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夫が帰る日

作者: 桃園沙里

 葉子は待っていた。

 網戸にした窓から若葉色の風がジャスミンの香りを運んでくるのを待っていたのでもなく、また、もうじき帰るであろう小学生の娘を待っていたのでもない。

 今日の日が過ぎるのを、じっと待っていたのである。

 葉子はカレンダーをチラと見た。

 五月二十五日、七年前のこの日、夫、浩市が突然家を出ていった。それは予期せぬ事であり、電撃のように葉子を打った。

 それは結婚三年目のことである。

 浩市は、葉子と、ようやく立つことの出来るようになった愛娘を置いて、会社の部下である若い女性と一緒に姿を消してしまったのだ。

 前日までは何も変わらぬ様子だったのに。いや、何か変化があっても葉子が気付かなかっただけなのかもしれない。何しろ当時の葉子は、幼い娘の世話で忙しかったから。

 浩市が家を出て以来、葉子とその娘、美里の生活は、浩市の両親に面倒を見てもらっていた。

 浩市の家はそこそこの資産家であり、葉子と浩市が新婚生活をはじめたこのアパートも、浩市の両親の持ち物だった。浩市が家を出た当初、葉子は「息子が帰るまで生活費の面倒は一切自分たちが世話するから」と彼らに懇願されて、実家へ戻ることを思い留まった。当時は、幼な子を抱え途方に暮れていたこともあり、彼らの言葉に従うことが正しい選択だと思ったのだ。やがて自分の人生が、彼らの世間体のために台無しにされていると思うようになるとは気付かずに。

 浩市の両親は、夫が出ていったのにも関わらず、捜索願も出さず、行方を捜そうとすることもなかった。周辺には、海外へ単身赴任で勤務している、と言い繕い、葉子の実家にも隠し通した。

 最初の一年、葉子は混乱する心をなだめて、ひたすら浩市の帰りを待っていた。

 二年目を迎えると、浩市のいない生活に慣れ、そうして暮らしているうちに、葉子自身も、浩市が本当に単身赴任をしているような気になっていた。

 葉子はカレンダーをチラと見ると、ふうとひと息、ため息をついた。

 普段は浩市のことを考えないようにしている葉子だったが、毎年五月二十五日になると、漠然とした不安に駆られるのだった。ただこの日が無事に過ぎればいいと、そう思って毎年過ごしてきた。

 葉子が二つ目のため息をついたときである。

 玄関のチャイムが鳴り、葉子はぎくっとした。

 しかしすぐに、娘の美里が学校から帰る時間になっていたのに気付いた。

 葉子が玄関のドアを開けるや否や、美里の元気な声が響いた。

「お父さんは」

「美里。ただいま、でしょ。何、お父さんって」

 美里は葉子のことなど眼中にないように、運動靴を脱ぎ散らかし、居間へ入ると、ランドセルも降ろさずに、辺りをキョロキョロ見回した。

「お父さんは」

「だから、何」

「さっき、岡田屋のおじさんに会って、挨拶したら、お父さんが帰ってきてよかったな、って言われた」

「え」

 葉子の胸が音を立てて鳴った。葉子は自分自身に言い聞かせるかのように、落ち着いた口調で言った。

「いいえ、お父さんは帰ってきてないわ。ちょっと待って。お母さんが確認してみる」

 受話器を取り上げる葉子を見る美里の目は、期待に満ちている。

 かわいそうに、今も父親から捨てられたと知らないこの娘は、いずれ父親が海外勤務から戻ると信じているのだ。

 葉子はプッシュホンを押す手を止め、受話器を置いて言った。

「手を洗って、うがいして、それから宿題を済ませてしまいなさい」

 葉子は美里が洗面所へ向かうのを確認すると、自分の携帯電話を取り出した。そして、ベランダへ出ると窓を閉めた。


 葉子は浩市の実家に電話をかけた。

 電話を受けた義母も混乱していた。

「どういうこと」

「美里が、学校の帰りに岡田屋さんのおじさんと会って、お父さんが帰ってきて良かったね、と言われたんですって」

「え、で、浩市さんから連絡はあったの」

「いえ、何も。お義母さんの所へは」

「何もないわ。何だって岡田屋さんはそんなこと言ったのかしら」

「さあ」

 小学校の傍で文具店を営む岡田は、浩市とは幼なじみであり、浩市の両親とも顔見知りである。地域のボランティア活動にも積極的に参加し、まじめで義に厚い人物である。嘘や冗談でおかしなことを言うようなことはあるまい。

「わかったわ。私がこれから岡田屋さんの所へ行って確かめてくる。葉子さんはそのまま家にいて。もし浩市が帰ってくると困るから。いい。私に任せてちょうだい」

 義母はまた後で電話すると言って、電話を切った。

 私に任せてちょうだい……。

 葉子は義母の言葉を反芻していた。

 今まで義母に任せて何かいいことがあっただろうか。

 七年前、連絡がないまま仕事から帰らぬ夫を、美里をあやしながら一晩中待ったときも、義母は、大丈夫よ、そのうち帰ってくるわと呑気に言った。

 胸騒ぎがした葉子が、翌日、浩市の会社に電話すると、三日前に退職したと言われた。すぐ後に、浩市の同僚から電話があり、言いにくいけれど、と前置きする彼の話で、浩市は前々から会社の後輩の女性と親密な関係にあり、その女性と一緒に会社を辞めたのだと知った。

 あの時だって、葉子が会社に電話をかけなければ、義母は何もしなかったに違いない。

 浩市が失踪したとわかった後も、捜索願を出そうと言った葉子に対して「事を大きくすると帰ってきにくくなるでしょ。大丈夫、必ず戻ってくるから」と義母は言った。義母は、ただひたすら事を隠し、私がうまく取りなすと言いつつ、一向に浩市を捜す気配もなかったのだ。

 義母が思う最善の策は、何もせず成り行きに任せていることである。何もしなければやがて嵐は去り、やっかいな問題は時間と共に流れ去ると思っている。そのお陰で、放置されたままの問題を抱え込むのは、いつも回りの人間、つまり自分なのだ、と葉子は思った。

 葉子は、こめかみに、音を立てて血が流れるのを感じた。

 考えては駄目、と葉子は自分自身に言い聞かせた。

 浩市が出ていってからというもの、眠れぬ夜を幾度となく過ごしてきたことか。あれこれ思案しては胃が痛くなる日々を送った後、葉子はもう、考える事を止めようと思ったのだ。いくら考えても、事態は何も変わらないのである。考えてイライラするだけ損というものだ。浩市が帰ってきたその時になったら考えればいい、そう思って暮らすことに決めた。

 そうして葉子は、浩市に関することを一切、心の奥深く、忘却の箱の中に閉じこめ、しっかりと蓋を閉じた。そして、時折心の表面に浮上するそれらの断片を、葉子の意識は拾い上げることなく、また箱にしまい込むのだった。

 普段はその箱の存在すら感じずに、今日まで過ごしてきた。しかし、今、にわかに箱の蓋が開き、今まで封印してきた感情が一気にあふれ出そうとしている。

 その時、葉子は背後に気配を感じ、部屋の中を振り返った。

 ガラスサッシのその向こう側では、期待に輝かせた目をした美里が、立ったままで待っていた。


「なんだって?」

 葉子がベランダから戻ると、美里が、葉子の腕にまとわりつきながら訊く。

「何が」

「お父さん、帰ってきたって?」

「岡田屋さんの勘違いみたいよ。おばあちゃんも知らないって」

「ふうん」

「いいから、宿題あるんでしょ。さっさとやっちゃいなさい」

「はあい」

 葉子は、まだ納得のいかない様子の美里を勉強部屋に促し、自分は台所に向かった。


 葉子の住むアパートは狭かった。

 玄関を入るとすぐにダイニングキッチン、その奥に畳敷きの居間と美里の勉強部屋がある。親子二人で暮らすには充分な広さである。美里の勉強机に飾られた写真、美里のお宮参りの時に写真館で撮ったのだが、この写真を除いては、この家から浩市の痕跡はすっかり消えていた。

 葉子は、とりあえずお茶を入れることにした。

 畳の上にはブラウスがアイロン掛けを待っているし、夕飯の買物にも行かねばならなかったが、義母からの連絡を待つ間、何か用をする気になれなかった。

 ポットから急須に湯を注いでいる今にも、夫がドアを開けて帰ってくるかもしれないと思うと、家にいるのも恐ろしかった。

 この日をどんなに待ちわびていたことか。或いは、恐れていたことか。

 今、葉子は、浩市の両親の援助のお陰で、経済的には何一つ不自由のない暮らしをしている。

 もちろん、葉子はこの生活が永遠に続くものではないと判っていた。砂上の楼閣同然である。浩市の帰宅と共に、何もかもが崩れ去る。だからこそ、現実に蓋をして生きてきたのだ。ただ、こんなにも突然、現実を叩きつけられるとは、思っても見なかった。

 浩市と会ったら離婚届に判を貰おう。

 葉子はまず、そう考えた。

 当然である。もう六年も夫婦でないのだ。自分と幼い娘を捨てて他の女と出ていった夫と、今さらやり直すことなど考えられるわけがない。娘の事を思うと不憫だが、仕方がない。

 不憫にも、物心ついたときから父親というものを知らずに育った娘。父親が帰ってきたら、よその家のように家族三人で仲良く暮らせると、義母の言う言葉をそのまま信じている小学生の娘。

 まだ夫婦のなんたるかも知らない子供が、そのようなことを思うのは仕方がない。

 しかし、義母は、大人である。今さら浩市が帰ってきたからと言って、元通りにならないことはわかるだろうに、彼らは、浩市が帰って来さえすれば全ての問題が解決すると、小学生と同じレベルで思っているのだ。

 義母のお陰で、葉子は、気持ちの中ではもう夫ではない人と籍が入ったままで、再婚もできずにいる。自分だってまだ若い。やり直すなら早いほうがいい。葉子には、葉子より早くに結婚してすぐ離婚した友人がいたが、数年前に彼女が再婚したことを聞いた時、葉子がどんな思いだったか、義母は考えもしないだろう。

 いつまでも、もはや夫婦には戻れない夫を待ち続けるのは終わりにしたい。美里や葉子の両親、友人知人に嘘をついていることも心苦しい。浩市とは縁を切って、美里と二人で人生をやり直したい。

 そんな思いが長年葉子を苦しめてきた。

 しかし、一方で、現実の生活を考えると、まだ早い、と思っていたのも事実であった。

 葉子は、美里が幼稚園に入園した年から、パートタイムで働きに出ている。

 義母は、生活費が足りなかったら言ってちょうだいと言ったが、そうではない。

 確かに、浩市の実家から貰うお金で自分の服や欲しい物を買うのは抵抗があった。それも一つの理由だが、いつか終わるこの生活を考えると、今のうちにできるだけ貯蓄をしていこうと思っていたのである。葉子は、彼女なりに、浩市の存在抜きでの将来設計を立てていたのだ。

 義母には「美里の教育費を今の内から貯めとくの」と言い訳をした。義母は、「それくらい、私が出してあげるのに」と言っていた。

 その時、葉子は、この人はまさか、美里が大学を卒業するまで自分にこの生活を強いるというのか、と、内心腹が立った。

 今、美里は小学三年になった。浩市の実家から貰う生活費を節約し、葉子の少ない給料を全部貯蓄に回していたが、それでもまだ全然充分ではない。正式に離婚したら葉子はここを出て、部屋を借りねばならない。実家の両親の家には兄夫婦が同居しており、葉子のいる場所はない。美里の養育費としていくらかのお金は請求できるだろうが、慰謝料は、これまでの生活費で相殺されてしまう可能性が高い。浩市の両親は、浩市の嫁としての葉子に対して生活の全てを面倒見てくれているのであり、離婚したらおそらくは「今までの恩を忘れて出ていった女」としか思わないだろうと、葉子は考えていた。養育費だっていくら貰えるか、しれたものではない。

 それにもし、美里を夫の家に引き取りたいと言い出したら……。

 葉子の中に、澱んだ思いが流れ込んできた。

 あり得ないことではない。義母も義父も美里を溺愛している。

 もし、美里が浩市の家に引き取られることになったら、葉子は身一つで放り出され、葉子が過ごしてきた憤懣やるせない時間は、無かったことのように切り捨てられるのだ。

 葉子は、背筋がぞっとした。

 養育費だけの問題ではない。この先、たとえ葉子が再婚できなくとも、美里さえいれば構わないと葉子は思っている。美里の成長を楽しみに生きることができる。その美里を奪われては、一体葉子の人生に何が残る。

 葉子は、震える手で、湯飲みに茶を注いだ。湯飲みが、渋そうな鶯色の液体で満たされるのを見ても、葉子の関心を引くことはなかった。

 ふと、離婚しない方が得策なのだろうか、という考えが頭に浮かんだ。

 浩市と離婚し、この家を出たからと言って、何かがしたいわけではない。再婚したい相手もいないし、今はパートタイムで時間的に余裕を持って働いているが、正社員になって自分たちの生活費を稼がねばならなくなる。この年齢で、これといった資格や経験もない自分を、果たして雇ってくれる会社があるだろうか。また、自分が病気になった時の不安もある。

 ならば、このまま籍を抜かずに、今の暮らしを続けていくというのはどうだろう。そもそも、浩市の両親は、自分と夫が元通りの夫婦になることを望んでいるのだ。もちろん自分はもう浩市のことを愛してはいないし、夫婦生活をするつもりは毛頭ない。それは、浩市も同じだろう。浩市は自分に負い目があるし、きっと家にいても居心地が悪いに違いない。おそらくは留守がちになるか、或いはまた別の女性と過ちを犯すか。そして、自分と美里は、今と同じく浩市の存在など感じずに、生活費の心配もせず、好きなことをして暮らせばいい。そうだ、今は義母に遠慮してできない習い事なども始めてみよう。浩市が何をしても何も気にしないと、割り切る事ができるならば、結構、快適な暮らしかもしれない。

 そこまで考えて、いいや、そんなことはだめ、と葉子はかぶりを振った。

 自分はそれでいいかもしれないが、美里はどうなる。父親が帰ってきたら、親子三人で幸せに暮らせると信じているのだ。両親の間に流れる冷ややかな空気を感じたら、余計に傷つくだろう。ここはきっぱり縁を切って、美里と二人で暮らす方がいい。美里も最初は辛く感じるかもしれないが、愛のない家で暮らすよりは美里の為になるはずだ。

 葉子は、こめかみに手をやりながら、大きく息を吐いた。

 今まで放ったらかしにしていた問題が、突然、津波のように押し寄せてきた気がして、眩暈を感じた。

 何だって浩市は、今さら突然帰ってきて自分を苦しめるのか。今頃帰ってきて自分を苦しめるくらいなら、いっそ死んでくれていたほうがよかったのに。

 葉子は突然、浩市に対して怒りが沸き上がってくるのを感じた。

 葉子が浩市と過ごした時間は恋愛期間も入れて五年足らず。浩市が失踪してからの時間のほうが遙かに長くなっている。

 その長い年月を作ったのは葉子自身であることに、彼女は気付いていなかった。葉子はもっと早くに現実と向き合い、対処しているべきだったのだ。例えは、あの時、浩市の捜索願を出していれば、葉子の実家の両親に相談していれば、或いは今頃違う人生になっていたかもしれなかった。葉子のやってきたことは、葉子が非難する義母と大差ない。

 とにかく、離婚届に判を貰おう、と葉子は思った。

 できるだけ有利に事を進めるにはどうしたらいいか、離婚した友人から、もっと真剣に話を聞いておけば良かった、と葉子は後悔した。

 葉子は、頭の中で台本を仕上げてみた。

「葉子さんに謝りなさい」

 まず義母がこう言うだろう。だがそれは形式的なものだ。義母の内心は、久しぶりに一人息子が帰ってきた喜びでいっぱいのはずだ。

 謝る夫に対して私はこう言わねばならない。

「謝るのなら、美里に謝ってください」

 自分にではない。美里にである。これがポイントだ。

「あの子がどんなに寂しい思いをしてきたか、父兄参観日にどんな思いをしてきたか、考えたことがあるんですか。父親のいない誕生日やクリスマス、よその家庭を、どんな目で見ていたと思うんですか。お義母さんたちが不憫に思って、貴方からだと言ってプレゼントを買ってくださっていたんですよ。あの子は純粋にも、お父さんは遠くにいても自分のことを覚えていてくれている、と喜んで、まさか、貴方が美里を捨てて家を出ていったなんて、言えるわけないじゃないですか」

 感情的になってはいけない。あくまでも冷静に、静かな口調で喋るのだ。ただ、義母の感情を刺激するよう訴えかけねばならない。

 捨てられた葉子の苦労など言っても、義母にとっては大したことではない。所詮葉子は他人である。自分の息子よりも葉子の味方をするとは考えられない。だから、孫の美里を引き合いに出すのだ。美里がどんなに辛い思いをしたか、これは浩市に対して言うのではない、義母に対して言うのだ。義母は、ややもすれば、久しぶりに帰った息子に、何よりも嬉しさが優先し、自分の息子がやった酷い所行など忘れてしまったかのように甘い言葉をかけるかもしれない。その義母の心を捕らえるために、美里の名を出すのだ。

 神妙に聞いている浩市の横で、義母が涙を浮かべるだろう。

 そして、言うのだ。

「もう終わりにしてください。これ以上、美里に嘘をついているのが耐えられないんです」

 そこで用意してきた離婚届を出そう。

「もう美里は八歳です。いつまでもだまし通せる子供じゃありません。幸い、貴方に似て美里は賢い子です。直に本当のことに気付くでしょう。その時、あの子の小さな心が傷つくのが怖い。私は……、お父さんは外国で死んだ、とあの子に言おうと思っています」

 義父母はともかく、おそらく浩市は容易に離婚に承諾するだろう。義父母が納得しなかったら、最終的には「実家の両親に全部今までのことを話し、それでも両親が離婚するなと言ったら」と言えばいい。彼らは葉子の両親に知られたくないはずだ。それに浩市が既に、他の女性と家庭を持っている可能性もある。

 こうして離婚は難なく成立するはずである。あとは、浩市の家で美里を引き取りたいと言い出したときの事を、葉子は考えなければならなかった。

 葉子は浩市に親権を渡すつもりは更々なかった。

 子育ての一番大変な時に、子供の一番可愛い時に、浩市は自分たちを捨てて家を出ていったのだ。そんな人間にどうして美里を渡せよう。

 浩市が、他の女性と、その間にできた子供を連れて帰ってくればそれで済む。その時葉子は、義父母に対しても優位に立てる。

 そうすれば、と考えたときだった。美里の部屋の引き戸が開いた。

「お母さん、ゲームやってもいい?」

「宿題は終わったの」

「うん。今日の分のドリルもやった」

「外へ遊びに行かないの」

「だって……」

 葉子には娘が飲み込んだ言葉がわかっていたが、わざと気にかけない振りをしていった。

「しかたないわね。一時間だけ、その代わり、夕ご飯の後は無しよ」

「わかってる」

 美里は居間の棚から携帯ゲーム機を取り出した。

 葉子がふと棚の上にある時計を見ると、義母に電話してから小一時間が経っていた。先ほど入れたお茶も、口を付けられることなく、すっかり冷めている。

 美里は、居間の座卓に向かって座ると、ゲーム機のスイッチを入れた。繰り返し流れる陽気な音は、葉子の神経を苛立たせた。


 美里がゲームを始めて間もなく、葉子の携帯電話が鳴った。

 義母だった。

 義母は、会って話がしたいから、家に来てくれないかと言う。美里に聞かせたくないから、とも言った。

 葉子は、いつの間にかゲームに夢中になっている美里の後ろ姿に話しかけた。

「お母さん、ちょっとお仕事の用事ができて、出かけなくちゃならなくなったの。美里、一人でお留守番できる」

「うん、大丈夫」

 美里はゲーム機の画面から目を離さずに答えた。

「夕方には帰るから、人が来てもドア開けちゃ駄目よ」

「お父さんでも」

 葉子は一瞬、顔が凍り付いた。

「お父さんだったら、そうね、ドアは開けずに、先におばあちゃんの所に行くように言って」

「はあい」

 葉子は、台所へ行き、食器棚の引き出しを開けた。横目で美里がゲームに夢中なのを確認すると、奥から一枚の紙を素早く、大事そうに取りだした。その紙をトートバッグに入れると、葉子は、ふと思い出したように居間へ踵を返した。そして、ドレッサーの前で立ったまま腰をかがめ、鏡を覗き込んだ。

 そこにはまぎれもない三十代半ばの女の顔が映っていた。

 葉子は、肩に届かぬほどの短髪の自分を見て、浩市は長い髪が好きだと言っていたことを思い出した。浩市と出会った頃の葉子の髪は、背中の中央あたりまで長かったのだ。浩市が出て言ってから数年、さほど年齢が顔に表れていないと自負しているが、浩市はどう思うだろうか。

 葉子は前髪を手櫛で軽く整えると、エプロンを外し、TシャツGパンの姿のままで、慌ただしく家を出た。


 外は、日差しが強く汗ばむような陽気であった。庭の木々の緑は冴え、過剰な希望を辺りに振りまいている。

 葉子は、そんな様子など目に入っていないかのように、自転車を漕ぎ出した。

 浩市の実家は、同じ町内、葉子のアパートから歩いても十五分ほどの所にある。

 そこには夫がいるのだろうか……。

 急に葉子の胸に激しい動悸がした。

 いよいよだ。七年前に狂った自分の人生が、再び大きく変わるのだ。

 それは、今まで葉子が放置してきた問題と正面から向き合うということだ。

 義母や浩市と、先ほど考えた遣り取りをしなければならない。この時間、義父はまだ仕事から帰っていないだろう。義父は、世間知らずの義母より幾らか話がわかるし、何よりも葉子に同情してくれている。せめて義父が同席してくれれば、と葉子は思った。

 今度こそ勇気を出して決着を付けよう。そう決意して家を出た葉子だったが、その時が近づくにつれ、心が重くなった。

 今まで放置してきた問題のツケに、長い年月の利子が積みかさみ、手に負えないほど大きな問題になってしまっていたのだ。

 ああ、面倒くさい……。

 ふと空を見上げた葉子は、今この瞬間に大地震が起きて、世界が滅びてしまえばいいのに、と願った。


 浩市の実家の前に自転車を止めた葉子は、大きく深呼吸をした。どんなことがあっても理性的であろう、と決意して、呼び鈴を鳴らした。


 葉子はドアを開けると、まず玄関の靴を確認した。玄関は見慣れた様子で浩市のいる気配はなく、義母の不安げな顔が葉子を迎えただけだった。

「ごめんなさいね、葉子さん」

「いえ、で、それで」

「それが……、まあ、とにかく上がってちょうだい」

 義母は葉子を居間へ促した。


 義母はゆったりとした動作でお茶を入れ、「これ、お取り寄せした甘納豆なのよ。京都で有名なお店、なんていったかしら」などと茶菓子の説明をした。

 葉子はそんな義母の様子に苛立ちの気持ちを抱いたが、努めて顔には出さないようにした。

「それで」

 義母が言うには、岡田が、今朝、浩市を見たというのだ。

「十時過ぎ、商店街の喫茶店に入っていくのを見たって言うのよ。岡田屋さんも用事の途中だったから、声を掛けなかったけどって」

「確かに浩市さんだったんですか」

「私もそう言ったんだけど、浩市のことは小学校の頃から知っているし、青年会でもずっと一緒だったし見間違えるわけがないって、岡田屋さんは言うのよ」

「そうですか……。でもお義母さんの所に何も連絡がないんですよね」

「そうなのよ。今日はずっと家にいたんだけど」

「この町に帰っているのなら、何で連絡がないんでしょう。私の所はともかく、お義母さんには」

「まあ、体裁悪いのかもしれないわね」

 あっけらかんとした口調で言う義母に、葉子は腹の底が熱くなった。が、その気持ちを抑えるように、茶をひと口、口にして、ただ黙っていた。

「葉子もあまり気にしないほうがいいわ。この町にいるんなら、その内顔見せるわよ」

 義母はまるで、置き忘れた眼鏡の話でもするような調子だった。


 結局、義母は、何かあったらすぐに連絡するから、と、今までと何も変わらない言葉を言った。美里にはまだ何も言わないようにとだけ念を押した。


 葉子が外に出ると、空は西から橙色に染まりかけていた。

 葉子は肩すかしを食らった気分だった。

 あれほど、思い悩んで、決意してここにやってきたのに。どのような結果であれ、今日で苦悩の時間を終わりにできると思っていたのに。一体先程まで考えていた時間は何だったのだろう。葉子の人生にとって重要なことを、義母は全く真剣に考えていないことを確認しただけだ。

 葉子は、自転車のペダルを踏みこんだ。

 昼間は初夏の陽気であったが、夕方になるとまだ肌寒い。葉子は半袖の腕に、鳥肌が立つのを感じた。

 やがて、茜色の空に、スーパーストアの看板が見えてきた。それは葉子を彼女の日常の時間に引き戻した。

 葉子は急に、家で待っている美里のことを思い出した。

 まだゲームをしているだろうか。そうだ、今日はおやつを与えていない。早く帰って夕食の支度に掛からなければ。

 葉子は、冷蔵庫の中に何があったか思い出そうとした。葉子の思考は、彼女の現実に戻った。今の葉子に一番重要なのは、今日の夕食を何にするか、ただそれだけである。

 浩市のためにあれこれ思案したことが、随分遠い過去のような気がした。

 きっと明日も浩市は帰ってこない。葉子はそう思った。(了)

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