(14)
つい先頃まで余裕をもって全面的な優勢を静観していた賀来久詠ではあったが、一転して今は乱入者たちの登場に当惑し、取り乱していた。
「南洋の連中に、白景涼まで……っ!? ちょっとどうなってんのよ! 多治比、貴方ちゃんと」
と顧みた時、すでに少年はその地点にいなかった。
目を離したのは眼下と対向を見回したほんの一分前後。だがそこには一片の痕跡や一抹の影さえ見当たらず、
「ふ……ふ」
その徹底ぶりがなおさらに久詠の怒りを煽り立てた。
「っっざけんじゃないわよ!!」
彼女はその感情に足を任せて駆け出した。
その逃走ルートを推察し、かつそれに回り込む形で追いつかんとする。
頭隠してなんとやら。
廊下の曲がり角より伸びる人影を、彼女は認めた。
顔面に嘲笑と怒り、両面を浮かべた彼女は勢いのままに、その影の下へと飛び込んだ。
「見つけたわよ! 逃げ打とうったってそうはいかな……」
と同時に、絶句もした。
そこにいたのは、多治比和矢ではなかった。怪物でもなかった。
いや、そうであったらどれほどに救われていただろうか。
だがそれよりは小柄なその正体が網膜に映り込んだ瞬間、瞬きや呼吸の仕方を忘れた。数秒、心臓さえ止まっていたような気さえする。
「……やぁ、妙なタイミングで妙なところで会うな。『副会長』」
凡そ生物として欠かすべからざる機能の一切を放棄して固まる久詠に、その少女はうっすらと微笑んだ。
〜〜〜
歩夢は、逃走の最中にあって自分の狼狽を冷徹に認めていた。
矛盾する表現ではあったが、そうとしか例えようがなかった。
実際、即時の判断力の下に退路を選んでこそいるものの、常に自分が迂回路を意図せず
こんな肝心時こそ、このカラスは役立つべきなのに、歩夢の腕の中で凍り固まったまま身じろぎしない。
良い加減痺れを切らした。腕も、堪忍袋も限界だった。
いい加減放り出して単身逃げだそうかとした矢先に、
「『リベリオン』だ、あれは……相手のエネルギーの余剰余波を吸い上げ、我が物とする」
ようやくにして、レンリは言葉を苦痛の音韻を伴って紡いだ。
「……俺の、『ユニット・キー』とホールダーだ」
え、と歩夢は立ち止まってレンリを見た。
その精神的かつ物理的な停滞と間隙を縫うようにして、横合いの窓が蹴破られた。
ガラス片の隙間を、紫電が駆け巡る。
彼女らのいるどこぞの物置部屋へと踊り込んできた美少年、ライカは踏み抜いた窓のフレームを爪先で引っ掛けて、歩夢に向かって飛ばした。
胸へと叩きつけられた歩夢は肋骨に衝撃を受けて昏倒し、そのままライカの足と窓の枠組みで肺を圧迫された。レンリもまた巻き込まれて、一様に苦悶の声をあげる。
思えば、死地はあっても敵の攻めでここまで苦痛を与えられることはなかったはずだ。
「ようやく、追いついたぞ……!」
肩を上下させるほどの疲労と、白い肌をわずかに紅く色づかせる大小の手傷とに、澤城灘と、あとついでに縞宮舵渡の健闘の痕跡を感じ取らせる。彼らを無能と非難するのは酷ではあるだろう。
「いったい、何が、そこまで……」
あんたを掻き立てるのか。レンリのどこにそこまでの価値があるのか。
まともに息も吸えないがために言外に問う歩夢に、血走った目で少年は答えた。
「俺は、あの『夜』の真実を知るためにここにいる。この学園に帰ってきた……『あいつ』の思惑など知ったことか。そのカラスは、な!」
歩夢に対する圧迫はそのままに、かがんだライカはレンリを隙間より引き摺り出した。
強く睨みつけてから、
「こいつは、確実に何かを知っている! 人語を解する特殊な個体が側にいて、お前はただの一度でもそうは思わず受け入れていたのか!? さぁ言え、お前はなんだ!? なんで……あの『剣』が降ってきた!?」
何に起因するものか、興奮の最中にあってライカは声を荒げる。首根を掴むその力には、制御できているとは思えない握力が加えられている。レンリは足をばたつかせながら、苦しげに喘いでいる。
真実を暴くことを主目的としていながらも、ともすればそのターゲットを今この場でくびり殺しかねない。
だが歩夢への拘束もまた何らの呵責もなく続けられていた。
特にご丁寧に利き手の首はフレームの角を添えて。彼の意に沿わぬ行動の兆しを見せた手首の動脈を突き破るために。
それでも、渡すわけにはいかない。殺させるわけにもいかない。
真実なんて、歩夢にとってはどうでも良いことだった。少なくとも、自分に対してここまで引っ掻き回した責任のある鳥が、自分以外の他者に生殺与奪の権利を握られて良い理由とはなり得なかった。
だからこそ、たとえ実際に指先を動かせずとも心では腕を懸命に伸ばす。
首を締めあげられるレンリの先、ぶち破られた窓の奥向こうで、巨大な剣が忌々しいほどに神々しい煌めきを発していた。
――瞬間、指先を何かが掠めた気がした。
実際にではない。懸命に伸ばした心の指に、何者かが接触した。
すれ違いに誰かと手が行き当たったかのように、あるいは落下の寸前、伸びていた木枝を掴み損ねたかのように。
軽い違和感と痛み痺れが一様に、刹那的に歩夢の指先を襲った。
それは電流のように歩夢の内面から自身の指から掌へと移り、やがて硬質の感触へと変化した。
その過程で生じた深い緑の怪光線に、ダメージはなくともライカが軽く怯んだ。
ふしぎと、それが何なのかは解った。どういう種類なのかも手を介して伝わってきた。ゆえに彼女はそれを、腰の裏に強引に手を回し、そこにある鍵の挿入口へとねじ回した。
〈リベリオン〉
少しノイズの交じ入った調子で読み上げられた抑揚のなさとは裏腹に、
「……な……っ!」
と、ライカが目を大きく開き、露骨な動揺を明らかにした。
今度は歩夢がその一瞬の思考停止をチャンスと捉え、隙を突く番だった。
少し腰をのひねりを中心として、習ってもいない見よう見まねのブレイクダンスの要領をもって下半身を左右に大きく振り、靴底で少年の脇腹を叩いて退かせた。
その勢い余った調子で身を回しつつ、抜き放った短剣を刃を下にして地面へと叩きつけた。
差しっぱなしの『ドルイド』の特性でもって、コンクリートのブロックの亀裂に根が張り巡らせられ、呼称も由来もよく分からない深緑が生い茂り始める。
「なんだそれは……っ、なんでお前、どこから俺と同じ『ユニット・キー』を……くっ」
口よりも身を動かすべきだと、蔦に囲まれてから悟ったらしい。
歯噛みし、逃れようとする。
だがその動力は、先に『リベリオン』の特性でもって歩夢から収奪したエネルギーが大元である。それを奪い返す形で、植物たちは振りまかれる雷光を吸い上げ、さらなる生長を続けていく。
『電撃戦』と駒鍵と自身の小柄さと俊敏さで機動戦を展開していたライカも、逃げるだけの余地を失っていくほどに取れる選択は失われていく。
やがて森のように草木が場を制圧したのを見計らって、歩夢は『ドルイド』サイドの鍵をひねった。
〈ドルイド・オルダーチャージ〉
歩夢は踵で地面へと叩きつけて鳴らした。
樹木の垣根を突き破る形で、新たに地面を突き破って生じた柱のごとき幹が、ライカの胴体を正中より殴りつけた。
今度はライカが内臓を圧迫される番だった。
「かはっ……」
か細く呼気を吐き出して吹き飛ぶ彼は、そのまま壁を突き破って、今なお南洋の二人が争い、『上帝剣』の突き立つ中庭へと押し戻される。
その途中でレンリは解放され、ちょうど屋内外の、雑につなぎ合わせたかのようば不自然な境界に転がっていた。
「あんたさ」
それをあえて助け起こす気も起きず、歩夢は冷ややかに見下ろした。
「さっきあいつに首絞められて殺されるって時、ちょっとホッとしてなかった?」
その問いかけに、レンリは言葉もなく項垂れがちに顔を背けた。
「……まだだ!」
直撃を受けつつもライカはまだ戦意が衰えていないらしく、よろめきながら立ち上がる。
このまま逃げたところで、また追いつかれるのは必定。さてどうしたものかと思案する歩夢だったが、その視野の片隅で、何かが閃いた。
歩夢の正面、ライカの背にある西棟側の校舎。その中間のフロアが、爆風により吹き飛んだ。
巻き上がる噴煙の内から、長く細く断末魔を引き伸ばして、女性の影が落下した。
ライカも驚き見開いた目で、その落下物を追った。
何度かバウンドしながら地上に失墜してきたのは、一人の女生徒。どことなく大人びた雰囲気と陰険さを感じさせる彼女は、手に嵌めたストロングホールダーの恩恵か、あるいは本人のしぶとさゆえか。意識を保ったまま身体を引きずって呻いた。
「副会長の、賀来久詠?」
身を持ち直したレンリの一言で、歩夢もまた既視感のあったその女子の正体を知った。
が、次の瞬間、歩夢の身体には電流じみた悪寒がはしった。
それは歩夢のみならず誰しも感じているものらしい。全員が手足を止め、次第に大きくなって近づいてくるその存在感の地点に注視した。
久詠を吹き飛ばしたそれ自身は、堂々と、校舎の階段を下りて中庭へと足を踏み入れた。
灰色がかった髪。太陽の灼熱を想起させる、圧倒的な眼力。
対して、口元に浮かぶ笑みは、極寒の冷たさを帯びている。
「やぁ」
その異世界に乱入してきた人間の所在地を的確に見渡し、
「諸君、おはよう」
生徒会長、征地絵草は、戦場にはそぐわない穏やかな口調で、講堂に立つ時と同じように挨拶をした。