(1)
夏の終わり、足利宅。
足利歩夢の前に、積まれたテキストの山がある。
そして彼女自身は、めくり上げた上唇にボールペンを載せて弄んでいた。
「……なんつー古典的な勉強の行き詰まらせポーズだよ」
それら夏休みの課題に根気よく付き合っていた鳴は、呆れながらその様を睥睨した。
「よくもまぁここまで溜め込んだもんだ。小学生でももうちょっとマトモに計画を立てて取り組むぞ」
もう数日となく二学期というのに、ほぼ手つかずだった課題を見遣りつつ、吐息をひとつ。
とは言っても、実のところ歩夢に問題があるとすれば、『面倒だから人に指摘されるまでやってない』というただその一点のみであって、鳴に叱られて強引に付き合わされてより後は、姜維的な飲み込みのペースで消化していき、積まれた教本は軒並み解決済みのものである。
だが、ある課題を前にした時、少女の手と眼が止まった。
これこそすなわち、歩夢にとっての鬼門――自由課題。
一日で済ませられないことであるのはもちろんだが、主体性のない彼女にとっては、その選択肢の多さこそが他の学生よりも苦痛なのだろう。
「ちなみに、あんたはなんにしたの?」
「あー、ドーナッツ作ってその時に起こった化学反応の解説入りレシピ書いた。人ン家で堂々茶を啜ってるヤツに手伝ってもらってな」
そう紹介されたのは、マンションを訪れていた鳴を見咎めて、隣室より介入してきた維ノ里士羽である。さも当然のごとく上がり込んで来た彼女は、珍しく分かるレベルで渋い顔をした家主を置いて、自分で煎れた茶を飲んで菓子を摘んでいる。
何の用事なのかさえ、明らかにしない。ただ単純に自分が頼られなくて寂しかったのかもしれない。
「ちなみに今お前らが食ってるのがそれの切れっ端」
「マジか」
歩夢の、なんとも気のない感嘆である。
テーブルの上に置かれた皿の、ボール状の焼き菓子をもしゃもしゃと無造作に口に運んでいく。
「その程度で良いんですよ、夏休みの課題なんて。アメリカだったらレポート一枚で終わりです」
と、士羽が菓子を摘む合間に口を挟んだ。
「そういうイノは……いや、やっぱ良いや、聞いてるだけで頭痛くなりそーだから」
「心外な。ちゃんと学生のレベルまで落とし込みましたよ」
士羽は不安げな鳴に続けた。
「平成ライダーのスペックから基づいて、一話ごとのエネルギー放出量の平均値を算出してグラフ化。かつ、それをランキングにしました」
「だから聞いてねぇって……というか教師がドン引きして教室が冷え込む未来しか見えないんだけどな」
「暇人」
心なしか、どことなく得意げな士羽に対し、辛辣なリアクションを見せる鳴と歩夢。
士羽も曰くありげに寄せられる眼差しに何かしら汲み取れないほどに鈍感ではなかったらしい。
少し無念そうに眼を伏せる彼女はしかし、虚勢を張るが如くに付け足した。
「無駄だ暇だの思われるのには慣れてます。そもそも、研究だとか科学だとかなんてのはね、実生活や実益に直接結びつく方が稀なんです。私も学会でそのあたりを質疑される度に『うるせぇ教授! お前は黙ってろ!』と腕組みして苦虫を噛み潰すこと、一度や二度じゃありません」
実感を交えてしみじみ呟く士羽ではあったが、珍しくレンリが彼女の意見に同調し、うんうんと頷いている。
「実際、ストロングホールダーのメインシステムの基礎となった時州氏の理論は学園があの様になるまでは無用の長物、変人の妄想に過ぎなかった。それがこうして今は我々にとっては欠かせぬ」
「イノ、脱線してるんだが」
「……失礼」
士羽は羽織る薄手の白いカーディガンの襟元を引き寄せた。
「まぁ何事にも探求があります。公序良俗に反しない限りは、漫画の感想だろうが、蟻の観察だろうが洋楽の和訳だろうが、なんだって良いんです」
「そういうのが、一番困る」
そのいずれにも、歩夢が興に乗った様子はない。
「困るぐらいだったら、南洋に行ったときに何かしらネタを持ち帰れば良かったでしょう。あそこは、日本でも有数の、海洋生物の研究機関でもあるんですから」
「あぁ、なんか帰る時水族館あったよな」
「いや、どう考えたってお勉強できる体力じゃなかったでしょ」
その時の疲弊はまだ歩夢の矮躯に根強く残っているのか。
思い返しただけで、歩夢はくたりとアゴをテーブルに置いた。
「今からでも、汀に頼んで資料ぐらい借りて来させるとか」
「やだ」
鳴が士羽に便乗するかたちで提案するも、歩夢は横にかぶりを振った。
「あとアレの名前、出さないで。沸いて出てきたらどうすんの」
「悪魔かなんかか、あいつは」
否、少なくとも歩夢にとっては魑魅魍魎の類扱いに違いはあるまい。
とは言えアレも駄目コレもイヤとなれば、八方ふさがりも良いところである。
「先に言っておきますが、ウィキペディアのコピペで仕上げようなんて私の前でしたらはっ倒しますよ」
「じゃああんたが消えたらやる」
「じゃあ今はっ倒します……と言いたいところですが、貴女が興味が持てて謎だらけの存在なら、そこにいるでしょう」
そう言って投げた視線の先に、鳴も歩夢も追従する。
彼女たちの視界に、バランスボールの上で我が身を持て余すようにしている黒い球体が、居る。
さすがに遠慮もあってか、ここまでは必要最低限しか女の園には介入して来なかったそのカラスはようやく彼女たちの方へと顧みて、
「え、俺?」
と、羽で自身を示したのだった。