番外編:重き、ヨスガ
「ハーイ、ネコカブリ」
授業後の新北棟。まだ新築の生乾きの木材のような匂いがかすかに残るその廊下にて、ライカ・ステイレットは同じ留学生のカルーア・マルクスに声をかけられた。
振り返れば、クラスメイトの西洋人はブルーの瞳を揶揄に歪ませて、薄い唇を歪めていた。
「そう、お前のことだよ、ネコカブリ。日本の諺ではお前のように周りに良い顔する性悪をそう言うんだとよ」
悪意たっぷりにそう言う彼は、ずいと顔を寄せて探るような目つきで言った。
本邦の人々のコンプレックスもあるのだろうが、持て囃されるだけはある美男子であり、またそれが故の自信とプライドの高さもそこからは滲み出ている。
「気付いてないとでも思ったのか『お嬢さん』? 言えよ、そのナヨナヨした風体の裏っ側に、なに隠してる?」
恫喝と難詰を織り交ぜて言うに対し、
「オマエこそ」
ライカは取り澄ました物言いとともに自身のスマホをポケットより抜き出した。
「高校デビューしたいなら隠キャ時代のアカウントぐらいなんとかしてからにしろよ。と言うか一人コスプレ大会でする格好がパニッシャーって」
「のおおおぁぁぁぁぁ!?」
さっきまでの余裕から一転、自身のTwitterの画面が映る端末を慌てて取り上げようとする。だが、自分の携帯を破壊されることを承知で容易に渡す馬鹿も、恥部を晒された相手がどういう行動に出るか読んでいない馬鹿もいない。
ヒョイとそれを身軽かつ最低限の動作にてかわし、ひたすらに相手の消耗と諦めを待った。
「てめっ……どっからそれを! やっぱかぶってやがったな、ネコ!」
だがそれがいけなかったようだ。ついには直接的な暴力に訴え出ようと拳を振り上げたカルーアだったが、
「おーい、おーい! ライカさーん!」
学校指定のリュックサックを背負って手を振る男の、気抜けするほど間延びした声がその緊迫の瞬間を差し止めた。
この学園内において、銀髪の留学生をそんなフランクな呼び方で止めるのは、ただ一人しかいない。
普通科二年、見晴嶺児である。
しつけのなっていない大型犬よろしく駆け寄ってきた彼の、カルーアから見ても相当な図体に圧倒されて、後退り。
「お……」
「え?」
「覚えてろよーっ!」
そして振り上げた腕は涙を覆うために用いながら、猛烈な勢いでUターンしていった。
無用な諍いを、さほど労力も必要とせず回避できたことを、ひとまずライカは安堵した。
「お前のデカい図体と声も、たまには役に立つな」
「えーと、それ褒めてる?」
「褒めてるよ。今回はな」
わーい、と両手を掲げて無邪気に喜ぶ嶺児。その単純な思考回路に呆れつつ横を抜けようとすると、さもそれが当たり前のように追従してくる。
「いや、会話の内容までは分かんねーけどさ。ダメだよ、仲良くしなきゃ」
「知るか。向こうが勝手に突っかかってくるんだよ。あいつの親父の会社、ここへの参入を狙ってるからな。俺の事を同類かなんかだと疑ってて、それでああして挑発かけて内情探ろうってハラなんだよ」
首をすぼめながら言ったライカの手には、U字型のユニットが握られていた。
「……多分こいつのことまでは、知られてはいないだろうけどな」
「なんなんだろうね、それ」
「さぁ」
嶺児は適当にあしらいつつも、ライカは知っている。
『ユニオン・ユニット』
その名もごとく、結び合わせるもの。
機能に限った話ではない。
それこそ嶺児。あるいは多治比和矢。そしてここから先、真実へ到るための縁。
あるいはそれは呪いであるのかもしれない、とふとライカは思った。
過るのは耐え難い苦痛。ベッドに束縛された我が身。揺らぐ視界の片隅でたなびく包帯。幻肢痛にも似た狂おしくもどかしい喪失感と虚無感。
ひとりの少年から差し伸べられた地獄へと誘う手。
きっとロクな結末なんて、この先には待ってはいない。
それでも、握り続けて前進することしか、今の自分にはないのだときつく言い聞かせる。
ライカ切羽詰まったような横顔を、嶺児はじっと見守っていた。
だがやおらその細腕を掴むと、ぐっと身をかがめて顔を寄せた。
「な、なんだよ」
いつもならカルーア同様、ひらりと避けてこんな馴れ馴れしい触らせ方はしないし、狼狽も見せなかった。自分の内に埋没し過ぎていたようだ。
真剣そのものといった感じで唇を引き締めていた少年は、
「ライカさん、ウチ遊びに来ない!?」
「……ハイ?」
……男子高校生にはまぁあり得るセリフを、非日常的なまでに緊迫感あふれる面持ちで告げたのだった。
〜〜〜
見晴嶺児の家を訪れるのは、今日が初めてのことではなかった。
いつだったかも、今のように腕を引かれて連れて来られた。
もっとも、その趣は一般的住宅とは多少異なっている。
一軒家には違いないのだが、そのうちの大部分の区画は開放されて湯気が充満し、味噌と魚介出汁の匂いが立つ。掲げているのは表札ではなく、『麺房みはらし亭』なる屋号。
家族以外の人間がそれなりに入ったカウンターの奥、調理場に立つバンダナ姿の、ややシャープな目元を持つ女性が、嶺児たちの姿を認めるなり「はいらっしゃ」と声をあげかけ、それが息子の姿だと知るや顔をしかめた。
「ちょっと、客じゃないんだからこっちから入って来ないでよ」
「るっせ、ババア。客だっつの、お客さん」
と、嶺児。
ライカに対するものとはまるで違う、ラフなリアクションで母である舞依に応じ、その巨躯の裏からライカは顔を覗かせて頭を下げた。
「あら、ライカ! いらっしゃい!」
「……どうも」
「ごめんね、ちょっと混んでるけど、奥の座敷空いてるからそこ使って?」
と、舞依はごく自然体でこの銀髪の外国人に応じると、座敷の方を手で示した。
それに倣って二人がそちらへ行きかけたところに、嶺児だけが舞依に捕まえられた。
「まぁちょうど良かった。あんた、ちょっと買い出し行って来て?」
「はぁ~? マジかよ、だからオレら客だっつてんじゃねーかよ」
嶺児は難色を示した。
「あんたは違うでしょ」
「違わねぇ。オレにはライカさんとまっずいラーメン食ってスマブラするっつー大事な用があんの」
「そうなの、ライカ?」
「いえ、全然。俺は飯食いに来ただけですから」
「えぇ~!? ひっどい、そこはハナシ合わせてよ、ライカさあーん」
シナを作って上体にもたれかかってくる嶺児を、今度こそライカはきっちりといなして跳ね除け、冷ややかな目線を呉れてやった。
「……ネコかぶってんのはコイツの方だよな。どう考えても」
「え、え、なんのコト?」
「なんか俺にだけ『さん付け』だし、キャラ違うし」
「なんかよくわかんないけど、ホラそこはオレ、ライカさんのことはマジで齢とか身長とか関係なくリスペクトしてるから……あ」
「なんだよ」
嬉しげにはにかんだ後、嶺児が
「ライカさん、ひょっとして距離感じて寂しかった?」
と己惚れた気持ち悪いことを抜かしたので、ライカはその爪先の、特に神経の集中しているであろう部位を思い切り踏みつけてやった。
「あだぁ!?」
「バカなこと言ってないでさっさと行けっ! マイさんが困ってるだろうが!」
と何故か他人の母親を助けるためにその息子の方真っ赤になって怒鳴りつけるという奇妙な構図となり、キッチンに取り付けられていたメモ用紙を額に貼り直された嶺児はキョンシーのようになって不貞腐れながら買い物へと出掛けていったのだった。
そうして通された奥の間でしばらくぼんやりとしている。
注文してからだいぶ経つが、それは慣例のうえ承知のことだ。
ある程度客を捌いてから、初めてライカの分が回ってくる。息子の言動は差し置いても、彼の学費のためにひとり店を切り盛りし、かつ自分のような余所者にもよくしてくれている真依へ、せめて迷惑にならないようにと、ライカ自身がのぞんで望んでの配慮だった。
(まぁ、無理矢理に連れてこられただけで晩飯にもまだ早いしな)
などと考えているうちに、注文していた味噌ラーメンが運ばれてきた。
「ハーイ、お待ちどうさま。ごめんね、こんな日にばっかり客入り良くてね」
「あぁいえ、大丈夫です。こっちが押しかけちゃっただけですから」
この謙虚さは、嘘やネコカブリではない、とライカ自身はそう信じたかった。
目の前に置かれたラーメンは、洋の東西を問わず野菜を煮込み、あるいは鶏そぼろとともに炒めて盛り付け、それなりにボリュームがありながらもよくまとまっている。
「どう? 美味しい?」
客も一通り捌き終えて手が空いたのか、そのまま真依は居座った。
「美味しいです」
そう問われ、不味いと答える者はよほど肝が太いだろう。
だが、この場合は一口食べたライカの、正直な感想だった。
味噌の裏に隠れがちだが、根菜をふんだんにダシに用いたスープは、どことなく故郷のエッセンスも感じさせて舌に合った。
「これを不味いとか言うレイジは、味音痴かとんだ親不孝モンですよ」
麺を箸でたぐりながらそう零すと、我が子のことを言われているにも関わらず、舞依は噴き出した。
「ごめん、あはは! よその国の美少年が達者な日本語と箸使いで『親不孝モン』て!」
「すみません。息子さんのことそんな風に言っちゃって」
「良いの良いの! しっかしホント日本語上手いわね。麺も気持ちよく音たてて啜ってくれるし」
「一応叩き込まれましたしね。長く腰を据えることになるからって」
「それは……今嶺児が手伝ってるって、何かのこと?」
――喋り過ぎた。
やはり今日は、我ながらどこか油断が目立つ。
「……すみません」
その秘事を打ち明けられないこと。首を突っ込んだのは嶺児とは言え危険なことに一人息子を関与させてしまっていること、二重の意味を、ライカは一言の謝罪に込めた。
「良いわよ、無理に言わなくて。むしろ、感謝してるくらいだから」
返ってきたのは、意外な、だがある種舞依らしいさっぱりとしたリアクションだった。
「あれでもアンタと会ってから、だいぶ丸くなってくれたしね」
「そうなんですか?」
「そうよー、それこそ手伝いなんてとんでもない。触る者すべて傷つける孤高のロンリーウルフだったんだから」
(……それだと二重表現だよ)
いずれにせよ、今の馴れ馴れしい嶺児からは想像もつかない。
「だから、ウソじゃないよ」
「え?」
「さっきのあいつの言ったこと。本当にあんたのことを尊敬してるんだけど、マトモに人付き合いなんてしたことなかっただろうし、尊敬できるような大人に出逢ってこなかったから、距離感が掴めてないのよ」
そう言うと、嶺児の母は少し寂し気に目を細めた。
「嶺児、アンタを初めて連れてきた時に言ってたわ。『初めてオレより強くてでっかい人に出会えた』ってね。それが久々の親子の会話」
「……」
「あと、こうも言っていた。『強くて、でっかくて……でも、時にはそれ以上の荷物を独りで背負っちまう人。だから、オレがその荷物のいくつかを肩代わりできねーかなって。持て余していたこの図体が、初めて、使ってほしい人の役に立つのならこれほど嬉しいこともないよ』ってね」
知っている。判っている。容易に想像がつく。
その時の晴れがましく吊り上がる唇も。そのくせ困ったような下がり眉ではにかみも。
決して、見向きもされないくせに。冷たくあしらってやるのがせいぜいなのに。
馬鹿みたいな献身を止めもしない。
「ライカ、アンタが何を想い詰めてこの国まで来て、何をしようとしてんのかはあえて訊かない。でもあんなヤツでも、肩が少し軽くなるなら少しぐらいは頼ってあげたら良いんじゃない? あのバカ息子だって、それを言いたいがために今日もその前も、ここに連れてきたんじゃないかな」
それだけ。そう短く言い切って、舞依は席を立った。
おそらくはその『それだけ』のために彼女は、息子を不要不急の買い出しに行かせ、かつ自身とライカとの語らいの場を設けたのだろう。
いよいよ本格的なディナータイムに入り、ふたたび客の出入りが多くなる。
その間に、厄介な少年がうるさく駆け寄ってくる前に、食べ終えたライカも暇乞いすることにした。
カロリーを摂取して身体が熱を持ったせいか。
秋も初めの口だというのに、店を出て外気にさらされた肌は心なしか寒く感じる。
「――なにが、肩代わりだ」
その帰途にあってライカは、きゅっと唇を引き結び、深く項垂れた。
「むしろ余計な重荷なんだっての。でかい身体で寄りかかってきやがって」
そう毒づいた少年は、異国の夕空の下、目元を袖口で拭い上げると足を速めた。
そしてその数日後、ライカ・ステイレットは盟友多治比和矢から、互いの目的達成がため、事態を進展させる旨の通達を受けたのだった。