1節 オカルトマニア、異世界転移に失敗する
レムリア大陸東部の半島。その中部に存在する町、春月市。住みやすいといわれている町では怪奇現象が多発していた。
吸血鬼などの被害がほとんどなく魔物ハンターの手も回っていなかった春月の地。怪奇現象は彼らをその地に呼ぶこととなる。
春月市のとあるマンション。とは言っても、ただのマンションではない。このマンション、異世界へ行くことができるという都市伝説の場所である。
異世界の都市伝説。特定の方法で異世界に行くと、チート能力と言われるような能力を手に入れ、うまくいけばハーレムを築くことができる、といったものである。そのような根も葉もない都市伝説が5年ほど前から春月市をはじめとするレムリア大陸の東部に広がっていた。もちろん、それを実践しようとして姿を消す者も少なくない。
四角柱の建物には中庭があり、マンションの1階のドアからその中に入ることができる。その中庭こそが異世界へと通じるゲートであるという。
ゲート、マンションの中庭に近づく少年が2人。長い黒髪を三つ編みにした少年と眼帯をつけた少年。
――そして2人は中庭へと足を踏み入れる。
「晴翔。めまいがしないか?」
「だな。吐き気も……」
眼帯をつけた少年は四つん這いになって白い砂利の上に嘔吐した。
異世界へと通じるゲートと呼ばれるこの中庭がもたらしたものは異世界転移ではなく吐き気と嘔吐。2人は無意味だとわかったのか、ドアから外に出ようとした。が、そのとき2人はめまいが強くなり、気を失った。
2人の周りを金色の霧が包む。それは金色に輝いていながら認められぬものを激しく蝕み、殺す毒。2人は認められるに値するか?
「全く、馬鹿どもは異世界にいかずに済んだわけか。本当に運がいい」
倒れた2人の少年に黒髪の女が近寄る。黒い革のジャケットにミニスカート、その下には目に優しくないマゼンタと黄緑のタイツと黒いブーツを履いている。彼女の名は神守杏奈。魔物ハンターであり、異世界に転移しようとする者を引き留めている。
彼女は少年2人を見下ろす。2人は動かない。
「彰。完全に気を失っている。支部に連れて帰るか?」
「そうしよう。ひょっとすると瘴気にあてられて目覚めているかもしれない」
杏奈の後ろに立っていた紫髪の青年、狩村彰は言った。
「やれやれ。私はこっちの紫髪の方、彰は三つ編みの方をお願い」
杏奈はそう言って紫髪の少年をおぶった。そのとき、彰が気づく。彰の知る顔。決して他人ではなく、ごく近しい関係にある者。
「そいつ、晴翔か?いや、晴翔だな」
「何のこと?こいつの名前はよく知らない。彰と関係でもあるのか?」
「俺の弟だ。魔物ハンターにあこがれても魔法を使えなくてこうやって学校に行っていたみたいだが」
彰は頭を抱えていた。
魔物ハンターにならずにいた方が晴翔にとって幸せだったのだろう。だが、晴翔と傍らの少年は立ち入ってしまった。超常存在の世界へ。魔物ハンターの管轄する世界へ。これは彰が最も恐れていたことだ。
晴翔は魔物ハンターの、超常現象の世界へ片足を突っ込んでしまった。
「とにかく春月支部まで戻るぞ」
「そうだね」
杏奈が晴翔を、彰が三つ編みの少年をおぶって車まで向かう。そんな中、杏奈はふと三つ編みの少年の顔が見えた。彼は杏奈にとって他人である気がしなかったのだ。
杏奈は三つ編みの少年と引かれあっていたのだろうか……?
鮮血の夜明団春月支部。吸血鬼やイデア使い、異世界などの超常存在に対処する魔物ハンターたちは春月市にもまた常駐していた。本部とは違っているものの、春月支部の魔物ハンターはこの町の都市伝説の原因となった事象を突き止めようとしていたのだ。
杏奈と彰は倒れていた少年2人を春月支部のベッドに寝かせた。
「ふうん。男子高校生か」
医務室の椅子に座っていた色素の薄い青年、芦原キリオが言った。この世に存在しておきながらいつでもあの世へ引っ張られていきそうな彼。だが、彼もまったくの無力な人間というわけではなかった。
「ん……?」
三つ編みの少年が一足先に目を覚ました。見慣れない空間で、彼はあたりをキョロキョロと見回した。
「ここがどこなのか分からないって顔しているね。まあ、それも当然だけど。名前を聞いていいかい?」
キリオは優しい口調で話しかけた。怒りを抑えている、といった雰囲気は全くなく、本心から倒れた2人の少年を心配していたのだ。
「あ……秋吉杏助です」
三つ編みの少年、秋吉杏助は答えた。
だが、彼はどこか上の空のようだった。空中に何かがあるかのように何もない場所ぼうっと見つめている。正確に言えば何もないわけではなかった。杏助を取り囲むように存在する怪しげなお札。杏助にはそれが何なのか理解できなかった。
その一方、杏助はある感覚を覚えた。体の奥底から力が湧き上がるような、未だかつて体験したことも内容な感覚を。これがいわゆるチート能力か。異世界に行かなくともチート能力は得られたのか。杏助はかつて体験したこともない感覚を覚えて浮ついていた。
「何を見ている?おおかた予想はついているけれど」
と、杏奈は言った。彼女にも杏助を取り囲むものが見えていた。呪いをはじき返すように、怨念をよせつけないように。
「あ、わかったんですか?マンションで倒れるまではこんな感覚が全くなくて。俺、呪われたんですか?」
「呪い、かあ。全然違う。話せば長くなるけど、聞くか?聞けばあんたはもう戻れなくなる。超常存在の世界から戻れなくなってもいいのなら聞けばいい。どうするか?」
超常存在。杏助にとって、この言葉は魅力的以外の何でもなかった。超常存在、オカルト、都市伝説。杏助はそのたぐいの話が好きだった。もともと、あのマンションに立ち入ったのは異世界転移という都市伝説を確かめるためだ。
杏助の危険な好奇心は彼を突き動かした。
「ぜひお願いします!俺、そういう話が好きなので!」
「好き、か。まあいいや」
杏奈は咳き込んだ。
♰
これは5年前の話。レムリア大陸南西部の港町に異界への穴が開いた。そこから流れ込んだ金色のガスにあてられた者は体調を崩す。その後に死ぬ者もいれば生きて異常な能力に目覚める者もいる。私や彰、キリオはその能力に目覚めている。
能力に目覚める鍵は異界から流れ込む金色のガス。だから、異界の穴が開いた場所の近くにこのような能力――イデアを使いこなせる者が多い。
私もこれを呪いだと思っていたことがある。が、それなりに扱えるようになれば呪われていると感じることはなくなる。
これは私の仮説だけど、春月市の怪奇現象や都市伝説もイデアが原因なのではないかと踏んでいる。5年前、異界への穴が開いたときを境に増えているからね。
……だから我々は、この都市伝説を調査すると決めた。異界から生還した私を中心としてね。
♰
杏奈は目を閉じた。
「さて、あんたはもう戻れない。心することだよ、杏助君。晴翔君がどうなのかわからないけど、あんたは明日またここに来ることだ」
杏奈に見送られ、杏助は家へと向かう。
彼が触れたものは都市伝説か。それとも――
♰
――春月市民に告ぐ。
これは注意ではなく警告である。
ここ5年でレムリア大陸全体の失踪事件が大幅に増加している。以前のレムリア大陸、特にスラニア山脈以北の地域において、失踪事件が珍しいことではないことは明らかである。しかし、5年前のスリップノットの町における集団失踪事件を境に失踪事件は右肩上がりとなっている。
失踪事件の件数増加は春月市においても同様である。だが、特筆すべきことはその多さである。現時点において失踪事件の件数は7万件とレムリア大陸の都市で最多となっている。これは突出した数値であり、レムリア大陸における失踪事件の1割が春月市で起こっていることになる。また、そのうちの半分以上が発見されておらず、歴代最多である。
さて、失踪事件が「異世界転移」という都市伝説となっていることは春月市民の多くが知っているだろう。この都市伝説が広まった頃から失踪事件の件数がさらに増えることとなった。これは「異世界転移」の都市伝説を信じ、実行したが故に失踪したということを暗示している可能性がある。
都市伝説を信じてはいけない。
「異世界転移」を信じてはいけない。
異世界という新天地を信じてはいけない。
これは注意ではなく警告である。
鮮血の夜明団異界調査部門 神守杏奈
異世界の都市伝説は実際にありますが、安全ではありません。実践してしまうと取り返しのつかないことになる可能性がありますので控えてください。