その嘘は反則ですわ!
「おかしい……。何も仕掛けてこないわ……」
楓は、自室で春休みの宿題をしながら、いつ春光が嘘をつくために自分の部屋にやって来るかと待ち構えていたが、どういうわけかちっとも来ない。
(毎年、午前中には私のところに来て、「お嬢様、大変です!」と役者も真っ青になるぐらいの名演技で私を騙し、からかって笑っていたのに……。こっちはいつ嘘をつかれてもいいように身構えているというのに、こんな時に限ってなかなかやって来ないなんて……。何だかじれったいわね……)
そわそわして勉強も手がつかず、楓がちょっと行儀悪く椅子にもたれかかって背伸びをしていると、
「お嬢様、お部屋に入ってもよろしいでしょうか」
春光の声が部屋の外から聞こえてきた。相変わらず、囁くように優しい声である。意地悪なくせに。
「ようやく来たわね、春光さん!」
弾かれたように椅子から立ち上がった楓は、戦に赴くような心持ちで(絶対に騙されないわ!)と自らに言い聞かせながら、硝子戸を勢いよく開けた。
「な、なななな何用ですか、春光さん!」
「……お嬢様? なぜそんなに緊張なさっているのですか?」
「き、緊張? 緊張なんてしていないですにょ!」
途中で舌を噛んだ楓は恥ずかしさのあまり、顔をうつむかせた。
春光は「はぁ、そうですか」と言いながら小首を傾げる。さっきの失言は聞かなかったことにしてくれたのかしらと楓はホッとしかけたが、春光は悪戯っぽく微笑むと楓の耳に顔を近づけて、
「ご学友の風花様からお電話ですにょ。くすくす……」
と、囁くのだった。
楓は、ボンッ! と火がついたように赤面し、吐息にくすぐられた耳を手でおさえながら春光からバッと飛び退く。
春光は、楓の家族や店の者たちが近くにいる時は楓にあまり話しかけてこないし、奉公人らしいへりくだった態度なのだが、こうやって二人きりになると、とても意地悪になるのである。
「か……からかわないでください! もう!」
「あはは。申し訳ありません、お嬢様」
春光は悪びれる様子もなくニコニコ笑っている。本当に意地悪な人だ。
いくらお父様とお母様に気に入られているからって調子に乗り過ぎよ、と楓は忌々しく思うが、電話をかけてきてくれている親友の柊子を待たせるわけにはいかないのでそれ以上は何も言わずに頬を膨らませながら電話機がある居間へと向かった。
(春光さんったら、相変わらず意地悪だけれど、何もしかけてこないわね……?)
まさか柊子から電話があったというのが嘘だったのか、と思ったが、居間に行ってみると、母が「柊子ちゃんから電話よ」と言いながら受話器を渡してくれた。
竜田家の電話機は、明治時代から使っている旧式の壁掛電話機で、受話器と送話器が別になっている。受話器を耳に当てながら、電話機本体についている送話器に向かって話さないといけないのが面倒だ。
柊子の家の電話機は、受話器と送話器がひとつになった卓上電話機にとっくの昔にかえているのに、うちの家は新式の電話機になかなかかえようとしない。お父様の壊れるまでは物を買い替えないケチ臭い性格には困ったものだと楓はちょっと不満に思っていた。
「柊子ちゃん、ごきげんよう」
『ごきげんよう、楓ちゃん。宿題はもう終わった?』
「だいたい終わりましたけれど、英語の宿題で訳せない箇所があって……」
『私もそうなの。だから、今から日比谷図書館で一緒に勉強しましょうよ。あのね、前に図書館へ行った時、すごく分かりやすい虎の巻を見つけたの』
虎の巻とは、当時流行っていた女学生言葉のひとつで、参考書のことである。
「そんなにも参考になる虎の巻があるんですの? それは私も読んでみたいわ。でも……今日は私、一日家にいないといけないの」
『あら、どうして?』
楓は、一学年後輩の氷室葵から昨日の夕方に手紙が届き、「楓さんにどうしても相談に乗って欲しい悩み事がありまして、明日の四月一日お昼頃に楓さん宅にお伺いしたいのです。どうか、その日はご在宅ください」と書いてあったことを柊子に話した。
「だから、今日は家を空けるわけにはいかないのですわ。あの子は私にいつも生意気な口ばかりきくからあまり好きではないのだけれど、後輩に悩み事があるのなら助けてあげるのが先輩の役目ですからね」
『……その手紙、いつ来訪するって具体的な時間は書いていないの?』
「ええ、お昼頃としか。だから、いつ氷室さんが訪ねて来てもいいように、お婆様に一緒に三越に行かないかと誘われてもお断りしたのですわ」
祖母は、朝食後、春の新作の着物を買うために妹を連れて百貨店に出かけた。本当は楓も同行して可愛い帯や半襟、小物などを買ってもらいたかったし、エレベーターにも乗ってみたかったが、今日はどうしても家にいないといけない用事があるからと言って外出しなかったのだ。
『楓ちゃん……。言いにくいのだけれど、昔、全く同じ手口で私の許嫁が友達に騙されたことがあるの』
「えっ? そ、それはどういう……?」
『私の許嫁の千鳥柚希……柚兄様は、四月一日に家を訪ねたいからその日はずっと家で待っていてくれという手紙が友達から送られてきて、正直に夕方まで家でじっとしていたのよ。でも、いくら経っても来ないからその友達の家に電話をかけてみたら、柚兄様はなんて言われたと思う?』
「さ、さあ…………?」
『やーい、四月馬鹿め! って』
その言葉を聞いた楓は受話器を放り出して、慎みも忘れて廊下をドタバタ走り、自室の机の上に置いたままだった葵の手紙を改めて読んだ。
「明くる四月一日昼頃参上いたしたく……」
四月一日の部分だけ、やけに馬鹿でかく太字で書かれていた……!!
「や、やられましたわ! お、おのれ、氷室葵……! 三月三十一日に出した手紙で嘘をつくなんて、こんなの反則ですわ~!! 卑怯者~っ!!」
楓はベッドにひっくり返って倒れ、手足をジタバタさせて「きぃぃぃぃ!!」と喚きながら悔しがった。今年のエイプリルフールは、春光の嘘に警戒するあまり、他の人間に足元をすくわれてばかりだ。しかも、妹や学校の後輩など、格下の人間たちに……。
「くすくす……。くすくす……」
いつからそこにいたのか、春光が硝子戸に隠れて忍び笑いをしていた。
「わ、笑わないでくださーーーいっ!!」




