三
弟・セルジュからの視点その一です。
念願叶ってガイレウス騎士団に所属することができた僕は、十五歳になると即家を出た。あの屋敷に姉さんを残して行くことは気がかりだったが、これを逃してしまうと永遠にブッフバルト家に縛られそうだったから迷いはなかった。
まったく、浮気症の父のせいで屋敷の中はぐちゃぐちゃさ。腹違いの兄弟達が我が物顔で屋敷の中を歩き回り、子爵家のお金に手を付ける始末。その母親たちは何がいいのか知らないけれど、父の愛を得ようと互いに争っている。使用人達は僕たちと会話をすることをせず、ただ淡々と仕事をこなすのみ。あの最悪な屋敷の中で、唯一母さんと姉さんだけは特別だった。
父の事は僕も好きではないが、しかし母さんや姉さんと違って僕はそこまで父の事を嫌いにはなれなかった。
説明すると長くなるが、僕が父に抱く感情は複雑だ。母さんと姉さんは父を軽蔑して嫌っていたし、父と会話らしい会話もしなかった。けれど僕はブッフバルト家の跡継ぎとして、父から仕事や領地の経営について聞くこともあったから、姉さん達に比べたら父との距離は近い方だったと思う。
意外だろうが、仕事をしている時の父は私生活が乱れているとは思えないくらいかっこいいのだ。きりっと眉を引き締めて書類を端々まで確認し、休む間もなく働いている。部下たちの面倒見も良く、適確な指示は驚くものがあるわけで、それだけでも頭がいいことが伺えた。そして身なりもお洒落で、たとえ屋敷の中だろうと気を抜くことはせず、隅々まで紳士の姿を貫いていた。未だに恋人が絶えないのは、こういう父の姿を女性達が見ているせいではないかと思うわけだ。
しかしやはり私生活は最悪なのは変わりない。父がクズ男だと思われている原因もはっきりしているわけだから、一度父に意見したことがある。このままじゃ腹違いの兄弟達が好き勝手したい放題だし社交界の噂も悪くなる一方だと、己の行動を改めた方が良いと。今の父では誰も見向きもしないし、寂しい老後を送ることになるのではないでしょうかと強い口調で言い放った。
父がそれを聞いて怒ったならばそれも仕方ない。その程度の男だったのだと思えたのだろうが、父はふと寂しい顔で笑って言った。分かっているよと。ただ自分ではどうしようもできないのだと。
それを聞いた時は、何が「自分ではどうしようもできない」だと呆れた。要するに、本能が理性よりも勝っていると言うことでしょう?美しい女性を目の前にして手が出てしまうということは、理性が働かないただの動物じゃないかと。母さんが父のことを「まるで歩く性器ね」と痛烈に言っていたことがあったが、本当にその通りだ。
だが本当に父は「理性が利かない動物と変わりないクズ男」なのだろうか?真面目な面もあるし、自分の事もよく分かっていそうなのに?もしかして父はただの、極度な寂しがり屋なんじゃないか。母さんは男を癒してくれるような、優しげで穏やかなタイプの女ではない。どちらかと言うと男よりも気が強くて、一人で何でも出来てしまう女だった。相性が元々良くなかったこともあり、だから父は外に安らぎを求めてしまったんじゃないかなと、父の浮気原因を一人で推測していたがあながち間違ってはいない気がする。
ただ父は理想が高すぎるのだろう。仕事に対しても隙がなくびっちり完璧に仕上げるくらいだから、女性に求める事も多そうだ。容姿、性格、言葉遣いから態度まで…、安らげる女性を求めつつも、その女性のレベルを下げてこないあたり、妥協がないと言うか馬鹿と言うか…。
事実、父が選んだ愛人たちは皆美人で社交界でも十分通用する女性ばかりだった。けれどどんな完璧に見える人でも、一つ二つの欠点があるのは当たり前だろう。その欠点に気付いた時に、父は嫌気がさして別の女性を求めてしまうのだ、きっと。
もし僕の考えが正しかったのならば、父は「女好きなクズ男」と言うより、「理想を追い求めすぎているロマンチスト」と称した方がいいような気がしてならない。いい歳をしているくせに夢見がちというところが阿呆だけれど、世の中の男ってそういう面を持っているかもしれないと共感できるところは多少ある。とは言え、父のしていることは世間的に見ればやはり褒められた事ではないし、愛人や私生児たちを制御できていないから母さんや姉さんが父を嫌うのはもう仕方がないだろう。
そんな父にとって、僕は唯一まともに話せる家族だったらしい。母さんや姉さんは顔を見ようともしなかったし、それは腹違いの兄弟も同様だった。父の愛人達は父の遊び相手にはなり得たが、家族には程遠い存在だ。だから父は僕に期待をしていたが、僕はそれを捨てた。
荒れた屋敷にも子爵という称号にも未練がなかった僕は、騎士団に入るから腹違いの兄弟を跡継ぎにして下さいと父に言いに行った。すると父はとても寂しそうな顔で僕を見つめ、そうかと一言。流石に可哀そうになったが、これも全部父の自業自得だ。悪いけれど、自分でまいた種だから自分でどうにかして下さい。かくして母さんと姉さんそして僕は全員ブッフバルト家を出ることとなった。
さてさてその姉さんだけれど、三か月程前にブッフバルト家を出て婚約者の実家へ入った。正式な結婚はまだ先だけれど、相手は王家とも縁がある由緒正しい家柄だから色々と学ぶことが多いようだ。気が休まらないと三か月前に嘆いていた姉さんだが、ここ最近は手紙も来ていないから状況がよく分からない。果たして上手くやっているのだろうか。
姉さんの婚約者のアイロス様は公爵家の次期当主であり、社交界でも有名な人だった。遠くから一度しか見たことはないけれど、男の僕ですらハッとする程の美貌の持ち主で、女性達の憧れの的だった。そしてきっとアイロス様は自分が女性に人気だとよく分かっているのだろう、その証拠に甘い言葉で女性達を惑わしていたからね。
見れば見るほど父と同じタイプじゃないか…。あれ程の美貌ならば恋人が三人はいてもおかしくないと思う。姉さんもその点を気にしており、折角ブッフバルト家を出たのにまた監獄に入るような気分だと愚痴をこぼしていたっけ。その気持ちは僕もよく理解できるし、本当に姉さんは気の毒だよ。
だからこそ、騎士団に入って稼いで家を買えるまでになったら、母さんと姉さんを呼び寄せようと考えていた。そうして家族三人で楽しくやれれば最高かなと、我ながら甘い考えでいたわけで。
けれどその考えは、僕がダンジェルマイア公爵家に招待された時に改めるものとなった。
「初めまして、私がアイロス・ダンジェルマイアだ。君がロスヴィータの弟のセルジュだね?うん、ロスヴィータに似ているね。成長したら誰もが振り向く男前になることだと思うよ。それに頑張り屋さんだって聞いているし、私達はいい関係になれそうだ。これからよろしくね」
僕の前に現れたアイロス様は、以前見かけた時と同じように光り輝く美貌を放っていたけれど、父とはちょっと違うのではないかなと直感で感じた。美しい顔も優雅な仕草も、そして甘い言葉も全て父に似ていたのに、なぜそんな事を思ってしまったのか自分でも不思議だ。
「セルジュ!元気にしていた!?」
姉さんは嬉しそうに走ってくると、ぎゅっと僕を抱きしめた。僕も十五歳だし、人様の目もあるから抱きしめられるのは遠慮したいところだけれど…まあ色々と溜まっている姉さんのことを思うと邪険にはできなかった。ちらりと姉さんの背後を見れば、笑顔のアイロス様と、アイロス様のご両親であろう人達がおり、僕は慌てて頭を下げて挨拶をしたものだった。
「姉さん、どうなの?この公爵家での生活は…。やっぱり心休まらない?」
アイロス様や公爵様が少し離れた時にこっそりと姉さんに聞けば、姉さんはさっと表情を暗くした後、うーんと天井を見ながらわざと考えるそぶりをした。
「勉強は大変ね。公爵領の事とか、親戚である王族の方々の名前とか貴族間の関係性の把握とか。色々やることは多いけれど…その点ではつまらなくはないわ…」
「ああ…まあそうだね。姉さんは学ぶことが嫌いじゃなかったしね」
姉さんの趣味は読書だ。暇さえあれば本を読んでばかりいたっけ。まああのやかましいブッフバルト家の中ではそうしているのが一番だったって言うのは僕にもよく理解できるけれど…。
「そうじゃなくて…。アイロス様とだよ。まさか父上と似たような男性が夫になるなんてって嘆いていたじゃないか。そっちはどうなの?」
一瞬だけ姉さんは目を丸くさせると、視線をきょろきょろさせて手と足を細かく動かす。つまり挙動不審になった。姉さんがそういう行動をする時って、大抵言いたい事がまとまらない時だ。姉さんの言葉を待っていたらアイロス様達がこちらを振り向いて話を聞いてしまうと思い、僕が話をしだした。
「今日まじまじとアイロス様のお顔を正面から見たけれど、凄い美形だよね。女性たちの心を奪うだけあるよ。加えて口も上手いって言うか…恋人が三人くらいいてもおかしくなさそうだよね」
すると姉さんは勢いよく頷いた。
「三人どころじゃないかもよ。もしかしたら五人とか…もっといるかも」
「……父上の恋人は最高で何人だったっけ…?六人?」
「…多分そうね。六人だったような記憶が」
「よくやるよね。浮気するって本当にマメじゃないとできないって言うし。どの女性も満足させてあげられるように連絡も細々と取らないといけないし、勿論デートも毎回するんだろ?面倒くさそうだよ。父上もアイロス様も凄いと思う」
確かに「容姿がいい」というのは恋人を沢山つくれる男の条件かもしれないが、それが絶対ではない。容姿だけの男ならば女の方が飽きて捨てる。浮気をするということは、浮気相手を満足させられないと続かない。つまりマメな性格ではないとできない芸当なのだ。父は細々とした事を丁寧にできる男だったから、女が飽きずに父と付き合うのだろう。
僕の自論を展開していると、姉さんはもごもごと口を動かし始めたから耳を傾ける。すると姉さんは予想もしていなかった事を言った。
「あのね…アイロス様はもしかしたら私達が思うような人ではないかもしれないわ」
「……へえ?と言うと?」
「だってね…、アイロス様は…マメどころか…結構だらしないのよっ!」
力強く言われてがくっと膝の力が抜けそうになる。結構だらしないって一体何…?すると姉さん曰く、朝が弱いせいかいつも寝坊しては使用人に叩き起こされ、髪はボサボサで食事の席に着くし、服だって適当、欠伸は頻繁だそうだ。
「他にもあるのよ。宮廷に呼ばれたり、仕事がない日には一日中ダラダラしているのよっ!それこそ半日寝ているわ、かと思えば図書室に入り浸って本を読み漁る…のはいいんだけれど、でも食事抜きで読みふけるのは
どうかと思うわ」
意外だった。最高位の爵位を持ち、しかも王家と親戚だと言うアイロス様の事だから、屋敷の中でもピシッとしているイメージだったけれど。そのように言えば、姉さんは苦い顔で首をゆっくり横に振った。
「外面はいいのよ、アイロス様は。お客様が来ている時や夜会に出たりする時はまるで王子様のような雰囲気と甘い言葉を連発するけれど、普段は全然よ!もう少ししっかりしたらどうなの!?って思うことも沢山あったわ」
少し考えてみた。勿論、我がブッフバルト家当主の父のことを。
「…言われてみれば…父上は普段からキメていたよね。朝もちゃんと起きて、乱れた姿なんて絶対に見せなかったし。普段から甘い言葉を使うし」
だからこそ父はマメだということだ。それにしても、完璧な愛人を求めるからには、自分も完璧である必要があるとでも思っているのかなあ、あの人は。そう考えると、父のこだわりにはある意味頭が下がるよ。
アイロス様はそのマメな父と似たような行動をするのかと思っていたけれど、どうやら全く違うらしい。
「って事は何…?社交界で見せているキラキラな姿は、完全に余所行きってこと?」
「うん、そうだと思う…。それにアイロス様を見ていると私…」
神妙な顔つきの姉さんが何か言おうとしたタイミングで、アイロス様と公爵様がこちらを振り向いて話しかけて来た。
「天気もいいし、外でお茶でもしようじゃないか」
誘われて公爵家の驚く程広い庭に出れば、既にお茶をするためのテーブルやら茶器やらが揃えられていた。その席にはアイロス様と姉さんの他に、公爵様とその夫人、それにアイロス様の年の離れた弟であるエーリッヒ様がいたわけで、まさか公爵一家全員と茶をするとは思わず緊張したものだ。が、公爵様も夫人もとても気さくで話しやすい人で、まだ六歳だと言うエーリッヒ様は、それはそれは可愛らしかった。
公爵様はアイロス様と姉さんの婚約が上手くいきそうで何よりだと喜んでおり、なぜか夫人は目に涙を浮かべていた。アイロス様自身は苦笑しており、姉さんはそんな彼らをじっと真顔で見つめている。姉さん、もう少し笑顔で愛想良くしなくちゃ失礼だよと言いたかったが、姉さんの気持ちは手に取るように分かった。僕も感じたことを姉さんも感じているはずだから。
アイロス様は本当に家族に愛されている。公爵様や夫人がアイロス様を大切にしていることは僕もよく分かったし、既に屋敷に入っている姉さんは言わずもがなだろう。それは別に構わないのだが、少しだけ居心地が悪かったのは事実で、なぜならば僕も姉さんも、家族で仲良く団欒するということをした事がないからだ。
そして今気付いたのだが、僕と母さんと姉さんが揃って話す事と言えば、決まって父と父の愛人達の悪口だった。いや、僕達三人の共通の話題はそれしかなかったのだ。父達の悪口という話題しか、お互いに持っていなかったのだ。
公爵様達が愛溢れる空気を作り出す一方で、姉さんは益々暗くなって、仕舞には泣きそうな目をした。だからそんな表情したら失礼だってば!とその場で伝えたいが、きっと僕も同じ顔をしていることだろう…。
姉さんは、きっと今の状況が苦しいに違いない。僕達のような家庭で育った、可愛くもない性格の子供からすれば、この空気は結構キツいのだ。
「今日は来てくれてありがとう。……君たちは私達の事が嫌いかもしれないけれど。でもロスヴィータを婚約者としたのは間違いではなかったと思っているよ」
帰り際、庭先で二人っきりになったアイロス様にそう言われたので驚いた。困った顔で笑うアイロス様を見て、やっぱり先程の茶会で自分も暗い顔をしてしまったのかと反省する。いくらなんでも公爵家の方々に失礼すぎる態度を取ってしまったと、慌てて頭を下げて謝った。アイロス様は気にしていないよと笑ってくれたが、僕はどうして暗い顔をしてしまったか、その理由をきちんと話したくなったのだ。
「ご存じかと思いますが…僕達の父親は社交界ですこぶる評判の悪い人でして」
僅かに目を丸くさせたアイロス様は、無言で少しだけ頷いて先を促した。
「愛人を作っては捨てて、また別の愛人を作るのです。その愛人を屋敷に連れて来るわ、気付けば子供はできているわで…もうやりたい放題なのです。まあ…僕個人は父の全てを否定しているわけではないのですが、でも父の行いはどうかと流石に思います」
僕が思う父の姿をここでアイロス様に伝える必要はないから、世間一般で言われている父の事をざっくりと説明した。
「僕と姉がもっと幼い頃は、母とよくぶつかっていました。母は気が強い人でしたからね…父を怒鳴りつけて、父も父で言い返すんです。毎日喧嘩ばかりで最悪でした」
「…そうだったんだね。噂では、ブッフバルト子爵と夫人は全く話さずに冷戦状態だと」
「全く話さなくなったのは三年ほど前からですよ。その前はずっと喧嘩ばかりで、冷戦ではなく大戦状態でした」
僕と姉は頻繁に起こる両親の喧嘩を見ながら育った。母も父も僕達を気にすることはあまりなく、喧嘩の方に精力を注いでいたと記憶を呼び起こす。
「両親が不仲だと、子供は結構傷つくんです。姉はいつも泣いていました。耳を強く塞いで、両親の声を聞くまいとベッドで体を丸めて。二人の喧嘩の声が届かないところが図書室だと気付くと、そこに入り浸り始めました。僕は庭で剣を振りまわすことで気分を紛らわしていましたけれど…」
「…………そうだったんだね」
「…父と全く話さなくなった母は、僕達にやっと目を向けました。母と会話らしい会話ができたのも、やっぱり三年程前からです。でもさっき気付いたんですけれど…母との会話の内容って、全部父の悪口なんですよ。父と愛人達の悪口で、僕達は盛り上がって仲がいいフリをしていたんです」
「………」
「先程、アイロス様達を見ていてそれに気付いてしまいまして…。だから暗い顔になってしまったんです。僕達はあまりにも家族というものに対していい思い出がありません…。その…申し訳ありません、こんな事を申し上げて…」
自分と身内の恥を他人に告白するのは初めてだ。まさかその最初の人がアイロス様になるとは…。そしてこんな話を突然されたアイロス様は、困ったように微笑んで頭をかいていた。
「…成程…。すまない、全く気付かなかったよ…。不愉快な想いをさせていたみたいだね」
「い…いえ!ですから不愉快ではなく、戸惑ったと言いますか…!僕達の方が失礼な事をしていると思いますからどうかアイロス様は謝らないで下さい!」
眉尻を下げてアイロス様は笑うと、その後すぐに屋敷の方を見てゆっくり口を開いた。
「……ロスヴィータも…君と同じ考えなのかな?」
「……恐らく…。姉と僕の考えが完全に同じと言うわけではないのですが……間違ってはいないと思います…」
「……、ならば確かめてみようか」
ん?確かめる?どうやってと首を傾げると、ついて来てとアイロス様は僕の手を引っ張って屋敷の中へと入って行った。