎて薄気味悪いけど」
「親も親なら、子も子で不気味か」
……聴こえないだろうと、聴こえていてもどうせ大した繋がりもないから遺恨にもならないとタカをくくった、弔問客たちの節操のない囁き声。
別に怒りはない。たかが遺伝子で繋がった関係というだけで、その性質に類似点を見出そうと躍起になる。自分たちの人生に無意味な推理ごっこに熱を上げる。それが凡百の大衆の好むところで、耳を傾けるのに値しないとよく弁えている。
もっとも、今の自分が親の死に何の感慨も浮かべていない、というのは当たっていたが。
――孤高で良い。
――孤独が良い。
打算にまみれた、穢らわしい大人たちに諂いの笑みを向けられるぐらいなら。
天は、そうした彼女の気丈さを汲まずして、葬式という場の空気を読んだようだ。
気象予報上は半々といった確率だった雨が降り始め、外の地べたに黒ずんだ染みを作りやがて帳を作るほどになった。
これは幸いと、帰る名目を得た客人たちは焼香を済ませた者から足早に帰っていく。
雨の中立つ娘を不気味げに見やりながら。
どうせ労わる価値などない。重宝されるべきは頭脳や手先であって、肉体ではない。
水槽に浮かべられた脳髄が彼女であったとしても、その思考パターンがインプットされた演算装置に置換されていただけだとしても、自分を亡き瑠衣の代替物の一つとして保護した時州の人間たちにはどうでも良いことなのだろう。
(本当に気遣う者など、気にかけて欲しい人間など、生まれた時からどこにでもいなかった)
――そう思い定めかけていた、矢先だった。
彼女の頭上を、一筋の陰が覆った。
いかにも父親のを勝手に借りてきましたという濡れ羽色の傘。現れた少女は、精一杯背を伸ばして高さを年上の彼女に合わせ、
「濡れちゃうよ?」
と声をかけ――あどけなく笑った。
おそらくは少女にとっては、自分が喪主だとは露知らず、
「ただ濡れて可哀想だな」
程度の幼稚な感慨からの施しだったのだろう。
それでも、いや――きっと理屈や経緯などどうでもよくて。
その等身大で精一杯の慈悲が、差し出された一本の傘が、始まりだった。
あの時に嘘偽りなく向けられた無垢な微笑みこそが、すべてとなった。
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軽い物音が鳴った時、士羽の断片的かつ衝動的な追憶は中断された。
占領している保健室のデスクに目を落とせば、茶色いパッケージのカップアイスが保険医の手によって置かれていた。
「割引だからって大量に買い過ぎた。消費手伝ってくれ」
と、悔いを口にする花見大悟自身の手にも、同様のアイスとスプーンが握られている。
「アイスクリームに賞味期限はありませんよ。自分で時間をかけて消費してください」
「アイスに賞味期限が無かろうとも、数か月先に自分が食える保証などどこにもないだろう。とりわけ、この学園においてはな」
と言うあたりに、彼の悲観的、というよりも虚無的な人生観が良く顕れている気がする。
「だいたい、『ほうじ茶味』って……コーヒーに合うフレーバーではないでしょうに」
マグカップに入ったエスプレッソを波打たせながら、呆れて見せる。
「アイスで思い出したが、白景涼はどうした? 負傷はお前が癒しただろうが、疲弊したまま帰したのか?」
「南部真月の家に預かってもらっています……送り届けた私は思い切りビンタと難詰をされましたがね」
ははぁ、と曰くありげに花見は瞼を半ば下ろす。その眼にはきっと、未だ腫れの引かないか細い少女がいたことだろう。
「相変わらず頼まれもしないのに、損な役回りをするものだ」
「私を悪人にすることで、皆が円満だというのならすれば良い」
「『ユニット・キー』システム開発者兼『委員会』の発足者が、ずいぶんな卑屈さだな」
……よく勘違いされがちだが。
士羽は己が誰よりも優れている、などと考えたことはない。そのシステムにしても、本物の天才が遺したアイデアをサルベージして流用しているに過ぎない。『委員会』にしても、絵草が結局作り出すことになっただろう。
自分は、何処にでもいるような幼稚で低俗なガキ。
大人に良いように扱われて、ようやくその事実に気づかされた。
「――で、その卑屈なパイオニア殿に朗報だ……お前の後釜、さっき例のカラスを確保したぞ」
「絵草が? その情報は、どこから」
「本人が各所に通達を出した。手柄を自慢したいのか、あるいはあえて触れ回ることで不穏分子をいぶり出すのが目的か」
「後者であれば、あの致命的に頭の悪い女、ようやく髪の毛一本程度のマキャベリズムは理解できるだけの知性を獲得したというわけですか」
「……お前ら、本当に元は友達だったんだよな?」
花見は呆れたように問う。続けて問い続ける。
「で、お前はどう動く?」
「どうもしませんよ。あんな怪物が待ち受けていると承知で、行く馬鹿がどこにいるんです」
「お前のお友達とかな」
「まさか」
士羽は一笑に付した。
相手が世界を滅ぼした怪物と知りながらなお救いに行くほどに、歩夢は愚かではないだろう、と。
……しかし、その否定の早さは楽観と願望の裏返しだろう。
もし万が一、足利歩夢がそうするつもりなら、どうする?
身を挺してその無謀を止めるか。それとも、歩夢を護るべく再びあの絵草と対峙するのか。勝算も立てられないままに感情に身を任せて。
『あんたの思い通りに動くのは、いや』
……かつてとはまるで違う笑みとともに、そう言い放って自分の善意を拒絶してきた彼女を。
口を紡いで塞いで、さらに深く椅子に腰掛ける。
「なぁ、維ノ里」
自身の定位置を奪われた花見大悟は、ベッドへと腰掛けた。アイスの冷たさを持て余すように手のひらで遊ばせながら、
「若いうちの懊悩は、動いた方が大凡は正解だ。躊躇いがあるなら、それは動きたいという意志の顕れでもある」
と言った。
「貴方にしては珍しく、分別くさい物言いをするではありませんか」
「そうだな。たまには僕も、教師じみたことをしたくなるし、大人らしく振る舞いたくもなる……自分というものを、出したくなる。そしてえてしてその手の話は本人の成功談もしくは失敗談へとつながる」
今まさに自分が言わんしている話を他人事のように語る花見に、士羽は呆れる。そもそも、体験談が成否のいずれかに分かれるのは当たり前ではないか。
「では、貴方はどのような『失敗』してきたことを説諭してくれるつもりですか」
「失敗も成功もしてこなかった」
士羽の揶揄への答えは、意外なものだった。
「何も行動を起こさなかった。人生を変えるような何者とも出会えず、他人に言われるままに流されてきた。だからこそ僕は、つまらない人間と君に見なされている。それこそが、僕の……失敗だ」
これと似たような話を、士羽は先頃に聞いている。
曰く、レンリの世界の『維ノ里士羽』は、世界の破滅に何もしなかった、と。
手前勝手な傷心を抱え、仲間や人類が死に絶えるのを傍観していたと。
それと同じ轍に沿って進むのか、自分は。
「お前には、僕の人生にはなかった出会いがあったんだろう。だったらそれを大切にするべきなんじゃないのか」
と締めくくった花見が想起している『出会い』とは、おそらくはこの学園の中央に突き立ったあの剣のことを言っているのだろう。
たしかにあれは自分たちのその後を一変させた。自身の無力さを教えてくれた。
だが、目を伏せた士羽が想うのは、ただひとりの少女の笑みだ。
過日の冷笑とは違う。剣が振るより前に自分が運命を感じたのは、あどけない笑みだ。あの微笑が、差し出された一本があれば良い。それ以上は何も望まない。見返りなど求めない。彼女の苦衷を察し得なかった自分に、そんな価値はない。
ただ歩夢にもあったその出会いのために、彼女が歩み出すというのであれば、その路傍の石を除く。
……たとえその出会いの対象が、自分ではなく、己自身に匹敵するほど反吐の出る怪物であったとしても。
「あぁ、あとそれ、きちんと食ってくれよ。今さら冷凍庫に戻すことも出来ないだろう」
ひどく俗っぽい言い草とともに、花見は士羽の掌中の氷菓を示した。
どれほどの煩悶とそれに伴う時間があったのか。カップごとに柔らかくなったアイスを、士羽は平らげ、冷えた胃の腑をぬるい珈琲で温め直した。




