3節 美少年、再び閉じ込められる
2018年最期……じゃなかった、最後の投稿。
ここで登場している人物は最終的に味方の予定です。
絵の中の女・堤咲は怪談に出てくるだけの人物ではなかった。彼女は春月市に実在する。だが、絵から入れる世界、油絵の中のまだらの世界において、彼女はあたかも実在しない人物であるように見えた。
「堤咲はね、魔女って言われて変な噂を流されたからここにいるんだよ。学校にいられなくして、有田先生以外は私を排除しようとしてね。ここしか居場所がないんだよ」
決して明るくない顔つきの咲は言った。
「そ、そうなんですか。理由はわからないけど大変だったんですね」
と、杏助。
「大変もなにも、この絵の中に閉じこもることしかできなくなったからね!?ほんと、災難だよね。それで、お二人はここから出るのかな?」
咲は尋ねた。
「出たいです。俺も晴翔も帰る場所があるから。でも、また来ますよ」
「それな。この空間も面白い」
2人は答える。この2人の少年は変わった人ではあるものの、性格が悪いと言われる類の人間ではないだろうと咲は予想していた。
「そか。じゃあ、またおいでよ。今度は外の様子も教えてほしいし。ケテルハイムの様子も知りたい」
咲はそう言うと、性格の悪そうな笑みを浮かべ、バケツで杏助と晴翔に絵具をかけた。絵具は2人を汚さない。絵具に包まれた2人は転移する。絵具は絵の中の空間への鍵だ。
――そして、杏助と晴翔は旧美術室に戻ってきていた。
時計の針は午後7時前を指していた。時間にして2時間。絵の中では時間の流れさえも一瞬のようだった。
電灯は消え、わずかに開いていた窓は閉まっている。どうやら施錠されているらしい。
「どうしよう」
この状況に気が付いた晴翔は言った。
「中から鍵を開けられるよな。そこから出るか。変に怪しまれても……気にしないということで」
杏助は言った。
怪しまれてしまえばそれまでだ。杏助も晴翔も美術部員でなければ油絵の授業を選択科目で取っているわけでもない。どのような指導を受けるのかは2人でも安易に想像できた。
バレない、美術の先生が怪しまないことに期待して、杏助と晴翔は美術室を出ることにした。
明かりの消えた旧美術室の作品の隙間を通り、出口を目指す。入ってきたときよりも不気味な雰囲気で、2人の恐怖心が最高潮にまで高まっていた。
やがて、2人は旧美術室の出口にたどり着き、内側の鍵を開けて外に出た。
それで終わり、だと思ってはいけなかった。旧美術室の外の黒い影。スーツを着た男性が2人の方を見ていたのだ。
「珍しいですね。美術部でもないお二人が何をしているんですか?狩村君、秋吉君」
見つかった。
偶然見回りをしていた教師・香椎孝之。生徒指導部ではないが、生徒の行いに対してかなり厳しいところがある。そのためか、あらぬ噂が流れている。没収したものを売っている、生活検査のときにセクハラをしている、などだ。
よりによって厳しい先生に見つかってしまった2人は蛇に睨まれた蛙のようだった。
「ええと、忘れ物を……」
晴翔の口から咄嗟に出てきた言葉がこれだ。
「嘘は言わなくていい。狩村君も秋吉君も美術は取っていませんよね。別に怒る気はないので教えてください。何をしていたのか」
怒らない、怒る気はない。そのたぐいの言葉は一切信用してはならない。怒らないといっても、それは聞き出すためだけの方便だ。2人はそのことをよく知っている。
かといって、何も言わなかったところで怒られるのは明白だ。
「だから忘れ物を!先輩が忘れた作品を取りに行ったんですけど大きくてまた今度取りにこようって話になったんですよ!」
今度は杏助が言った。
「なるほど。その先輩の名前は?厳しく指導する必要があるかと」
予想外の問いだった。が、杏助にも答えがないわけではない。彼はそっと口を開く。
「堤咲先輩です。美術部の。入学するずっと前からの知り合いなんですよ」
杏助の言ったことはもちろん嘘だ。咲は初対面の人物であり、これまでに杏助と知り合うチャンスなど一切なかったのだ。
「堤……あの魔女。行方不明だとも自殺したともいわれていましたがね。まだいたのか」
得体のしれない殺意。香椎の体から、妙なものが放たれているようだった。
そして晴翔は杏助より先に気づく。香椎の放つものの正体はイデア。数学教師である香椎そのままと言っていい、数字のイデア。
「先生。堤先輩のこともなんですが、それは何ですか?体の周りに数字を出しちゃって。それで俺たちをどうする気だったんですか?」
と、晴翔は言った。
それと同時に香椎の眉毛がピクリと動く。
「体罰でもやるんですか?ふるーい。俺だって見えているんですよ」
晴翔に続いて杏助も言った。香椎をバカにするような口調で。
「体罰ではない!ちょっと不都合なので黙ってもらうだけだ!そう、一人ずつ話を聞かせてもらうだけ」
暗闇に香椎の声が響く。
香椎の周りの数字が式を構成し、一瞬にして晴翔が消えた。
――いや、消えてはいない。彼は香椎の持つファイルの表紙に閉じ込められた。三次元から二次元に閉じ込められたかのように。
「先生。俺も聞きたいことあるんですよ。ちょっといいですか?」
杏助は言った。
「いいですけど」
「堤先輩が絵の中に閉じ込められているのって、香椎先生のせいじゃないんですか?俺、今の現象もよーく見てましたけど。あれ、微分ですよね。ほら、数学がそれなりにできて創作作品の中に入るために自分を微分したいって言う人、たまにいるじゃないですか」
香椎の表情がゆがんだ。
「一旦、堤先輩に会ってきたらどうですか?嫌なら俺が引っ張ってでも連れて行きますよ」
「よく言いますね、秋吉君。確かに狩村君を微分してファイルの表紙に閉じ込めたのは間違いない。が、堤さんについて俺はノータッチ。何もしていない」
香椎の返答は予想外。杏助の中で、すべてがつながったと勘違いしていたにすぎなかった。
その一方、香椎としても状況が良いとはいえなかった。ただでさえよくない評判が悪くなるというのも香椎にとってよいことではない。
「秋吉君。今日のことは秘密にしてくれないか?能力のことも、狩村君をここに閉じ込めたことも。あなたに噂を流されてしまってはこちらもきついものがある」
香椎は言った。
「いいですけど。じゃあ、今度俺と晴翔に焼肉おごってください学校から一番近いところでいいので」
「全く、あなたは性格の悪い生徒だ。将来きっと大物になりますね」
やれやれ、と言わんばかりの顔の香椎。ここで香椎も絡んだごたごたはおさまった。が、香椎は依然として焦ったままだった。
「すみませんね。積分してみたら閉じ込めた人の顔が変わってしまったことがあるんですよ。それでもいいなら晴翔を出しますが」
香椎は言った。
「致命的な弱点じゃないですか!せっかく顔が良い晴翔の顔が変わるのはマズいです。先生の能力で閉じ込めたなら俺、出せますから!」
杏助は慌てながら言った。彼が香椎に代わって晴翔を出す役を買って出たことには理由があったのだ。
香椎先生の能力の解説。
微分=次元を一つ下げる、積分=次元を一つ上げる、というイメージです。たとえば立体を平面に変えたり(微分)、平面を立体に変えたり(積分)。1~3次元の間でしか適用できない。