(6)
あの後、自分が何を考え、どうやって帰ったのか。
歩夢には判然としない。まさしく夢現の心地で気付けば自宅のカーペットの上で寝そべっていた。
一応は寝巻きに着替えてこそいたが、制服は脱ぎ散らかしていた。シャワーぐらいは浴びていたのだろう。が、乾かさずにそのまま臥したものだから、癖毛になり放題のボサボサである。
……などと事件現場の探偵よろしく自身の状況を整理した歩夢は、次に自身を眠りの淵から呼び起こした原因が、カーテンから差し込む朝日と外で鳴りづめのチャイムだと知った。
昨日の今日である。そして、いつもであれば当然、まして早朝に来客などあろうはずもない。
逆恨みからのライカ一党や会長一派の来襲を警戒して、普段は使わない室内カメラでドア向こうの様子を探る。
そこには人影らしいものはない。
だが、その画面の片隅にちらつく黒い球体を認めた瞬間、知れず歩夢はドアを開けて外へと身を乗り出した。
そこにいたのは、カメラの死角から黒い毛糸玉をチラつかせていた的場鳴であった。
その掛け値無しに無機物のそれと上級生の不遜な顔つきと胸とを交互に無言で見遣っていた歩夢であったが、その半開きの口にツナ味のランチパックが捩じ込まれ、取り込まれた制服や下着は段取り良く準備されていたスポーツバッグに詰め込まれ、そして自身は小脇に抱えられる。
その所要時間、実に一分足らず。
あらん限りに抗議する歩夢の目線を露骨に無視し、
「よし、学校行くぞ」
と何の臆面もなく家を出たのだった。
〜〜〜
行きがけの多目的トイレで着替えをさせてから、予防注射のペットよろしく逃げようとするところを再び確保され、そしてまた小脇に抱えられて登校させられる。
行き交う人々に奇異の眼差しで見られようとも羞恥もない。今更抵抗もしない。それでも精一杯の嫌がらせとして、歩夢は鳴のクーパー靭帯を執拗に貫手で攻め続けた。
さしてダメージがあるような素振りを見せなかったが、それでも痛みはそれなりにあるらしく、
「……振り落とすぞ、お前」
と脅しつけてきた。
「良いから、学校にだけは出とけよ」
「連れてってくれだなんて頼んでない」
「あたしは頼まれた。あの鳥にな」
「だから?」
返しつつ、歩夢は自身の足で立ち上がって歩き出す。
一度顧みると、鳴は呆れたように肩をすくめ、
「お前、さっきの玄関口の対応の時もそうだったけど、たいがいにめんどくさいけど分かりやすいよな」
ため息まじりに毒づく。
ここで引き返せば、それこそムキになった子どものようだった。
代わりに登校しつつ
「前は、こんなんじゃなかった」
と小さくぼやく。
「前のわたしは、早見さんチックな声質がよく似合うような、ミステリアスでクールな美少女だった」
「その根拠不明に図々しく肥大化した自信は、割と元からだった気もするけどな」
その隣に、身軽になった鳴が並んで歩いた。
自身のパーソナルスペースが侵されたことに睨み上げる歩夢に、その上級生は言った。
「そして前の足利歩夢なら、学校に行けと言われれば自分の感情なんぞ挟まずすんなり受け入れただろうし、今みたく自分で立って歩き出すなんてことはしなかったけどな」
氷の壁にでも行き当たったかのように反射的に、その歩みを止める。
そんな彼女の様子とはお構いなく、鳴の方はずんずんとスポーツバッグを背負って坂道を登っていく。
呼吸も乱さず確かな足取りで進んでいく彼女は、まるで遍路を往く修験者のようだ。
「あんたもね」
そのペースを乱してやりたくなった歩夢は少し意地の悪いことをぶつけてみた。
「前だったら、説教がましいことは言ったけどここまで踏み込んではこなかった」
「……だな」
鳴はあっさりと歩夢の指摘を受け入れた。
「誰かが手に入れられなかった健康や時間をためらいなく浪費する。そんなお前のことが、嫌いだった。けど、事あるごとに例のあいつが頼む頼むと口やかましいから、ついつい世話役が身についちまった」
「だから、わたしの方は頼んでないって」
「本当にそうか?」
試すような遠い眼差し。気に入らない。だが、確かな反論とできるような武器はない。何を言っても意地の張りになるだけだ。
「変わったんだよ。お前もあたしも。良くも悪くも。あいつを始め、おかしな連中と出会ったばかりにな」
その細められた笑みは自嘲するようでいて、どこか楽しげで、誇らしげでもある。
駄作と断じながらもどこか楽し気にZ級をレビューするかのように、自分たちの軌跡を振り返っている。
「そして、もう元の自分には戻れない。何かを得たならその事実そのものはなかったことには出来ないし、喪ったものは戻って来ない……その中で立ち止まれば、置いてけぼりを喰らうだけだぞ」
そう歩夢に伝えた時にはもう、鳴の背は遠のき始めていた。
また、意地を張る。足を速め、彼女に追いつき、追い抜く。
「……そういうのが説教くさいっての」
歩夢が悪態をつくと鳴は追い抜きざま、はにかむように歯を見せたのだった。




