16節 異世界にて彼は語る
その2です。
再び杏奈のイデアが強くなる。彼女の体を覆うイデアの密度は濃くなり、星のように光始める。
そして彼女は異界へと転移する。
そこは深い森だった。
生い茂る木々は常緑広葉樹ばかりで、春月市に近い気候であると杏奈には予測できた。また、足元には落ち葉が積もっている。
異界へ転移したことを自覚した杏奈。彼女がすべきことはすでにわかりきっていた。杏助を探さねば、と考えた杏奈は辺りを見回した。
そのときだった。
空間が湾曲し、どこかにつながったかと思えば放火魔の男がその穴から投げ出された。
背中くらいにまで伸びた深紅の髪がふわりと揺らめき、彼は地面に落ちる。
「……へへへ、やったぜ。異世界転移成功だ……!」
彼は上半身だけ起こし、狂気を含んだ笑みを浮かべた。野心的な光をたたえたその眼はどこか邪悪だった。
そんな彼の目にも杏奈の姿がうつる。
「それで、お前は異世界転移をして何がしたかった。異世界を、新天地を信じてはならない。お前は馬鹿なのか?」
「馬鹿とでも何でも言えや!俺の名前は多々良雅樹っていうんだけどな!」
彼が名乗っているとき、すでにそのビジョンは現れていた。金色の葉。その攻撃は既に始まっていたのだ。
爆発に始まり、爆発の炎は1本の大木に引火した。
高酸素濃度において、普段はゆっくりと燃えるものだろうと激しく燃える。杏奈は危機感を覚えて多々良から距離を取った。
(まずい……酸素と炎をこんなところで使われたら山火事待ったなしじゃないか!その前に杏助くんを……)
「逃げてばかりか!?星空の戦姫ともいわれるお前が!?」
多々良は叫ぶ。挑発だ。そうやって少しでも杏奈の注意を引こうとしている、が、杏奈はそれを無視することにした。
冷静にならなければならない。ここで挑発に乗れば杏奈の勝ち目は薄れるだろう。転移するという手もあるが、杏奈はそれをする気にはなれなかった。杏助を連れ戻す必要があるうえ、下手に体力を消耗したくはないのだ。
落ち葉を踏む音が森に木霊する。
杏奈は必死に走り、その森の出口を探す。森の出口であればひょっとすると――
「うっ……」
杏奈の体は限界に近づいていた。
彼女自身もわからぬまま、通常ではありえない速度で彼女の体力は奪われていた。
めまい、吐き気。その症状にはじまり、続いて杏奈の脚が動かなくなる。筋肉は激しく痙攣し、もはや立つことも叶わない。
酸素中毒だ。
杏奈は地面に積もった落ち葉の上に胃の内容物を流した。
(野郎……私を逃がさないために酸素濃度を上げたのか……)
立ち上がろうにも杏奈は立ち上がれなかった。彼女はふらつく体を起こすこともできずに地面に倒れ伏す。
死。杏奈は5年ぶりに死を意識した。彼女の中にあるものはある種のあきらめだった。せめてましな最期を迎えたい。彼女はその思考まで持ってしまった。
ザッ、ザッ、という落ち葉を踏む音が近づいてくる。
奴が、多々良が杏奈に近づいてくる。
一方の杏奈はもはや何をすることもできない。
「追いついたぜ!どっちの世界でもお前は邪魔なんだよォ!消えな!」
死神が訪れたかのように現れた多々良。それは、絶望。
死神が人の命を奪うように、彼もまた杏奈の命を奪いにかかる。
だが。その手を狙い撃った者がいた。
スリングショットから撃たれた弾は多々良の得物――ライターを弾き飛ばした。
「誰だ!?」
何物かの存在に気づく多々良。だが、彼はライターを拾おうとしなかったという失態を犯す。
多々良がスリングショットの弾に気を取られる隙に、現れた者は多々良の頭を横から木刀で殴りつけていた。多々良は一瞬ふらついて、ライターがある方向とは逆に倒れた。
「杏助……」
杏奈は力なく言った。
「あとで話がありますけど、俺がこいつを倒してからでいいですか?」
「わかったよ……それと……こいつの能力は……酸素……を操る能力……」
「しゃべらないでください。何かを操るってことは俺にも勝てるかもしれない」
杏助は多々良の方に向き直る。
対する多々良も頭をさすりながら立ち上がる。
「なんだ、新手か?」
多々良は言う。
「ま、そうカリカリしなくていいんじゃないか?もっとさ……」
そう言いながらも杏助は既に動いていた。体中に緑色のオーラとお札――杏助特有のイデアを纏い、多々良に突っ込む。木刀を伴って。
一方の多々良は丸腰。だが、彼の周囲に浮遊していた金色の葉が光る。それが攻撃の合図となる。
「……備えろ!」
横たわる杏奈が声を絞り出す。
彼女自身も酸素によって傷を負っていた。だからこその判断だった。
「おぉっ!」
木刀から左手を離すと、杏助はそのイデア――お札を空中に放り投げた。そして、木刀での一撃。
杏助の繰り出した一撃は多々良の喉仏をとらえた。
その衝撃で多々良は一瞬にして崩れ落ち、彼の周囲にあった金色の葉は消えた。
多々良を戦闘不能に追い込んだことを確認すると、杏助は杏奈に駆け寄った。
「大丈夫ですか?そこから動けないくらいのケガを……」
「違う……多分、酸素中毒だ」
杏奈は杏助の言葉を遮った。
「あいつの能力……が、酸素の操作だっていうだろう。それで、だ」
杏奈は息を吐いた。
彼女は今、イデアを展開することによって症状をごまかしている。
杏奈はよろめきながらも立ち上がった。
「さて、元の世界に戻ろうか。私と、杏助くんと、そこに転がっている多々良と……。そいつは警察組織にでも突き出さないとね」
「待ってください、俺も話があります。姉さん」
杏助はその言葉を口にした。この森で杏奈を目にしてから、杏奈に言いたかった言葉。




